「……『クロックワーク』?」
その声は、斜め後ろからかけられた。
小林巽は露骨に眉を顰めてそちらを振り向いた。
「そのダサい暗号名で俺様を呼ぶってえことは、代行者だな」
そこに立っていたのは、見た者を決して忘れることのない巽からしても、見たことのない男だった。『現実と非現実の間』を意味する灰色のスーツを隙なく着こなし、銀縁眼鏡をかけた男。それだけ見れば「若手のできるサラリーマン」という風体だが、肩から提げた大きなボストンバッグだけが妙な存在感を放っている。
そんな異能府の代行者は、軽く肩を竦めて苦笑する。
「ダサい、っていうのは同感ですね。私も常々上のセンスを疑っています」
「はっ、なかなかに話のわかる奴じゃねえか」
だからと言って気を許す理由にはならないが。
「それにしても……『クロックワーク』コバヤシ・タツミさん。話の通りの方ですね」
何がだ、と言いながら、お一人様一パックと定められた卵を、並み居る奥様方の腕を掻い潜って篭の中に放り込む。今日は卵の安売り日なのだ、バイト先回りを済ませたついでに買っておくくらいは許されるはずだ。
そして、案外この代行者も世知辛い生活を送っているのかもしれない……篭の中に入れられた、値引きのシールが貼られた商品を見てしまい、ついそんなことを考える。
代行者はそんな巽を見上げて、ふと微笑む。どこかで見たような、笑い方で。
「いえ、アサノさんから、あなたについて少しだけお話を伺ったもので」
「アサノ……ってことはアンタか、最近この辺嗅ぎ回ってる外から来た代行者ってのは。話には聞いてるぜ」
秋谷静と持ち込まれた依頼について言及することは避けた。どうせ巽と静が繋がっていることなど代行者にはお見通しだとは思うが、あえてそれを言ってやる義理もない。
確かに――長谷川梢を調べて、どうするつもりか聞いてみたいと思う気持ちもあった。だが、現状この男がどう関係しているかわからない以上、下手につつく気にもなれない。
男は「あー」と間の抜けた声を上げて、おっとりとした所作で頭を下げた。
「もし、コバヤシさんか、そのお友達にご迷惑をおかけしているようなことがありましたら申し訳ありません」
「あ、や、そんなこたねえんだが」
最低でも、現在進行形でこの男に何かをされているというわけではない。はずだ。それにしても、何とも代行者らしからぬ態度に、こちらの方が毒気を抜かれてしまう。
何だかなあ、と頬をかく。この男と会ったというアサノも全く警戒していなかったところから見るに、本当に人畜無害の代行者なのかもしれない。そんな代行者見たことも聞いたこともないが。
それに、何故だろう。
「なあ、アンタさ」
絶対記憶を持つ巽にとって、このような感覚はぬるぬるとした気持ち悪さを伴うものであったが。
「……どっかで、会ったことねえ?」
「いえ? 私がコバヤシさんとお話するのは初めてだと思いますが」
左手の人差し指を唇に当てて首を傾げる男に対し、巽も「だよなあ」と首を傾げる。
結局、その日はそれだけで別れた。
そうしてしまったことを、翌日には後悔することになるのだが。
迷走探偵秋谷静