かくして小林巽は、隈が浮いて更に凶悪さを増したオッド・アイを細めて、きっぱりと言った。
「却下だ」
「ですよねー」
「わかってんなら言うなよ……」
一夜が明けて、長谷川の部屋にて。
疲れた顔で言ったアサノに対し、小林もまた色濃い疲労をあらわにして肩を落とす。長谷川がおろおろとアサノと小林を交互に見ているのが視界の端に映ったけれど、今はとにかく小林から目を逸らすと祟られそうなので、そちらに意識を戻す。
「でも、コバヤシさんも考えたんじゃないすか?」
「それは言わねえお約束だ」
ああ言いながら一度は考えたんだな。アサノはちょっとだけジト目になって小林を睨んだ。だが、本来何もかもを理性と効率で処理したがるこの元神様が、その手段に思い至らないはずがないのだ。
そう、泥沼の様相を呈し始めた対ストーカーの日々に決着をつける方法は、余りにも簡単であった。
――長谷川を、一人で泳がせればよい。
秋谷の言うとおり、それはあまりに乱暴で無責任に過ぎる。だが、昨日も長谷川を一人にした瞬間にストーカーに襲われたのだ、こちらが護衛の手を緩めてみせれば釣れる可能性は高いと考えられる。そして、このまま二人で延々付きっ切りで長谷川を守る、というのも現実的でないことは事実として認めなければならないのだ。
小林はもはや何杯目かもわからないブラックの珈琲を一気に飲み干すと、ほとんど据わった目で窓の外を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……や、必ずしも、コズエを一人にする必要はねえのかもしれねえ。まだこれは試してなかったな」
「え?」
嫌な予感がした。予感どころの話じゃない、これは「確信」だ。いつもはろくに頭も回らないのに、こういう時だけ勘がいい自分が恨めしい。アサノの想像通り、小林はアサノの肩をぽんと叩いて言った。
「アサノ。お前、コズエを守りきれるな」
当然ながらそれは質問ではなく、命令だった。
アサノはうえー、と露骨に舌を出して言った。
「コバヤシさーん、それはそれで乱暴で無責任っすよー」
「唯一の妥協案だ。お前さんのことを信頼してるから言えるんだぜ。それとも嫌なのか?」
そう言われて「嫌だ」なんて言えるわけないではないか。
アサノも長谷川を守ることに異論はない。そのために小林と協力して長谷川についているのだから。それでいて思わず嫌な顔をしてしまうのは、単純に、コズエを一人で守り通すのは責任重大すぎて自分の肩には重過ぎると思ってしまったからだ。
小林もアサノが本気で嫌がっているわけではないのは承知しているのか、アサノの返事は待たずに長谷川に青と緑の瞳を向ける。
「と言っても、コズエに危険な思いさせちまうのは変わりねえ。俺らも、百パーセントの成功を保証出来るわけじゃねえんだ。だから、嫌なら遠慮なく言ってくれ。また別の手段を考えるから――」
小林が言いかけたところで、長谷川はきっぱりと首を横に振って言った。
「いいえ、早く捕まえることが出来るなら、構いません。コバヤシさんたちのこと、信頼してますから」
アサノは、小林を見上げる長谷川の瞳に不安が揺れているのを見て取った。信頼してくれていたとしても、そこに危険があることには変わりなく、実際に危害が及ばなくとも、嫌なものを見てしまうことは間違いないのだ。
それでも、長谷川は迷わずにそう言い切った。それはストーカーに怯えて眠れない日々と、一瞬の危険を天秤にかけた結果でもあるのだろう。
小林は長谷川の決意を見定めようというのか、しばし長谷川を鋭い視線で見下ろしていたが、ふっと溜息をついて肩を竦めた。
「そう言われちゃあ、俺様も頑張らないわけにゃあいかねえな」
それじゃあ、という長谷川の言葉に続けて小林が言い放つ。
「オーケイ、実行だ。アサノ、せいぜい守り神様にしっかりお願いしとけよ」
「了解っす」
アサノは左手を上げようとして、慌てて右手に切り替えて軍隊式の敬礼の真似事をした。一度、「敬礼は右手でするもんだ」と小林に訂正されたことを思い出したのだった。
そんなアサノと小林のやり取りを見て、長谷川はくすくすと笑った。久しぶりに、緊張が解けたようでもあった。きっと、昨日の夜もまともに眠れていなかったはずだから、この変化にはアサノも少しだけ安心する。
「そういやコバヤシさん、一晩女の子の家で過ごして何もなかったんすか」
あるわけねえだろ、と小林は眉を寄せて言い放つ。
