ロンリームーン・ロンリーガール

ロンリーガール:6

 よくよく考えてみれば、どうして男が突然「夜に来い」などと言ったのか、さっぱり理解できなかった。言われた時はそれどころではなくて、「おかしい」という考えに及ばなかったけれど。
 怪訝そうな顔をする親に「なるべく早く帰る」と言い置いて、ライカを連れて外に出た。暗い空の高くに浮かんでいるのは、微かに膨らみはじめた半月。ライカもどうしてこんな時間に外に出るのかわからず、不思議に思ったのか何度も何度もヒトミを振り返った。
「私にわかるわけないじゃん」
 ライカに向かって、ヒトミは苦笑を返す。
 男が指定した時刻がもっと遅ければ怪しいとも思ったけれど、七時ならばまだ人通りだってある。本当に、単なる花見なのかもしれない。
 そんな風に決め付けて、鼻歌を歌いつつ住宅街の角を曲がって公園の前まで来た時、公園の前に見慣れぬ軽トラックが停まっていた。そして、男のバイクも。相変わらず、もはや誰が被るのかもわからない女性用のヘルメットがぶら下がったままだから、すぐにあの男のものだとわかる。
 何が待ち受けているのかわからず、ヒトミは足を踏み入れようか悩む。だが、その間にライカが駆け出していた。
「あ、待って、ライカ!」
 叫びながら、リードを振りほどかれないように強く握りしめ、ライカを追いかける。ライカはぴんとリードが張っているのにも構わず、一直線に進む。
 もちろん、目指す場所は一つだ。
「うおっ、ライカ、ちょっとストーップ!」
 男が慌てた様相で顔を上げると、珍しく自らライカに突っ込んで行った。大きなライカに飛びつかれ、あっけなく押し倒されてごろごろ地面を転がっていく様はとてもコミカルだった。
「大丈夫?」
「な、何とか大丈夫でーす」
 ライカに顔を舐められまくっている男に声をかけたのは、大きな桜の木の下に立っていた、作業着姿の女だった。顔だけ見れば年はそれなりのようにも見えるが、化粧っ気がない上に髪の毛を短く刈っているためかスポーツ少年を髣髴とさせ、年齢が計りづらい。
 作業着の女は、転がる男からヒトミに目を向けて、言った。
「もしかして、この子がゲストさん?」
「はい、そうです」
 一体何が起こっているのかわからず呆然とするヒトミをよそに、男は女の問いに答えながらぱんぱんと服を叩いて立ち上がる。そして、男なりに気障な笑みを浮かべてヒトミに砂まみれの手を差し伸べた。
「ようこそ、お嬢さん」
「致命的に似合わないね、その笑い方」
「放っとけ」
 男はわざとらしく傷ついた表情を浮かべ、手を引っ込めてそっぽを向いた。構わず、ヒトミは気になっていることを問う。
「……で、この人たち、誰?」
 たち、というのは作業着の女の後ろで、桜の下に設置された大きなアンテナと、そこから伸びるコードのようなものをてきぱきとした動作で繋いでいる小学三、四年くらいの少年がいたからだ。何とも、奇妙すぎる取り合わせだ。
 男は「ああ」と言って女と少年を交互に見やる。
「友達、連れてくるって言っただろ。友達って言っても、ちょっと変わった連中だけど」
 変わった、というより「変な」という方が似合っていると思う。女は一歩歩み寄って、短髪に作業着という外見に似合わず、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「こんばんは……アイハラさん、でいいのかしら」
「あ、はい。えっと」
「キジマよ。よろしく」
 てっきり中身も男の人っぽいのかと思っていたヒトミは、ぽかんとしてキジマと名乗った女を見上げることしかできなかった。その横で、男がぼそりと呟く。
「……博士、そんな名前でしたっけ」
「そんな名前ですよ。助手が博士の名前を忘れないでください」
 容赦のないツッコミを入れる推定小学生。キジマは二人のやり取りにくすくすと笑いながら、その小学生を差す。
