壁に絵画が飾られている。
青い、青い、絵。色合いの微妙に違う「青」が幾重にも重ねられている、何を描いているのかよくわからない、酷く抽象的に思える絵。ただ、その青の細やかな色使いやところどころに描かれた白い靄らしきものの精緻さは、まるでそのものを見て描いたかのような――そんな、不思議な絵であった。
ハロルド・マスデヴァリアはぼんやりと絵画の前に立ち尽くしていた。そんな客人の姿を見つけた家の主人――アシュベリー氏が気さくに声をかける。
「その絵が気になりますかね」
ハロルドはアシュベリー氏の声にはっとして、目をぱちぱちと瞬かせる。それから、やっと普段の調子を取り戻して、ゆったりと微笑んだ。
「綺麗な絵ですね。どなたの絵なのです?」
「それが、誰にもわからないのですよ」
誰にも? と、ハロルドはその言葉を鸚鵡返しにする。アシュベリー氏は鷹揚に頷き、言葉を続ける。
「先日、軍にいた知り合いが亡くなりましてね。その形見分けで譲ってもらったものなのですよ。ただ、画題も作者の名もどこにも記載がなく、絵に詳しい者に見てもらっても、全く知られていないものだという」
「……それはまた、不思議なものですね。これだけの絵を描く画家の名がまるで知られていないとは」
ハロルドは絵に特段精通しているというわけでもないが、それでも、この絵には惹きつけられるものがあった。どうしても目が離せなくなるだけの力が、絵画いっぱいの「青」にこめられている――そう、ハロルドには思えたのだった。
そして、この絵を描いた画家についても、思いを馳せる。ハロルドには、この絵が何を描いているのかわからない。きっと、この絵を見たほとんどの人間がそう言うだろう。もしくは、自分の中でその答えとなりそうなものを導き出すのかもしれない。
では、画家はそれを意図したのであろうか。何となく、そうではないような気がするのだ。もちろん、それもハロルドの想像に過ぎないのだが――。
ふと気づけば、いつの間にかアシュベリー氏はその場から姿を消していた。おそらく、鑑賞するハロルドの邪魔にならないよう――そして、自らが抱えた大量の用事を済ますためにも――この場から去ったのであろう。
だから、ハロルドは今一度絵と向き合う。
ぼんやりと、その果てしない青さに思いを馳せる。
「珍しいな。……お前が、この手のものに興味を示すとは」
「そうかな」
ハロルドは振り向きもせずに声に応える。声の主である従者クライヴ・チェンバーズは、ハロルドの影法師であるかのように彼の側に微動だにせず立ち続けたまま、問いかけてくる。
「欲しいのか?」
「いや、別に。絵画なら溢れるほどあるしね」
ハロルド自身が買い集めなくとも、自然と集まってくるそれらを飾るのは使用人たちの役目で、ハロルドは特にそれらに意識を払ったことがない。だから、確かに今の自分は珍しいことをしているのだろう、とハロルド自身も思いはする。
思いは、するけれども。
「ただ、勿体無いな、って、思っただけだよ」
ハロルドは振り向いてクライヴに笑いかけ、クライヴは常と変わらぬ仏頂面のまま、その言葉を受け止める。
「さあ、今宵の主役に会いに行こうじゃないか」
言って、足を踏み出そうとして、もう一度だけ絵に向き直る。
きっともう、二度と見ることはないだろう、その青さを目に焼き付けて――今度こそ、今宵の主役の待つ部屋へと歩を進める。
「やあ、ランディ。招待ありがとう」
――それは、アシュベリー家で執り行われる宴の日の出来事。
もしくは、後に『アシュベリー家放火殺人事件』と呼ばれる日の出来事。
霧世界報告