小林は長谷川の護衛も兼ねて、昨日から今日にかけてここで一夜を過ごしている。本当はアサノが泊りがけでストーカーを警戒するのが一番良い方法ではあるが、突然「友人の家に泊まる」と言って許してくれる親ではなかったため、昨日だけは小林に任せるしかなかったのだ。
「お前は何を期待してる。っつか俺様を何だと思ってる」
「男は皆ケダモノで、特にコバヤシさんには気をつけろとトートさんが」
トート、というのは探偵事務所の副所長、歪曲視の師匠のことである。
その名前を聞いた瞬間、小林はちっと舌打ちして「いくら何でも殴りてえ」と吐き捨てるように言った。歪曲視と元歪神というかけ離れた立場からか、それとも全く別の理由か、副所長と小林はあまり仲がよくない。アサノの目から見る限りは、一方的に副所長が小林を嫌っているようでもあったが。
とはいえ、アサノはともかく長谷川がそんな因縁を知るはずもなく、失望の視線で小林を見上げる。
「コバヤシさん、そんな不埒なこと考えていたんですか?」
「考えてねえ! 断じて! 花屋のお嬢さんに誓って!」
小林は慌てて誓いを立てるが、その花屋のお嬢さんは、あくまで小林の脳内彼女である。いや、脳内彼女というのは正確でなく、「花屋のお嬢さん」も実在してはいるのだろうが、それは小林が思いを寄せる相手であって決して恋人ではない。
長谷川は「そうですか」と胸を撫で下ろしてみせたが、すぐにちょっと俯いて言った。
「……それはそれで、ちょっと、寂しい気もします」
「乙女心がわかってねえっすねえ、コバヤシさん」
「どうしろっつうんだよおおおお!」
どうしろもこうしろも、長谷川とアサノに遊ばれているだけであることに気づいていないのだろうか。小林が長谷川をどうこうする気がないことくらい、アサノにはわかりきっているし、長谷川もここ数日一緒にいて既に察しているに違いない。
しばし金色の頭を抱えてもだもだと床に転がっていた小林だったが、「って言ってる場合か!」と叫んであっさり復活した。この立ち直りの早さは見習うべきかもしれない。
ぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、小林は宣言する。
「とにかく! 善は急げっつうしな、早速始めるぞ」
「今からっすか?」
アサノの問いに、小林は「そうだ」と言い掛けたように見えたが、視線をちらりと窓の外に向けてから言った。
「や……人目があると奴さんを誘いづらいしな。夕方、この裏手から北に続く通りで試すか。あの道なら見通しも悪いし、奴さんとしても好都合だろ」
「は、はい」
長谷川は緊張した様子で頷く。緊張するのは当然だ、アサノだって緊張している。小林だけが落ち着き払った様子で説明を続ける。
「奴さんがどこで見てるかはわからねえが、俺様はお前らより先にここを出る。俺が離れたことを奴さんが見てりゃ占めたもんだ。で、お前らは適当な時間に出てきてくれればいい。奴さんがお前らの後をつけるようなら、俺様がその後ろからとっ捕まえる」
「もし、コバヤシさんが張ってることがバレたら?」
「そん時は別の手段を考えるまでだが、ま、俺様がヘマしないよう祈っといてくれ」
言い方は軽いが、小林が真剣だということは、表情からわかる。ヘマをする気はない、という自負があるからこそ、言えることなのかもしれない。どうあれ、アサノに出来ることは小林を信じること、そして自分を信じることだけだ。
「そっちはよろしくっす。あたしもハセガワさんが危なくならないように頑張ります。よろしくです、ハセガワさん」
「はい。よろしくお願いします、アサノさん」
長谷川は強く頷いた。それを見て、アサノも少しだけ勇気が湧いてくる。自分に出来ることなんて大したことはないが、それでも長谷川の不安を少しでも和らげることが出来たら、それはそれで素敵なことではないか。
大丈夫。怖くないと言ったら嘘になるが、今回は一人ではなくて、小林がいる。そして……アサノには、守り神だってついている。
顔を上げて、窓の外を見つめ。
「クジラさん、あたしたちを守ってくださいね」
町の守り神である巨大な鯨が、青い空の向こうで片目を瞑ったように見えた。
そして……作戦決行の時間がやってきた。
こんな時でもきっちり仮眠を取ってみせた小林は、時間ぴったりに起き出して、挨拶もそこそこに、当たり前のように部屋の外に出て行った。流れるような一連の動きを驚きの目で見ていた長谷川に、アサノが仕方なしに解説する。