「こちらがケーリくん。あと、彼の名前は知ってるかしら」
「いや、多分知らないはずです」
 男はひょいと肩を竦めて、改めてヒトミに向き直った。
「俺、ミドリノっていうんだ。言ってなかったよな」
「うん、初耳。それで、今から何するの?」
 ライカも初対面の人間とこの場に漂うただならぬ空気を前に、一瞬前までの興奮をすっかり忘れて、尻尾を下げて地面に伏せている。男、ミドリノはにやにや笑いながら、言い切った。
「言っただろ、花見だって」
 本当か、と思わずにはいられない。
 何しろ、地面に据えつけられたのは怪しげなアンテナ。アンテナから伸びたコードはこれまた怪しげな機械に繋がれている。機械に詳しくないヒトミには、このアンテナも機械も何のためのものか判断できない。詳しくても、わからないかもしれない。
「まさか、ミドリノ、この子に話してないの?」
「話すわけないじゃないですか、サプライズですよ」
 呆れ顔のキジマに、ミドリノは楽しげに笑う。一人だけ取り残された形のヒトミは自然と頬を膨らませる。
 ここで「帰る」とでも言えば、このミドリノとかいう男の驚いた顔が見られるだろうか。言ったとしてもこのイライラした気持ちは決して晴れないとわかっていながら、言葉を放とうとしたその時。
 ミドリノが、おもむろに月を見上げた。
 つられて、ヒトミも出かかった言葉を飲み込んで空を仰ぐ。
「四月三日。正中時刻、二十時二分」
 今までのテンションの高い喋りとは打って変わって、ミドリノが静かに放った言葉通り、半分より少しだけ膨らんだ月は天の最も高い場所を通ろうとしていた。
「兄貴と、花見をするって約束したんだろ」
「どういうこと?」
「すぐにわかるさ。ケーリ、頼んだ」
「はい。これをかけてください」
 ケーリ少年がヒトミに手渡したのは、機械に繋がれた新型のバイザーディスプレイだった。ミドリノも、手渡された自分の分のディスプレイを目の上に被せた。少しだけ躊躇ってから、ヒトミもミドリノに倣って半透明なディスプレイを装着する。
 一瞬のブラックアウトの後にディスプレイに映し出されたのは……もう一つの世界だった。
 視界一杯に広がるのは、黒い空に白い大地を切り取った窓だった。「寂しい」という言葉が一番よく似合う、写真や画像データで嫌というほど見せられた場所。
 そう、ヒトミはこの場所を知っている。
 ここは、月。
「こいつは、『ディアナ』のデータベースにかろうじて残ってた、遺留映像だ」
 ミドリノの声が、遥か遠くから聞こえる。本当は、すぐ側にいるはずなのに。
 音のない空虚な世界が、そこにあった。この場にはディスプレイしかないため、音声データは再現できないのだろう。静かな、動くものの何一つ無い世界が、現実の半月に被さって見える。多分、映しているのは月基地『ディアナ』の内部から見た月面なのだろう。窓の内側には、不可思議な機械がちらちらと見て取れた。
 この場所に、兄はいたのだ。
 胸が、苦しい。意味もなく、苦しくて。この目を覆うディスプレイを投げ出して、地面に叩きつけてしまいたくなる。なのに、腕が動かない……体が、いうことをきかない。
 動くもの一つない世界。そこに、不意に現れたのは一人の人間だった。もちろん、記録の中の存在で今この場所にいるわけではない。
 それでも、ヒトミの目から見るその姿は、不思議と滲んで見えた。
 理由は簡単、ヒトミの目に涙が滲んだからだ。だが、ぼやけた視界でもわかる。太い眉に、意志の強そうな瞳。地球にいたときよりも少し細くなっていたけれど、精悍な印象は何一つ、変わらない。
「兄貴」
 呟きは、過去に届くはずもない。しかし、記録の中の兄はこちらを向いて笑った。正確にはこの画像を写しているカメラに向かって笑いかけたのだろうが。
 兄の唇が動く。それに合わせて、画像の下の方に文字が映し出される。
 
