桜の花びらが散っていく。
ベンチに座ったヒトミはそれを見るともなしに眺めていた。
あれから、ミドリノを公園で見ていない。あの時に見た奇妙な取り合わせの二人組……キジマとケーリにも、会わないままに数日が過ぎていた。しばらくヒトミの方が忙しくて、ライカの散歩に出かけていなかったというのもある。
ミドリノが兄の最期の映像を何処から、どのように手に入れたのか。何故、あんなやり方でヒトミに見せたのか。あの時一緒にいた二人は何者で、ミドリノとはどのような関係なのか。それ以前にミドリノは何者なのか。結局のところ何一つわからないままで、わからないままでいいのだろうと、思っている。
足元のライカが、自分の目の前に落ちてくる花びらをいちいち目で追いかけている。そんな灰色の背中をゆっくりと撫でてやった。温かな毛並みを撫でていると、ライカに飛びかかられて慌てるミドリノの姿を思い出す。
初めて出会った時には、泣いていたのはミドリノの方なのに。最終的にはこちらが散々泣かされてしまったと思うと悔しくて、でも妙にすっきりとした気分だった。あんな風に、何も考えずにバカみたいに叫んで言い合いになったのも、何年ぶりだろう。ヒトミの記憶が正しければ、兄とだってあんな子供っぽい喧嘩をしたことはない。
今も、兄の姿を思い出せば涙が出る。自分はこんなに涙もろかったか、と思うほどに。あの花見の夜以降は余計にそう、ふとした拍子に涙がこぼれそうになる。
ただ、苛立ちにも似た感覚はもうなかった。
胸の中の穴、「寂しい」という思いは二度と埋まらない。誰も、あの人の代わりにはなれなくて、それでいいのだとヒトミは知った。寂しさを抱えたままでも、新しい繋がりを作ることはできる。新しくできた繋がりと一緒に、笑って、泣いて、騒ぐことができる。
兄は、きっと最後にそれを伝えたかったのだ。
寂しさを忘れるわけではなく、ただ、寂しさに囚われないように。
難しいけれど、きっと今の自分だったらできる、と桜の木を見上げて思う。確かにあの夜、桜の木の下で泣いて笑っていた自分なら。
もうすぐ桜は完全に散って、春が終わって夏が来る。秋が来て、冬が来て、また新しい春が来る。
「見てろよ、兄貴」
そうしたら、またこの桜の木の下で。かつて兄と自分とで見上げていた桜の木の下で、花見をしようと心に決める。兄がびっくりして羨むくらい、たくさんの友達を集めて、月まで届くほどに騒ぐのだ。
「何だ、今から来年の花見の算段か?」
唐突にベンチの後ろから顔を覗き込まれてヒトミは「げ」と嫌な声を出す。
「人の顔みて『げ』はねえだろ『げ』はよ」
いつの間にかヒトミの座るベンチの後ろにバイクと一緒に立っていたミドリノは、やれやれとばかりに大げさに肩を竦めてみせた。気取っているつもりかもしれないが、やはり似合っていない。
それにしても、言葉には出していないはずなのだが、来年の花見のことを考えていることまで言い当てられるとは思わなかった。ヒトミは苦笑してミドリノを見上げる。
「アンタ相変わらず人の心読むのが上手いよね。実はエスパー?」
「まさか。叔父さんは超能力者だったらしいけどな」
本気なのか否かわかりづらい冗談を言いながら、ミドリノはバイクのスタンドをかける。見れば、バイクに引っかかっていた女物のヘルメットが消えていた。この数日の間に心境の変化があったのか、それとも。
ミドリノは屈んでライカを撫でる。ライカも随分慣れてきたらしく、急に走り出したりはしなくなった。尻尾を千切れんばかりに振っているのは変わらないけれども。
「そうだ、アイハラ」
「何」
苗字を呼び捨てにされるのは何となく気に食わないが、よく考えてみるとミドリノはヒトミの名前を知らないのだ。当然と言えば当然だろう。ミドリノは少しだけ躊躇ってから、言った。
「今、暇?」
「……は?」
「二人で遊びに行かないか、って言ってんの。ライカも一緒にさ」
「デートってこと?」と冗談めかして問えば、ミドリノは「そんなところ」と苦笑する。なるほど、ヘルメットはもう必要なかったのだ。ライカも一緒なら、バイクは使えない。
「軽い男に思われるのは嫌じゃなかったんだ?」
「既に軽い男って思われてんだ、今更だろ」
一週間前に女に振られて泣きべそかいていたはずの男は、今や完全に吹っ切れていて。そこがおかしくてヒトミは笑ってしまった。
「俺じゃ、不満?」
「もちろん」
ヒトミが即答したものだから、ミドリノはちょっとばかり顔を引きつらせた。いい気味だ。もちろんそれがヒトミの本音でないのは、ミドリノにもわかっているだろう。ヒトミの天邪鬼は今に始まったことではない。
ヒトミがにっと笑ってみせると、ミドリノは深々と息をついた。
「可愛げねえなあ、相変わらず」
呆れ顔ながらも迷わず手を差し伸べてくれるミドリノ。出会ってたった一週間と少し、なのに妙に濃い日々を過ごした男の手を取らない理由は、ヒトミにはなかった。
「大きなお世話。行こう!」
手を取って立ち上がり、ヒトミは抜けるような青い空を見上げる。
桜の花びら舞い散る空には、今にも消えてしまいそうなペーパームーン。
二人で口ずさむ歌は『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』。
――見てるよね、兄貴。
どんなに儚く見えても、確かにそこにある月に向けて。
しっかり繋いだ手を、見せ付けるように大きく振ってみせる。
今になって、何で兄がヒトミに向けて『ありがとう』と言ったのか、わかった気がした。兄はあの時には既に確信していたのだ。ヒトミは、兄の最後の願いを叶えてくれる、と。
だから、嬉しそうに走り出すライカのリードを引きながら、ヒトミは笑う。笑い続ける。
笑いあいながら空の下に駆け出した二人を、真昼の月が見下ろしていた。
ロンリームーン・ロンリーガール