「コバヤシさんって、完璧な体内時計の持ち主なんす」
「な、何か……本当に不思議な人ですね」
「変な人、なら同意に値します」
初めはアサノももう少しソフトな言い方をしていた気がするが、付き合っているうちに「変な人」だという認識が植えつけられてしまった。見かけもさることながら、内面も微妙に人間離れしてしまっているのだから仕方ない。
窓の外を見てみると、ちょうど小林が道を歩いているのが見えた。堂々とした歩きっぷりはいつものことだが、これならばもしストーカーが張っていても見間違いはしなかったに違いない。
作戦では、小林は適当なところで身を隠して長谷川たちが外に出てくるのを待つ。そして、長谷川たちをストーカーが追ってくるようならば、小林は後ろからストーカーを捕まえる、ということだったが……
「コバヤシさん、大丈夫でしょうか」
「あー、あの人ああ見えてめっちゃ強いんで、全く心配しなくてオーケイっす」
見かけはひょろ長くて非力そうで、実際さほど力があるわけではないらしいが、彼が喧嘩で負けたという話は聞いたことがない。絶対記憶能力を持ち、完璧な体内時計を持ち、身体能力にも優れている。これだけ聞けば完全無欠なようだが、アサノの知る限り欠点だらけな辺りが、小林巽の小林巽たる所以だと思われる。
能力と性格は決して比例するものではないのだよなあ、と当然といえば当然のことをしみじみ思っていると、長谷川は鞄からあの手鏡を取り出すところだった。
そうだ、長谷川の記憶の手がかりが、この鏡にあるかもしれないのだ。アサノはもう一度鏡を貸してもらえないかと申し出ようとして……
「あなたが笑えば、わたしも笑う」
その言葉を、飲み込んだ。
両手で鏡を持った長谷川は、その場にアサノがいることも忘れてしまったかのように、鏡に意識の全てを注ぎ込んでいた。その唇が紡ぐのは、祖母から教わったのだというおまじないの言葉。
「向かい合わせ、背中合わせ、いつでもここにいる」
ふわり、と。鏡から浮かび上がる柔らかな光が、広いとはいえない部屋の中に広がる……そんな、幻視がアサノの目の前に現れる。
「あなたはひとりじゃない」
歌うような声と共に、光はぱちんと弾けて、部屋は元の薄暗さを取り戻した。呆然としていたアサノに、長谷川の声がかけられる。
「……アサノさん?」
それでも、アサノは動けなかった。虚空に視線を向けたまま、あんぐりと口を開けたまま、今目にした光景の意味を考えていた。
そうだ、今、一瞬……確かに、世界が揺らいだ。あの光はただの見間違いなんかではない。アサノの目の前で実際に起こった、本来ならば「目には見えない」出来事だ。
鏡というのは、プラスにもマイナスにも強い力を持ったアイテムなんだ。秋谷の言葉を思い出す。力を持った事物は、己が本来存在している世界の理を歪め、他の世界の理を持ち込むことを可能とする。それは歪曲視や、歪神に与えられた能力と言い換えることもできる。
もしかして、この鏡は、ほとんど歪神のようなものなのではないか。祖母の頃から続けられてきたおまじないという名前の儀式を通して、世界の境界線に干渉する力を身につけたのかもしれない。また、そういう力持つ物品は古来『付喪神』と呼ばれてきた、と小林や師匠から聞かされたことがある。
アサノが目にした光の雰囲気を見ると、人やこの世界に直接的に悪影響を与えるような歪神ではなさそうだが……と思っていると、長谷川は立ち上がって鏡を肩提げ鞄の中に入れる。
「時間です。行きましょう、アサノさん」
「あ……は、はあ」
鏡のことを、言った方がよいだろうか。アサノは立ち上がりながらも思う。ただ、ストーカーをおびき出そうという今、わけのわからないことを言って、長谷川を混乱させることもない、と思い直す。歪神の話をするなら、小林の方が説明には向いているということもある。
まずは、目の前の出来事を解決していくことから始めよう。アサノはそう考えて気を取り直し、長谷川と共に部屋を後にした。
腕時計を確認すると、時刻は、午後五時を回ったところだった。
ちょうど、こんな時間を黄昏時というのだろうか。アサノは赤い夕焼けから夜の色に染まっていく空を見上げながら、何気なくそんなことを考える。黄昏、誰そ彼。行き交う人の顔も判別できない薄闇には、人の中に人でないものも混ざっていると聞く。逢魔が時、という言葉も確かこの時間を指したはずだ。
