霧世界報告

亡霊は囁く

魂魄を通して、高らかな歌声が聞こえる。
 それが女王国最速にして最強の霧航士ミストノートゲイル・ウインドワードの声であることは、オルトリンデもはっきりと理解していた。
 それが、すぐに、目の前に現れるだろう、ということも。
「お願いします、オルトリンデ」
 前方に浮かぶ、黒き機関鎧――戦乙女ヴァルキューレを束ねるブリュンヒルデの言葉に、オルトリンデは一つ頷く。
 戦乙女ヴァルキューレ、『蒼の』オルトリンデ。それが彼女に与えられた機関鎧の識別名称であり、今や彼女自身の名でもあった。
 魄霧を吸いながら体内に収められた演算機関を唸らせ、探知記術サーチ・スクリプトを展開する。オルトリンデの真価は、手にした槍を振るう力以上に、この探知能力にある。深い魄霧の海の中で、味方の位置を正しく把握し、敵の挙動をいち早く察知することは、戦における必須条件だ。
 故に、自由に霧の海を駆ける他の戦乙女ヴァルキューレより鈍重な一方、大規模な演算機関を積みこみ、後方で高速かつ広域の探査を行うオルトリンデの存在は、戦乙女ヴァルキューレ隊の要ともいえた。
 オルトリンデの視界に映るのは、目の前の風景と、他の戦乙女ヴァルキューレたちにも同時に展開されている記号化された広域探知結果。味方機は青、敵機は赤。そのうち、小さな赤い光点が異常なまでの速度で接近しているのが、わかる。
「女王国、霧航士ミストノート部隊が接近中。一隻、突出した翅翼艇エリトラが高速接近中」
「 『蜻蛉』ですね」
 高らかな歌声が、迫ってくる。蜻蛉によく似た姿をした、薄青の翅を広げた翅翼艇エリトラが、今まさに戦乙女ヴァルキューレに食らいつこうとしている。
 ブリュンヒルデの声に従い、戦乙女ヴァルキューレたちが最速の翅翼艇エリトラを、その後ろから迫る女王国の蟲どもを迎え撃つ。オルトリンデもいつでも飛び出せるよう槍を構えた姿勢のまま、演算を続けていく。
 ゲイル・ウインドワードの駆る蜻蛉――翅翼艇エリトラ『エアリエル』を迎え撃つのは、戦乙女ヴァルキューレの中でも機動力に秀でる『白の』ロスヴァイセが主だ。それでも、陸海どちらの戦場でも自在に戦える、というコンセプトの戦乙女ヴァルキューレに対し、海上の機動に特化した翅翼艇エリトラを完全に捉え切ることはなかなかに難しいため、広域攻撃手段を持つブリュンヒルデがサポートに回る。
 ロスヴァイセが『エアリエル』と接触し、光弾が舞い散り始める。撒き散らされる衝撃に微かに探知網に乱れが走るものの、即座に補正の式を噛ませて誤差を修正する。
 その時、だった。
「っ、亡霊がいない! オルトリンデ!」
 ロスヴァイセの声が、警告を発する。はっとして槍を握る手に意識を向けるも、その槍を突き出す場所もわからないままに、全身に、本来ならば在り得ざる「寒気」が走る。
『やあ、オルトリンデ』
 そして、すぐ耳元で囁く、声。
 次の瞬間、がぎっ、という鈍い音と共に僅かな衝撃が全身に伝わる。攻撃を装甲で受け止めたのだろうが、出所はわからない。そう、オルトリンデの視覚にも、探査の網にも、何一つ映ってはいないのだ。
 なのに、声は。翻訳をかけずともオルトリンデが親しんでいる帝国語で聞こえてくる男の声は、くつくつと押し殺した笑いを流し込んでくる。
『あはっ、やっぱり硬いね。君の身体に、ボクの痕をつけてあげようと思ったのに』
「亡霊――!」
 戦乙女ヴァルキューレたちの間では、それは「亡霊」と呼ばれていた。オルトリンデや他の戦乙女ヴァルキューレがどれだけ探知の網を広げても尻尾すら掴ませないそれは、まさしく姿形を持たない亡霊を思わせた。
 それでも、誰の眼にも映らないそれが、確かにそこに存在している一隻の翅翼艇エリトラであることだけは確かだった。
 隠密攻撃翅翼艇エリトラ『ロビン・グッドフェロー』。高速戦闘翅翼艇エリトラ『エアリエル』を相手取る際に、必ずと言っていいほど現れる姿なき船。名だけは帝国軍でも掴んでいるが、不気味ともいえる隠密性能がどのように実現されているかは、未だ明らかになっていない。
 乗り手の情報も不明だが、時々傍受する女王国側の通信が「トレヴァー」と聞き取れる名前を呼ぶことがあったから、おそらくはそのような名を持つ霧航士ミストノートなのだろう。
