マザー・グースの長すぎる一夜

02:風鈴

 声と共に耳に入るのは、ちりん、という澄んだ音色。
 ほとんど反射的にそちら――奥のカウンター席を見れば、いつの間にか、一人の男が座っていた。
 まず、意識に入ったのは、とにかく派手な服だった。どこかの民族衣装だろうか、色とりどりの刺繍が施された布を幾重にも重ねたような服に、首元や腕、指までを飾る様々なアクセサリーで、僕よりもずっと小さな体をくまなく飾り立てている。
 そして、見た目のうるささばかりに目が行ってしまうが、男自身もなかなか特徴的な風貌をしていた。長く伸ばした黒髪をなでつけて後ろで一つ結びにしており、こけて骨の浮いた頬に、ぎょろりとした目で笑いかけてくる。顔色や表情を見る限り不健康そうというわけではなく、単にそういう顔なのだろう。
「ねえ、マスター? ぼーっとしてないでさぁ~」
 男はこれまたいつ手にしたのか、既に空になっているグラスを振ってみせる。グラスの底には溶けかけた氷と、うっすらと赤い液体が残っている。グレナデン・シロップ――いや、色味からすると、カンパリの赤かもしれない。
 そこまでは、わからなくもないのだが。
「え、と」
 ここからどうしていいものかわからず、硬直してしまう。一瞬前まで客の気配はなく、このバーにいたのは僕一人のはずで。扉が開いた気配もなければ、この男にカクテルを作った記憶もない。ただし、記憶、に関しては今の僕自身が一番信用ならない、といえばそう。
 ただ、一つ、たった一つだけ、はっきり言えることがある。
「申し訳ない、僕は、ここのマスターではなくて」
 ――ということだ。
 何も覚えていないけれど、僕はこの店の「主」ではありえない、という奇妙な確信だけがある。体は店のことを覚えているようだが、それでも、この場所はどこかよそよそしい。場違いである。そんな風に感じられて仕方が無いのだ。
 僕の言葉を、果たして男はどう受け止めたのだろう、きょとんとした顔で大きな目を二、三度瞬かせて……、それから、にぃ、と尖った犬歯を見せて笑った。
「あら、そうなの? それにしては堂に入ったバーテンダーさんに見えるけど」
 果たして、客観的にはそう見えるのだろうか。ここには鏡がないから、僕がどういう姿をしているのか、僕自身にはわからないのだ。かつて鏡を見たときの記憶も、どこかに置き忘れてしまったものとみえる。
 だから、カウンター席に座る客であるその人に伝えたところでどうにもならない、と頭ではわかっていながらも、つい、言わずにはいられなかった。
「恥ずかしながら、僕は、自分が誰で、どうしてここにいるのかもわからない始末でして」
「えっ、それって記憶喪失ってこと? 大変!」
 男は目を見開き、手を口に当てて大げさに驚いてみせる。ただ、その大げささは、決して不愉快なものではなかった。そもそも見かけ自体が大げさだから「当然」のように見えた、というのもあるかもしれない。
「頭痛いとか、目眩がするとか、ちょっとでもおかしな症状が出てたりしない? も~、そんな大事なこと早く言ってよね!」
 不思議と違和感の無い女言葉でまくしたてる男に、僕は「あの」 「その」としどろもどろになるしかなかった。僕が一番状況を理解していないのだから、そんな風に言われたところで、僕に答えられることなんて何もないのだ。
 それでも、何とかかんとか、矢継ぎ早に浴びせかけられる問いかけの隙間を縫うように、言葉を絞り出す。
「体調に問題はありません。頭を打った、という感じでもなさそうです」
「そう? あんた、仮に問題あっても問題ないって言いそうなツラだから心配!」
 ――一体、どんなツラなんだそれは。
 重ね重ね、この場に鏡がないことが悔やまれる。そんな風に言われたら、尚更僕自身の顔が気になってくるじゃないか。
 なおも記憶の混濁とその解消例について片っ端から挙げ連ねていく男の言葉の間に、ふと、涼やかな音色が混ざったことに気づく。ちりん。男の存在に気づいた時にも聞こえてきた、鈴のような、音色。
「今の、音は?」
「ああ、これよ、これ」
 と、男は頭を下げて、カウンターの下に置いてあったらしい荷物を持ち上げて見せてくれる。それは、ぱんぱんに膨らんだ巨大なリュックサックだった。しかも、これまたじゃらじゃらと、鎖や数珠、編まれた紐などが取り付けられていて賑やかで仕方ない。どうやら、そのうち脇に取り付けられた風鈴が、音を鳴らしているらしい。
「随分と大荷物ですね」
「アタシ、各地を旅して面白いものを見て回ってんのよね。んで、面白いお店の話を聞いてここに来たの」
「……面白い、お店?」
「そ。『あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを』 」
 そう言って、男は自分が飲んでいたグラスの下に敷かれていたコースターを示してみせる。僕もさっき目にした文言だ。物語と引き換えにカクテルを。一目では意味がわからない、仮に言葉通りだとして、それは果たして「店」として成り立つのか――と思っていたが。
「ここを経営しているのは、一人の魔女なんだって聞いてる」
「魔女……、ですか?」
 突如として出てきた、現実味からかけ離れた言葉に、思わず聞き返さずにはいられなかった。
 男は、「あちゃー」とばかりに額に手を当ててみせる。
「記憶にございませんって顔ね。そりゃそうか。魔女ってほんとにご存じない?」
「魔法を使う女性、という言葉通りの意味でしか」
「あら、魔女は性別を問わないものよ。かくいうアタシだって魔女だし」
 さらっと言ってのけるものだから、「そうですか」と流してしまいそうになったが、この男、とんでもないことを言っていないか?