常に人とは違う光景を見るアサノの目を通してみれば、人と違うものなど常に人の中に混ざっているものだが、それでも、この時間は確かにその数が違うのかもしれない、とも思う。
足元をするりと走り抜けていく獣のような何かの気配を感じながら、アサノは小林に言われた通りの道を歩く。相手に警戒されないように、ごく普通に買い物に向かっている風を装って。
長谷川と他愛ないことを話しながら、ちらりと空に視線を走らせる。先ほどの「お願い」はきちんと聞こえていたらしい、アサノの真上に大きな鯨が浮かんでいて、アサノをじっと見下ろしていた。
『アサノ』
掠れた女の声が耳に届く。それが町の上を常にぐるぐる回っている鯨の声であることは、アサノも知っている。アサノは長谷川との会話を続けながら、次の言葉を待つ。
『だれかいるよ。うしろ、ついてきてる』
ひゅっ、とアサノは息を飲む。来るということがわかっていても、いざ言われてみると否応なく緊張する。長谷川に不思議に思われるのを承知で、アサノは話を途中で切って鯨に向けた言葉を放つ。
「コバヤシさんは?」
『とんぼさん? いるよ。そのうしろ』
とんぼさん、というのは鯨から見た小林のことであるらしい。何故トンボなのかは未だによくわからないのだが……。
――とりあえず、計画通りに運んでるのか。
流石は小林だ、相手に気づかれないように後ろを取ることに成功したようだ。あんなに目立つ外見でありながら、誰の目にもつかないよう気配を消せるというのが不思議だったが、小林に言わせてみると「昔取った杵柄」ということらしい。嫌な杵柄だ。
アサノの様子がおかしいことに気づいた長谷川が、不安げに見下ろしてくる。アサノは小声で「振り向かないで、来てます」と言ったことで、長谷川の表情も硬くなる。
「だいじょぶっす。コバヤシさんが計画通りに張り付いてます。このまま行きますよ」
人通りの少ない道を選んで、折れ曲がる。人気を避けるというのはストーカーが有利になる選択に見えるが、これは小林の指定だ。
――俺様が、遠慮なく暴れられるように。
何とも酷い指定であるが、アサノたちはついにうってつけの場所にたどり着こうとしていた。人がはけた後の工事現場横。きっと高層マンションでも建てようとしているのだろう、青いビニールと足場に覆われた巨大オブジェクトは、周囲の世界からこの場所だけを隔離しているかのようでもあった。
アサノがそんな感想を抱いた、瞬間。
「な、何だ、手前っ」
どこかで聞いた声が、アサノの耳をついた。はっとして振り向くと、既にすぐ側まで迫ってきていた黒い男の肩に、小林が手をかけたところだった。
「それはこっちの台詞よ、ストーカーさん」
ほとんどが闇に落ちた世界を照らすのは、ちらちらと瞬く街灯のみ。それでも、アサノははっきりとストーカーの姿を確認することができた。
長身の小林と並んでもそこまで差があるようには見えない、かなり体格のよい男だ。髪を明るい色に染め上げ、血走った一重の細い目で小林を睨んでいる。対する小林は、冷たい色相の三白眼で真っ向から男を睨み付け、唇を開く。
「案外、あっさり引っかかってくれたな……ってえ!」
その瞬間、小林と男の間に何があったのか、アサノは即座に理解することが出来なかった。だが、次の瞬間、小林の腕に血が滲んだのを見たことで事態を把握した。
男の手には、ぎらりと輝く包丁が握られていたのだ。
横の長谷川がひっ、と息を飲んで固まる。アサノも、まさか相手が凶器を持っているとは思わず、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
だが。
「んな物騒なもん、振り回してんじゃねえ!」
小林は凶器を持つ相手にも全く怯むことなく、男の手を狙って蹴りを放った。決して簡単なものではない部位狙いの一撃だが、小林の爪先は寸分の狂いもなく男の手首を強打し、包丁はアスファルトの上に転がる。
そのまま悲鳴を上げて手を押さえる男の足を払い、倒れたところを地面に押さえ込む。流れるような一連の動きに、アサノはただただ見とれるばかりだった。
「ったく、油断も隙もありゃしねえ」
「だ、だいじょぶっすか、コバヤシさん!」
我に返ったアサノが叫ぶと、小林は視線だけはストーカーから外すことなく、断言した。
「舐めときゃ治る!」
