ロンリームーン・ロンリーガール

ロンリームーン:6

 アイハラに叩かれながらもへらへら笑うミドリノを遠目に、ケーリは思わず呆れてしまった。
「博士、ミドリノさんって」
「筋金入りのバカよね。でも、そこが彼のいいところよ」
 地面に敷いたビニールシートの上に座った博士は、くすりと笑ってバイザーディスプレイ越しに八分咲きの桜と月を見やる。ディスプレイには、月から送られてきたメッセージが、映し出されていた。
 
『これが、桜――』
 
 博士とケーリのバイザーには、小型のカメラが取り付けてある。カメラが捉えた映像は、今頃データに変換されて月へと送られているはずだ。
 そう、月のただ一つの願いは、ヒサが言っていたという「桜」を見ること。
 本来ならば、桜の写真をただ月に送れば済む話である。だが、ケーリはそれでは納得しなかった。ケーリの見ている視線で、桜を知ってもらいたかった。月と一緒に花見をするのが、ケーリの望みだったのだ。
 準備には手間取ったけれど、こうして月と桜を見上げていると、心の底からやってよかったと思う。
 ケーリは、手元の小さなキーボードで空に浮かぶ半月に問いかける。
 
『これで、よかった?』
『はい。桜も、ヒサの言う「大騒ぎ」も、見せてもらいました』
 
 もちろん、『大騒ぎ』はヒサが意図していたものとは大分違う形だったとは思うが、月がそれで満足したならいいだろう。ちらりとケーリが目をやれば、大騒ぎの主であるアイハラとミドリノは、なおも意味もなく笑いあっている。
 ヒサも、笑っているアイハラを、笑って見ているに違いない。
 アイハラの兄、ヒサは月に消えていった。ケーリはその瞬間の後姿を夢想する。ヒサの姿は月が『ディアナ』のデータベースから引き出してくれた映像で見たけれど、実際にどんな人物だったのかは、おそらくこの場ではアイハラしか知らないのだ。
 ただ、一つだけケーリにもはっきりとわかることは。
 ヒサが、月を、桜を、そして妹であるヒトミを、愛していたということ。
 幼いケーリには「愛する」という気持ちはまだよくわからないけれど、月と話しているうちに胸の中に灯った温かな感情がそうなのだろうな、と思う。
 だが、温かな思いは決して長くは残っていてくれない。離れ、時間が経つにつれ、この温かさはゆっくりと消えていき、そこにぽっかりとした穴を心に開けてしまう。その気持ちを「寂しい」と表現したのはケーリ自身だったはずだ。
 だから、ケーリは問いを飛ばす。遠く、はるか遠くの月に向けて。
 
『質問。あなたは、寂しい?』
 
 ぽつんと浮かんだ月が、笑った気がした。
 
『まだ少しだけ、寂しいです。でも、もう大丈夫。
 ケーリが、そこにいてくれるとわかりました。
 私を、見ていてくれるとわかりました』
 
 月に心を教えてくれたヒサと『ディアナ』は滅び、ひと時覚えた温かさは消え。永遠に近い孤独を生きてきたはずの月は初めて「寂しさ」を知ってしまった。しかし、「寂しさ」を知っているということは、心に灯る温かさの意味も知っているということ。
 温もりを求めて伸ばした見えない腕は、三十八万四千四百キロメートルを超えたメッセージという形で、ケーリの元に確かに届いていた。
 
『僕だけじゃない』
 
 ケーリは、漆黒の空を仰ぐ。微かに冷たい風を纏い、博士と、ミドリノと、アイハラと一緒に空を仰ぐのだ。
 
『僕だけじゃないよ。
 みんな、あなたを見てる。
 遠く離れていても、みんながあなたを思ってる。
 あなたは、独りなんかじゃない』
 
 目に見えていながら、手が届かないほどに遠い月からは、ケーリの姿なんて小さすぎて見えてはいないと思うけれど、腕を振って言わずにはいられなかった。
 
『それでも寂しいなら、僕があなたに会いに行く』
『ケーリが?』
『宇宙飛行士になって、新しい「ディアナ」に行くよ』
 
 今はまだ、『ディアナ』の開発は停止したままだけれども。ケーリが大人になるころには、きっと立派な月基地が出来ているに違いない。もしかすると、月の声だってヒサのように他の人が聞いてくれるかもしれない。
 ただ、ケーリにしかできないことだってある。
 
『それで、あなたに蛍を見せるよ』
『蛍を?』
『すぐには無理かもしれないけど、いつか、絶対に。約束する』
 
 約束。ヒサの約束は守られなかったし、ケーリの約束だって守れるかどうかはわからない。月は、その言葉をどう受け止めただろうか。何となく不安になって、ケーリは口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。
 月はしばしの沈黙の後に……「言った」。
 
『嬉しい』
 
 嬉しい……
 その言葉が、ケーリの胸の中に明るく灯った。目の中に、熱いものが溢れてきて、ケーリは被っていたバイザーを外して袖で乱暴に目を擦る。
 
『ケーリ。泣いているのですか。
 悲しいのですか』
 
 備え付けられたカメラがケーリの表情を捉えたのか、月が問う。ケーリは首を横に振って、言った。
 
『違うよ。笑っているんだ。
 嬉しいんだ』
 
 泣きながら、無理やり笑ってみせる。上手く笑えてはいなかったかもしれないが、嬉しいのは本当だった。嬉しくて涙が出るなんて経験、今まで一度もなかったから、本当は自分がどうして泣いているのかもわかっていなかったけれど。
 博士を見れば、博士も穏やかに微笑んでケーリをバイザー越しに見つめていた。本当は、博士も色々と月には聞きたいこともあったに違いないが、今だけはケーリに全てを託してくれていた。
 もう、時間は残されていなかったというのに。
 ケーリが言葉を紡ごうとした時に、ふいに画面上に映っている文字列に意味不明なノイズが混ざり始めた。博士が立ち上がって、月を見上げる。
「時間ね」
 そう、『ディアナ』の通信機器の稼動限界が来たのだ。早すぎる、とケーリは思った。確かに、昨日の段階で「明日かもしれない」とは言っていたけれど、それでも。硬直するケーリの肩を、博士が抱く。
「崩壊した『ディアナ』の通信が生きていて……月から届くこと自体が、奇跡よ」
 わかっている。それは、わかっているけれど……!
 覚悟はしていたはずなのに、突然すぎる別れに体も心も、言うことを聞かない。
 ぐっと手を握りしめるケーリに、博士はあくまで静かな声で諭すように言う。
「お別れしましょう、ケーリくん。大丈夫、永遠の別れじゃないでしょう?」
 そうだ。
 桜の次は、蛍を見せるのだ。自分の名前、暗闇に灯る小さな光を、月まで届けると約束したばかりではないか。この別れはひと時、いつかきっと、もう一度会える。
 
『さようならではありません、ケーリ』
 
 月も、ノイズが混ざって読み取りづらくなった言葉を、送り続ける。
 
『もう一度会える時には、「またね」というそうです。ヒサが教えてくれました』
 
 そう、さようならではない。ケーリも、しっかりと頷いた。
 
『またね、月』
『またね、ケーリ。
 
 ありがとう』
 
 それが、月の最後のメッセージになった。
 もう何も映さないバイザーをつけたままのケーリは、涙が頬の上を流れていくのにも構わず、ずっと、ずっと、月を見つめていた。