「……冗談、ですよね?」
「アタシは嘘はつかないし気の利いた冗談も苦手でね。って言っても、あんたから見たら、頭のおかしいこと言ってるおっさんにしか見えないわよね」
「そうですね」
「もうちょっとオブラートに包みましょ? 客商売なんだからさぁ」
 男はぐったりとカウンターに突っ伏しながら言う。言われたところで、僕が僕自身をバーテンダーだと判断したのは服装からに過ぎず、本物のバーテンダーかどうかすら定かではないのだから、「客商売」と言われても困るのだ。
「とにかく、ここ『マザー・グース』は魔女のバーなのよ。物語を糧とするとある魔女が、『語り』を蒐集するために作った、ちょっとした隠れ家風のバーって聞いてる」
「なるほど?」
「うーん、まるで納得いってない『なるほど』だわね……」
 申し訳ないが、僕は魔法や魔女と言われてもそう簡単に納得できる性質ではない。そして、僕がそう考えていることも十二分に承知しているらしく、「まあ、別に信じなくてもいいけど」と付け加えた自称魔女の男は、カウンターに上体を預けた姿勢のまま、顔だけを上げて言う。
「で、今はその店主たる魔女が不在で、代わりにあんたがここに立ってる」
「……と、いうことになりますね。どうしてこんな事態になっているかは、わかりませんが」
「あんたがわからなくても、店は確かに開いてて、開いてるからアタシがお邪魔してるわけよ」
 いつ入ってきたのかは、さっぱりわからないが。
 ついでに、何故か既に一杯頼んだ後のように見えるが。
 状況に対していくつもの疑問符は浮かぶが、男は僕の気持ちなど知ったことないとばかりに堂々と話し続ける。
「つまりこれって、ほんとのマスターが不在でも、店は成り立つってこと。……あんたが、今宵限りのマスターをやってくれれば、ね」
「僕、が?」
「だって、お店は開いてるのに、主人マスターがいないと話にならない」
「それは因果関係が逆では?」
 そんなもの、主人がいる日に店を開くのが筋だろう。しかし、自称魔女は愉快そうに笑うのだ。
「それこそが魔法よ。因果をひっくり返す。ゼロをイチに、イチを更に別のものに」
 歌うような男の声が、僕の脳裏に焼き付いて離れてくれない。それは酷く不安になる言葉だ。僕が認識している常識、この世界のルールが、まるごとひっくり返されるような感覚。今まで感じてもいなかった目眩が、僕の足下を、世界を揺らしている、ような――。
「まあ、あんたには理解できないだろうし、それでもいいの」
 それでもいい。そんなの何の気休めにもならない、という反発を感じながらも、足下の揺れるような感覚はその一言で消え去った。代わりに、はっきりとした視界が、僕と、目の前の男と、それ以外に「まだ」誰もいないバーを捉える。
「記憶も無いんじゃ、帰る場所もわかんないんでしょ。一夜くらい、マスターの真似事をしてたってバチは当たんないでしょ」
 適当なことを言ってくれる。記憶がないってことがどれだけ不安かわかって言っているのか、とでも言い返してやりたかったが、僅かに睨むだけに留める。
 気づいてしまったのだ、記憶を失っているということに対して、僕自身がそこまで焦燥を覚えていない、ということに。カウンターを挟んで、客と向き合っている。その状態が「正しい」ものである、なんて理性的には絶対に間違っていると思うのだが、自然とそんな思いが浮かんでくる。これが……、魔法、とやらなのだろうか?
 戸惑う僕をよそに、カウンター席の自称魔女はあくまでマイペースに語りかけてくる。
「ってなわけで、一杯作ってくれないかしら? これと同じものを」
 これ、と言われても、男の手の中にあるのは空のグラスで、作った記憶のないものと「同じもの」の検討など、つくはずもない――と、思ったが。
 男が差し出したグラスを手に取る。ロックグラスに溶けかけた氷、うっすら残ったカンパリ。それから、さっきは手に隠れて見えていなかったオレンジスライス。
「……ネグローニですか?」
「当たり、やるじゃん。アタシこれ好きなのよね~!」
 ジンとスイート・ベルモット、そしてカンパリ。氷で満たしたロックグラスに全てを同じ分量で注ぎ入れる、ロングドリンクタイプのカクテルがネグローニだ。カンパリの鮮やかな赤色がスイート・ベルモットによって深められ、更に彩りと爽やかな香りを加えるためにオレンジスライスを添えることが多い。
 にこにこと嬉しそうに笑う男に背を向けて、先ほど一旦は片付けたジンの瓶をもう一度取る。それからスイート・ベルモットにカンパリ。確かさっき冷蔵庫にオレンジはあったから、問題なく作れそうだ。
 そんな風に算段を立てていると、男の呟きが、微かに耳に届く。
「今日は、長い夜になりそうね」
 男の言葉に、ちりん、と、風鈴が応えたかのようだった。