舐められる場所じゃねっすよ、というツッコミは多分野暮なんだろうなあ、とアサノは遠い目で思う。小林は暴れようとする男の腕を変な方向に捻りながら、声を上げる。
「とにかく、警察呼べ警察! 凶器まで持ってたんだ、今度こそ逃がさねえぞ」
「は、はい!」
長谷川が携帯を取り出すのが視界に映っても、アサノはストーカーから視線を外すことができなかった。ストーカーの目には、既に理性の色はなかった。アサノの「感覚」も、男の放つ気配が既に常人からかけ離れてしまっていることを察知していた。
そして……もう一つ。
アサノの意識を引いたのは、男の声。
それは、長谷川の手に触れたときに一瞬だけ聞こえたそれと全く同じものだった。
小林は男の手を捻り上げたまま、冷ややかに言う。
「で、手前はどうしてコズエに付きまとってたの? その様子だと、単にコズエが気になったから、ってわけじゃなさそうだけど」
男は苦痛に顔を歪めながらも、小林の質問には答えない。すると、小林は冷淡な表情で更に男の腕を捻り上げる力を強めたようだった。まるで蛙がつぶれたような悲痛な声が男の喉から漏れた。
「俺様、結構腹に据えかねてるのよ。ね、早く答えた方が身のためだと思うけど」
まずい。アサノは男を見た時とはまた違う悪寒に身を震わせる。ふざけた口調ではあったが、小林の声に全く感情が篭っていないことに気づいたのだ。男を見下ろす瞳は、この暗さでもはっきりとわかる、色に見合った零下の光を湛えている。実際にこうなった小林を今まで見たことがあるわけではなかったが、副所長から聞かされたことがある。
――奴が本気でキレた場合、しれっとした顔で相手をバラすくらいは平気でやるから。
それが、小林を嫌う余り、あることないこと吹聴する副所長の台詞であるのが気になるところではあったが、男の腕がやばい方向に曲がっているのを見ると、それを疑う気にはなれない。
アサノは身を乗り出して、声の限りに叫ぶ。
「コバヤシさん! やりすぎは駄目っす!」
その声で我に返ったのか、小林がはっと顔を上げる。その瞬間、瞳の中の冷たい光も消え失せて、アサノは胸を撫で下ろす……が、それも束の間。思わず力を緩めてしまったのか、小林が組み敷いていた男が、気合の声と共に小林の体を跳ね除けたのだ。小林は思わず地面に腕をついたが、腕の怪我が痛むのか眉を顰めながらも声を上げる。
「っつ、手前!」
「邪魔するな、邪魔、邪魔するなああっ!」
男は落ちていた包丁を拾いなおすと、長谷川に向かって駆け出す。小林もすぐに立ち上がるが、男の方が刹那、早い。
「今度こそ、今度こそ消えてくれ、消えろおおおっ!」
警察に電話していた長谷川が、目を見開くのを視界の端に捉えたその瞬間、アサノは長谷川の体を反射的に突き飛ばしていた。包丁を振り上げた男を真っ向から見据えていたために、その瞬間を見ることは出来なかった、が――
かしゃん、と。
響く、甲高い音。
何かが割れる――音色。
それを、アサノの耳は確かに捉えていた。けれど、振り向くことは出来ない。今はただ、この男を止めることだけを考えて。
アサノは、天に向かって叫ぶ。
「クジラさんっ!」
『うん、まもるよ』
アサノにしか聞こえない声が、頭上で笑う。
その瞬間、アサノの目の前に微かな黒を帯びる、透明な六角形の盾が無数に現れる。もちろん、それはアサノの目にしか見えない。きっと、微弱な歪曲視は保有しているものの、鯨を視認できないと言っていた小林にも見えていないに違いなかった。
だが、それはアサノの幻視でありながら確かに現実世界に影響を及ぼすものであり、男の包丁はアサノに届く前に弾き返される。
男は、一体何が起こったのかわからない、といった表情で一瞬動きを止める。その刹那の隙を見逃すことなく、小林が再び男の首根っこを引っつかみ、柔術の要領で地面に叩きつける。
かは、と息を吐きながらもなおも血走った目で小林を見上げる男だったが、小林は男の手を踏みつけて、その手から包丁を蹴り飛ばす。包丁はからからと乾いた音を立てて男の手の届かないところまで滑っていった。
「とっとと諦めやがれってっての! しつこい男は嫌われっぞ!」
一度アサノに叱咤されたのが利いているのだろう、今度はまだ理性的な発言だ。これならば、ここは小林に任せておいて大丈夫だろう。思って、アサノは突き飛ばしてしまった長谷川を振り向く。
「それよりも、長谷川さんは、だいじょぶ」
言いかけて、アサノは固まる。
