いつの間に、眠っていたのだろう。
妙に重たい瞼を持ち上げれば、まず、目に入ったのはカクテルグラスだった。
うっすらと曇ったグラスを満たす、ほのかに透き通った乳白色の液体は何だろう、と、その後ろに置かれた瓶を見やる。
ジンにホワイト・キュラソー――、まず思いつくのは、ホワイト・レディ。レモンジュースは確かカウンターの奥だ。
ぼんやりとした頭でそこまで考えたところで、我に返る。自分は、何故カウンターに突っ伏して眠っていたのだろう?
いや、それよりも。
――ここは、どこだ?
バー、なのは見ればわかる。曇り硝子が嵌め込まれた見るからに重たそうな扉、柔らかな明かりに照らされたカウンターに、脚の長い椅子が数脚。それだけが全ての、小さなオーセンティック・バー。
けれど、僕はこの風景を知らない。あるいは、覚えていない。一体どうやってここに訪れたのかも思い出せない、と、記憶を手繰ろうとしたところで、もっと重大なことに気づいてしまう。
手繰る記憶が、無いのだ。
僕自身の名前も、今までしてきたことも、どこから来て、どこに行こうとしていたのかも、何一つがまっさらで、手繰りようがない。
せめて、何か僕自身の素性がわかるものが置いてあったりしないか、と辺りを見回してみたが、生憎荷物らしきものは目に入らない。ただ、ただ、客を迎えるために塵一つなく清められ、整えられたバーだけがある。
けれど、ここにいるのは僕一人で、客を迎えるはずのバーテンダーの姿は見えない――、と、思ったところで僕自身のやや浅黒く無骨な手と、対照的に目に焼き付くほど白い袖が目に入り、それから自分の姿を確かめてみる。
糊のきいた白いシャツに、黒いベストとスラックス、きっちりと磨かれた革靴。つまり、どうやら、僕自身がバーテンダーであるらしい。
……バーテンダー? 僕が?
一瞬、浮かびかけた違和感。けれど、違和感の由来すら思い出せないようではどうしようもない。今はただ、一つひとつ、目の前にある事象から、僕自身が置かれている状況を掴んでいくしかないのだ。
満たされたグラスに視線を戻す。グラス表面の結露の感じから見て、まだ作って間もないように見える。しかし誰が、誰に向けて? 考えたところで答えの出ない問いを巡らせながら、グラスを手に取ってみたところで、その下に敷かれたコースターに意識が向く。
いや、正確にはコースターに書かれた文字、と言った方がいいか。柔らかな紙に刻み込まれている琥珀色のアルファベットは、こう読めた。
「バー、マザー・グース……?」
マザー・グース。どこかで聞いたような言葉だが、意味が思い出せない。もどかしさを感じながらも、その下に書かれている小さな文字列を更に読んでいく。
――あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを。
物語と引き換えに。そもそも物語とは何を指すのだろう、金銭的対価は必要ではないのか、それで店の経営が成り立つのか。この場所について何もわかっていない僕が心配しても無意味なことだとは思うが、つい、そんな益体もない考えが浮かんで消える。
手の中のカクテルも、誰かの物語と引き換えに作られたものなのだろうか。けれど、この場には客はいなくて、何も覚えていないバーテンダーの僕しかいなくて。
時間が過ぎれば過ぎるだけ、カクテルは作り手の想定した味を失っていく。当初の冴え冴えとした冷たさが刻一刻と奪われていくことを思うと、この場に誰もいないことをいいことに、つい、「誰のため」ともわからないグラスに口をつけてしまう。
ジンの持つ複雑な香りと、ホワイト・キュラソーとレモン・ジュースの柑橘の味わいが織りなす、柔らかな刺激とほろ苦さ。どうやら、ホワイト・レディという見立ては間違っていなかったようだ。
まだ冷たさを失っていなかったそれを飲み下せば、アルコールのもたらす熱が身の内を満たしていく。熱を感じこそするが、強さは問題にはならない――そう思える程度には、僕は酒には強いらしい。
まっさらで、空っぽの器に、雫を落とすように。一口、もう一口と飲み進めていく。やがて、グラスは空になり、僕はグラスとコースターを手に立ち上がる。
この場が客を迎えるように整えられているなら、飲み終えたグラスはすぐにでも片付けるべきだ。新たな客がここに来る前に。……不思議と、躊躇いなくそう思ったのだった。
カウンターの裏に回り、グラスをゆすぎ、水滴一つ残さぬように拭いて、片付ける。記憶はなくても、体は自然と動くものらしい。グラスを片付ける位置にも、何故か迷うことがなかった。それを思い出せるのなら、せめて僕が誰なのか、くらいは思い出せてほしいものだが。
棚に置かれた、色も形もラベルの模様も様々な酒瓶たち、作るカクテルに合わせた形のグラスたち、そしてカクテルには欠かせない、砕かれた、あるいは切り出された氷もある。冷蔵庫の中にはある種のカクテルを作るためのフルーツが入っていて、何を作るにもひとまず困らなそうだ。
けれど、この店のことは何も思い出せないし、そもそも僕自身をバーテンダーだと判断したのも、あくまで服装がそうであったから、以外の何でもない。その僕が、客に提供する側に立っていること自体が間違っているのではないか、と思い始めたところで。
「ねえ、マスター?」
不意に、声をかけられた。
マザー・グースの長すぎる一夜