 オルトリンデは空を蹴り、思考の片隅で探知情報を更新し続けながら、両の肩口から複数の光弾を放つ。圧縮魄霧追尾式の、対翅翼艇エリトラに特化した光の矢は、しかし何かを捉えることはなく虚空へと消えて行く。
『どこを狙ってるんだい? ボクはこっちだよ、オルトリンデ』
 くすくす、くすくすと。不愉快な笑い声が、あちこちから響いてくる。魂魄に滑り込んでくる声はこれほどまでにはっきりしているのに、通信の発信元は巧妙に隠されている。
 ただ、その一方で、姿なき亡霊から放たれる攻撃はそう激しいものではない。隠密性能を生かすために強力な火器を積むことができないのだろう、ということは、今までの数度の接触から戦乙女ヴァルキューレたちが導き出した推測だった。
 これほどまでの隠密性能を実現するには、それこそオルトリンデと同等かそれ以上に巨大にして強大な演算機関が必要になる。その分、火器管制や機動力など、本来持っていた何がしかの機能を犠牲にしている可能性が高い。
 体の表面で何かが炸裂する気配を無視して、オルトリンデは探知を続ける。
 亡霊の役目は、オルトリンデの妨害のはずだ。「目」であるオルトリンデを潰すことができれば、霧航士ミストノート側が圧倒的に有利になる。逆に、ブリュンヒルデとロスヴァイセが蜻蛉を――あれは高速戦闘翅翼艇エリトラであると同時にオルトリンデ同様の索敵機でもある――抑えられれば、戦乙女ヴァルキューレ側の勝利に繋がる。
 時折、あらぬ方向から襲いくる衝撃を、記術障壁と持ち前の装甲で殺しながら、見えない船の位置を演算する。攻撃が放たれる方向、ダメージ、そしてその間隔。目に見えなくとも、実際に攻撃を受けている以上、情報をかき集めればある程度の推測は立つ。
 ……が。
 次の瞬間、オルトリンデの肘に当たる部分に違和感が走ったかと思うと、爆音と共に関節の装甲が弾け飛ぶ。
「く……ぅっ!」
 どうしても装甲を薄くせざるを得ない、関節部を狙った精密射撃だ、と。一拍遅れてオルトリンデは理解する。
 機関鎧の破損は魂魄レベルの「痛み」には変換されないが、それでも激しい警告の情報として魂魄に流れ込んでくる。つい声を漏らしてしまったオルトリンデに対し、姿なき声は愉しげに笑う。
『ふふ、いい声。そこが感じるんだ?』
 ねっとりとした声は、オルトリンデがその名を名乗るようになる前の、ただの「人」であった頃の感覚を呼び起こす。肌の上を何かが這い回るような嫌悪感は、魂魄を埋めるアラート以上に、オルトリンデの心を掻き乱した。
「ふ……、ざけないで!」
 霧を蹴り、光の矢を放つ。幾度もの演算を経て放たれたはずのそれらは、しかし、それでも亡霊を貫くには至らない。否、もしかすると計算は正しかったのかもしれない。オルトリンデの動揺を受けて、矢の射出方向が僅かに乱れたことは、放ったその瞬間にわかっていたから。
『ふざけてなんていないよ。ボクは、いつだって、本気だ』
 ふっと、魂魄を震わせる声のトーンが落ちると同時に、続けざまに、爆薬を仕込んだ楔が関節部に打ち込まれ、破裂する。いくらオルトリンデが他に比べて鈍重とはいえ、動き回る機関鎧の隙間に違わず弾を撃ち込むなど、まともな芸当ではない。
 ゲイル・ウインドワードとその相棒、オズワルド・フォーサイスも脅威だが、この亡霊の「精密さ」は下手をすれば『エアリエル』よりも脅威といえる。
 これは、自分ひとりでは太刀打ちできない相手だ。相手に気取られないよう、戦乙女ヴァルキューレたちに支援要請を送信しながら、オルトリンデは緊張と恐怖を飲み下し、見えない船を「見」ようと目を凝らす。
 ここで、落ちるわけにはいかない。戦場にあり続けることこそが、「目」の役割なのだから。
 無数の警告を一旦意識の片隅に投げやって、虚空に向けて言葉を投げかける。
「……っ、淑女に対して随分な仕打ちじゃない、霧航士ミストノート? 紳士だったら、名前くらい名乗ったらどう?」
 苦し紛れとも言えるオルトリンデの言葉に対し、声は『ああ』とあっけらかんとした調子で答えた。