そこに、長谷川の姿は無かった。
小林も、アサノと同時にその違和感に気づいたのだろう、男の動きを封じたままではあったが、呆気に取られた声で「……コズエ?」と呟く。
その場に残されていたのはまだ通話中の画面を示している携帯電話。そして、アサノが突き飛ばした拍子に落としてしまったのか、肩掛け鞄の中身がアスファルトの上に散乱している。
その中で、アサノが見つけたのは、あの鏡。
地面に叩きつけられた衝撃が原因だろうか、夜空を見上げる鏡面にひびが入ってしまっているのがわかって。
――まさか。
アサノの中に、一つの可能性がちらつく。そんなはずはない、と否定の材料を探そうと頭を回転させようとしたその時。
「まただ、また……また、消えた」
「……え?」
小林の腕の下で、男が呆然と呟いた。その呟きは、やがて悲鳴へと変わっていく。
「何でだ、何で、確かに死んだはずなのに! あの時、埋めたはずなのに!」
「埋めた、だと?」
あまりに衝撃的な言葉に、小林の声が再びトーンを下げ、アサノの思考も固まる。だが、男はもはや周囲の反応も理解できてはいなかったのだろう、ひぃひぃと喉を鳴らして叫び続ける。
「なのに、なのに、どうして、どうしてここにいるんだ! 殺しても、殺しても、現れるんだ! お陰で俺の人生はめちゃくちゃだ! どうして、どうしてくれる!」
「もういい。黙れ」
小林は、アサノの目にも留まらぬ動きで男に一撃を加えた。男は喉から短い声を吐き出したかと思うと、そのままアスファルトの上に伸びてしまった。
アサノは恐る恐る小林を見たが、小林はアサノが思ったよりもずっと冷静であったようで、「気絶させただけだ」と肩を竦めて立ち上がる。
「だが、どうやら、まだ話は終わらないみてえだな」
小林は軽く舌打ちして、男の肩を軽く蹴る。そして、アサノには視線を向けないまま言った。
「なあアサノ。コズエの記憶の話、聞いたな」
「コバヤシさんも聞いたんすね」
「ああ。随分都合のいい記憶喪失だと思ったよ。俺様に忘れるって能力はねえが、それでもおかしいってことは理解できらあな」
そこで、初めて小林はアサノの方に振り向いた。だが、アサノを見たのではない。アサノの足元に落ちたままになっていた、鏡を見たのだ。
「――それが、人間ならな」
アサノは、息を飲む。
小林も、アサノと同じ結論に辿りついたのだ。否、アサノや他の歪曲視に比べて「視る」力では劣るが故に後手に回ることが多い小林だが、元より歪曲と歪神については誰よりも詳しいのだから、情報さえ与えられれば誰よりも早くその結論に辿りついておかしくない。
すなわち。
「コズエは歪神だった。そう考えりゃ、一連の違和感だって説明がつく」
小林はアサノの横まで歩み寄ると、ひびの入った鏡を拾いあげた。己の顔を見るのは好きでないのか、すぐに裏返して黒い地に咲く牡丹の花を見つめる。
「こいつが『本体』だな。俺たちが見てたコズエは、こいつが映し出してた形のある幻ってとこだろう。ただ……それにしちゃ、お前も気づくのが遅かったな」
「ごめんなさい。多分、あるはずない、って思い込んじゃったんだと思うっす」
何度も何度も、アサノ自身が己に言い聞かせている通り。歪曲視というのはどこまでも『主観』の能力だ。どれだけ強力な能力を持っていても、己が視ているものを信じることが出来なければ認識はあっけなく歪む。
今回は特に、状況が悪かった。田中という男が長谷川についての情報を求めていて、秋谷の調査によって長谷川梢という人物がごく普通の人間であるという認識を植えつけられてしまっていた。
……そうだ、普通の、人間であるはずなのだ。
「でも! ハセガワさんが歪神だとすれば、ハセガワさんについての情報は全部嘘だったってことすか? アキヤさんが間違ったことを調べてた、ってことは考えづらいんすけど」
「……その情報は事実だろ」
「え?」
「丸ごと嘘をでっち上げて周囲を騙す、なんて歪神はそれこそ俺様の『記録』に残されるどころか真っ先に追われておかしくねえ最強クラスの歪神だ。だが、俺様が考えるに、事態はもっと単純だ」
くるり、と手の中で鏡を回した小林は、にこりとも笑わずに言った。
「ハセガワ・コズエは実在する。だが、殺されたんだろう――おそらくは、この男に」
死んだはずだ。埋めたはずだ。
そう喚いた男の言葉が、アサノの中でぐるぐると回る。
もしかすると、それが五年前の事件だったのか。交通事故。鏡が覚えていた、ヘッドライトと急ブレーキの記憶。その時に、本物の長谷川梢は死んだのか。死んで……埋められたというのか。
ならば、ここにいた長谷川は何故、ずっと長谷川梢であり続けたのか。
混乱する頭を抱えるアサノをよそに、小林は「ふむ」と細い顎をさする。
「ただ、そうすると、仲介役が足らねえな。こいつは現実に存在する物体だから、単体でも現実に影響を及ぼすことは可能だが、コズエの鏡像を実物だと誤認させるまでの力があるとは思いがたい。誰か、この鏡に縁のある歪曲視がコズエを顕現させてた……?」
微かに眉を寄せる小林だったが、それは今この瞬間に考えるべきことではないと割り切ったのだろう、アサノに向き直ると鏡を手渡す。
「アサノ、コズエを顕現させられるな」
「それ、やっぱり質問じゃなくて命令っすよねえ……やってみますけど」
師匠である副所長もいい加減厳しいが、小林はそれに増して横暴だ。遠回しな表現が多い秋谷や副所長と違って、言っていることが直接的でわかりやすい、という点ではありがたいが。
アサノは鏡を受け取って、そっと両手で包み込む。長谷川が、常にそうしていたように。長谷川はどんな気持ちであのおまじないを呟いていたのだろう。自分自身が鏡像だということをわかっていたのだろうか。それとも……。
目を閉じ、ぽつり、ぽつりと長谷川についての記憶を辿っていく。ともすれば雑念のようにも思えるが、それがアサノなりの「儀式」であった。長谷川と共有した記憶、という繋がりを頼りに鏡が保有する歪曲に接続する。そうすることで、鏡を通して伝わってくる銀色の思念と、アサノの記憶が混ざり合っていく。
その儀式を通して、アサノは昨日何故長谷川の記憶が読めなかったのかを理解した。アサノが視ようとしたのは、長谷川の形をした空っぽの「鏡像」であって、長谷川の記憶を保有する鏡ではなかった。
今ならわかる。鏡は、アサノの予想通り「何もかも」を見ていた。ただ、『長谷川梢』に都合の悪い記憶はその鏡面の奥深くに閉じ込めたまま、長谷川の形を映し出していたのだ。
「そう、そうです。全部、思い出しました」
声が、聞こえた。アサノが目を開くと、目の前には長谷川が立っていて、俯いて鏡を握るアサノの手を己の手で包み込んでいた。だが、その姿にはノイズが走り、今にも消えてしまいそうなほどに希薄な存在であった。
鏡が鏡であるために必要な部分にひびが入ったことで、その存在が揺らいでいる。その事実をまざまざと見せ付けられて、アサノの心も確かな痛みを覚える。
「ハセガワさん……」
アサノの声を聞いて、長谷川は顔を上げる。その顔は、今にも泣き出しそうであった。
「まだ、消えるわけにはいかないんです。わたし、わたし」
ぎゅっと、アサノの手を握る手に力が篭る。人の温度よりも少しだけ低い、ひんやりとした手。
「待ってるんです。ここにいなきゃ、いけないのです。笑ってなきゃ、いけないのです」
あなたが笑えばわたしも笑う。
向かい合わせ、背中合わせ、いつでもここにいる、あなたはひとりじゃない。
そのおまじないこそが、目の前の長谷川梢を形作っていた――アサノはやっとそれに思い至った。だから、都合の悪い記憶は全て忘れてしまうのだ。いつまでも、屈託なく笑っているために。そして、彼女が笑い続けるのは、
「あの人が、帰ってくる日まで」
もう、戻ってくることはない、鏡の持ち主……本物の長谷川梢のためで。
アサノが鏡から視たイメージを通して得た感覚は、間違ってはいなかった。この歪神の思いは、悪意ではなくてどこまでも一途なもの。主人への真っ直ぐな思慕であった。けれど、何故だろう。長谷川が抱いている思いには、アサノの思う「思慕」とは決定的な差異がある気がする。その違和感の正体は、アサノにはわからなかったけれど……。
長谷川は「消えたくない」と小さく呟いた。アサノを顕現の仲介役にしていても、本体の破損が与える影響は大きいのだろう、体に走るノイズは増すばかりで、アサノの意識でも繋ぎ止めるのは難しくなってくる。
すると、黙って長谷川の言葉を聞いていた小林が唐突に言った。
「わかった。そこは俺様が何とかしてやる」
その言葉にはアサノも思わず声を上げてしまう。
「できるんすか?」
「あのなあ、モノってのは大事に大事に仕舞いこむもんじゃねえ。壊れたら壊れた部分を直す、欠けたら欠けた部分を補う。そうやって使うことで、初めてモノは魂を宿すってえもんだ」