『そういえば、名乗ったことはなかったね。ボクはトレヴァー・トラヴァース。女王国海軍中尉、第二世代霧航士ミストノート。隠密攻撃翅翼艇エリトラ「ロビン・グッドフェロー」の操縦士。これでよろしいでしょうか、お嬢さん?』
 意外にも、望んだ通りの答えが返ってきた。ゲイル・ウインドワードもそうだが、霧航士ミストノートというのはどうも機密保持という意識が足りていないように思える。だが、今のオルトリンデにとっては、この男――トレヴァーのお喋りさが、ありがたかった。
『それにしても、そんなどうでもいいことを聞くなんて、時間稼ぎのつもり? なら、ボクの質問にも答えてほしいな、「蒼の」オルトリンデ』
 どうやらトレヴァーは、これが「時間稼ぎ」と理解しながら、攻撃の手を休めている。オルトリンデに加えて他の戦乙女ヴァルキューレを同時に相手取ったとしても負ける気がしない、という余裕の表れだろうか。それとも、本当に何も考えていないのか。
 オルトリンデの理解を拒み続ける霧航士ミストノートは、オルトリンデの沈黙を肯定と捉えたらしく、話を進める。
『ずっと、噂だけ聞いて、気になってたんだ。ねえ、オルトリンデ』
 耳元で囁くような甘い声は。
戦乙女ヴァルキューレを操っているのは、人為的に蒸発させられた人間だって、本当?』
 いやによく、魂魄の内側に響いた。
 かつて「人」であったころの肉体が、徐々に空気の中に溶けていく感覚を。魂魄が本来の肉体を忘れていく感覚を。そして、機関鎧が己の新たな肉体となった日の感覚を、思い出す。
 人間の肉体を人為的に蒸発させ、機関鎧に詰め込む。その工程を非人道的だと訴える者も数多い。それこそ、帝国の中ですら戦乙女ヴァルキューレのあり方に意を唱えるものは多い。それでも、それでも。
「そうだけど。何か、文句でもある?」
 オルトリンデは虚空を睨む。そこに話し相手はいないだろうとわかっていながら、それでも睨まずにはいられなかった。この男もまた、戦乙女ヴァルキューレのあり方を否定するのだろう、と思ったのだが。
『いいや、羨ましいのさ!』
 トレヴァーの言葉は、オルトリンデの想像をやすやすと裏切った。
『だって、魂魄が擦り切れて果てるまで、戦乙女ヴァルキューレであり続けられるんだろう? 脆弱で無駄の多い肉体から解き放たれて、機能を突き詰めたモノでいられるんだろう?』
 その言葉は――オルトリンデには、狂気としか思えなかった。
 確かに、戦乙女ヴァルキューレとはトレヴァーの言うとおりのものだ。そして、戦乙女ヴァルキューレに志願した者たちは、泥沼の戦を経て疲弊していく国を思い、全てを捨ててでも『戦乙女ヴァルキューレ』という機能を得て、戦に終結を打つことを望んだ者たちだ。
 だが、トレヴァーは。目には見えない霧航士ミストノートは。
『ボクだって、できればそうしたいよ! こんな体捨て去って、船と溶け合って一つになりたい。ただ抱かれているだけ、繋がっているだけじゃ、物足りないんだ!』
 ただ、ただ、己の欲望のままに、戦乙女ヴァルキューレに羨望の眼差しを向けるのだ。
 それを「狂っている」と言わずして、何というべきだろうか。
『それに』
 しかし、不思議なことに。
「それに?」
 トレヴァーの言葉を、その思想を、もう少し聞いてみたいと思ってしまったのだ。
「それに、何だっていうの?」
 オルトリンデの問いに、トレヴァーはふ、と小さく息をついて――よく通る声で言い放った。
『戦う機能だけのモノであるなら、戦いが終わった日が、存在の終わりでもある。ボクはね、そういう「わかりやすい」モノが何よりも羨ましいんだよ、オルトリンデ!』
 次の瞬間、オルトリンデのすぐ横で何かが炸裂する。魂魄よりも先に異変に気づいた機関鎧が障壁を張り巡らせた次の瞬間、オルトリンデの死角から、爆薬を載せた楔が殺到する。
『ねえ、オルトリンデ! 愛すべき戦乙女ヴァルキューレ! 君の大事なところを見せて。戦乙女ヴァルキューレの力を、機能を、そのあり様を見せて。恥ずかしがらないで、ボクが一つずつ暴いてあげるから……、さあ!』
 虚空から投げかけられるそれは、狂気にして狂喜の声であるはずなのに。
 ――何故だろう。
 オルトリンデには、不思議と、悲鳴のようにも聞こえたのだった。