つまり……割れた鏡面を取り替えれば、元通りになるということか。あまりに単純な解決法に、アサノの方が肩透かしを食らった気分だった。だが、それで長谷川が助かるならそれに越したことはない。
長谷川も、涙を溜めた目で小林を見上げ、それから、ふわりと微笑んで頭を下げた。
「……ありがとうございます、コバヤシさん」
「は、礼には及ばねえよ。結局、俺様はお前さんを守りきれなかったしな」
「いいえ。あなたは、わたしの心を守ろうとしてくれました。それだけで、十分です」
そうか、と。小林は言ったけれど、相手と話す時にはほとんど視線を外さないはずの小林が、露骨に視線を外したのが気にかかった。けれど、長谷川はそれには気づかなかったのだろう、笑顔でアサノに向き直って頭を下げる。
「アサノさんも。ありがとうございます。あなたがいてくれたおかげで、わたし、気づくことができました」
「あ、で、でも。あたし……何も」
「こうやって、今お話できているのもアサノさんのおかげですもの。アサノさんは、もう少し自分が出来ることに自信を持つといいと思います」
ちょっとだけ、いたずらっぽく笑ってみせる長谷川に対し、アサノは苦笑して言う。
「よく言われるっす、それ」
今回だって、もう少し自分の力を信じることが出来れば、もう少し早く真相に気づけていたはずだ。もちろん、今地面の上に伸びているストーカーのことは、解決しなければならなかった問題ではあったが。
それでも、長谷川は満足そうに微笑んで、アサノと小林に頭を下げる。
「それでは……しばらく、お休みさせていただきますね」
次に目が覚めたときには。そう呟いた唇を、アサノの脳裏に焼き付けて。長谷川梢の姿をした歪神は、その場から消えた。その場に残されたものは、彼女を形作っていた鏡と、アスファルトの上に散乱した「彼女」の持ち物だけであった。
呆然と、手に鏡を握ったまま立ち尽くしていると、耳に聞こえてくるのは徐々に近づいてくるパトカーのサイレン。長谷川が呼んだ警察が、今になって到着しようとしていた。
果たして、この状況をどう説明すべきなのだろう。狙われていた当人である長谷川は消えてしまい、狙った男は今もまだ意識を取り戻す様子はない。これは面倒くさいことになりそうだ、と思わず眉を顰めるアサノだったが、その横の小林はもっとわかりやすく苛立ちをあらわにしていた。
「……コバヤシ、さん?」
恐る恐る声をかけてみると、それを引鉄にしたのか、小林が突然頭を抱えてその場に蹲った。
「ああああっ、くそっ、そういうことか!」
「な、何がそういうことなんすか?」
「コズエの身辺調査を依頼した奴の意図がどうも掴めねえと思ってたんだ。けど、今になって何となくわかっちまったんだよ!」
そういえば、ここに至るまで一回も、田中の話は出てきていなかった。ストーカーを退治したところで、田中の意図がわかったわけではない。そもそも、一連のストーカー事件と田中は無関係であるような気すらする。
だが、アサノには小林のようにそこから因果を導き出すことは出来ない。地面に転がる勢いで悶絶する小林の苦悩の正体もわからずに、ただただ戸惑うばかりだ。
「もし、俺様の仮定が正しければ、あの代行者はどうするつもりだったんだ……?」
「はは、流石にタツミくんは今回の一連の因果関係に気づいたみたいだね」
野良猫のような声が背後から聞こえて、アサノははっとそちらを見る。
からん、と便所サンダルを鳴らすのは、極彩色の探偵……秋谷静。秋谷はくいっと赤いフレームの眼鏡を押し上げて、お決まりのニヤニヤ笑いを浮かべる。しゃがみこんだままの小林は、恨みがましそうな目で秋谷を見上げて言った。
「シズカさーん、黙ってるのはフェアじゃねえよ……」
「いや、私もハセガワ氏が歪神だという確信が持てていなかったし、タナカ氏についても圧倒的に情報が足らなかったからね。だが、これで大体のカードは揃ったと思っていいだろう」
どんどん、近づいてくるパトカーの音。その音にかき消されないように、アサノは声を張り上げる。
「一体、何の話をしてるんすか?」
「君たちが『ドッペルゲンガー』の謎を解いてくれた今、私が『幽霊』の謎解きをする番、ってことさ」
「どういう、意味っすか?」
それはね、と。道の向こうから現れたパトカーが放つ赤いランプの光の中で、チェシャー・キャットの笑みを深めた秋谷は――
迷走探偵秋谷静