『ヒトミに、届くことを願って、記録する』
 
「……っ!」
 呼吸が、詰まる。
 
『約束破ってごめん。
 でも、どうか俺の分まで、今年の花見を楽しんで欲しい。
 いや、今年だけじゃない。来年も、再来年も。
 友達を集めて、大騒ぎして……その騒ぎが、この場所まで届くように。
 そうすれば、俺も、君も、寂しくなんてないはずだろ。
 頼んだぞ、ヒトミ。これは、お前にしか頼めないんだ』
 
 その瞬間、画面にノイズが走る。赤いライトが点滅して、圧倒的なノイズに兄の姿がかき消されそうになる。それでも、兄は遠い記憶のままに笑っていた。カメラの向こうにいる誰かに……見えないはずのヒトミに向かって。
 最後に唇が紡ぐ言葉は、字幕で示されるまでもなく、わかった。
 
『ありがとう』
 
 それは、一体何に対する感謝だったのか。
 思っている間に兄の姿はノイズと化し……やがて、月の世界が、ブラックアウトする。
 全身から力が抜けてしまったヒトミは、ずるずると地面に膝をついた。手に何か湿ったものが触れて、やっと自分は地球の、桜の木の下にいるのだと思い出す。
「これが、『ディアナ』に残っていたデータの全てだ」
 ミドリノの声は、今までになく淡々としていた。バイザーを外してもらうと、ミドリノの顔はすぐ目の前にあった。そして、ライカは心配そうに真っ青な顔をしたヒトミを見上げて、手を一生懸命に舐めていた。
「他のデータもサルベージさせてもらうつもりだったが、破損部分の方が多かった。時間も足らなかったからな」
「……で」
「ん?」
 ミドリノが、ヒトミの顔を覗き込もうとする。
 瞬間、ヒトミはミドリノの顔を強く平手で張っていた。
 ケーリとキジマがぎょっとしてこちらを見たのはわかったが、構わずヒトミは叫んでいた。
「何で、こんなもの見せるのさ! 今更、私にどうしろっていうの、こんなの……」
 寂しさが増すばかりじゃないか。
 涙が溢れて、溢れて、止まらない。みっともないところを見られている羞恥と、デリカシーの無い目の前の男に対する怒りと、色んなものが混ざり合って胸の中でぐるぐる回っている。
「アンタは何もわかっちゃいない、どうしてこんなのを見せられて花見なんて気分になるの? ホント、バカじゃないの、最低だよ!」
 キジマが何かを言おうとするが、頬を押さえたままのミドリノが振り向きもせずに片手で制した。ゆらり、と目を上げたミドリノの顔を見て……ヒトミは続けようとした言葉を飲み込んでしまった。
 ミドリノの目が、完全に据わっていたからだ。
「お前こそ、何もわかってねえだろ」
 腹の底から、沸き上がってくるような声に、思わずヒトミは息を飲む。この男が、こんな声も出せたのかと思わずにはいられない。
「何を思って、お前の兄貴がこんなこと言ったと思ってんだ。最後まで、お前のこと考えてたんだろ、何でわかってやろうとしねえんだ!」
 ミドリノの言葉は正論だ。痛いくらいの正論だ。
 だからこそ、苛立って仕方ない。本当に言いたいのはこんなことではない。ない、はずなのに。頭で考える前に、言葉が先に出てしまうのだ。
「そんなの、わかってるよ! でも、今見せられたってどうしようもないって言ってるだけじゃない!」
「それがわかってねえ証拠だろ、お前、今の兄貴の話本当に聞いてたのか? きちんと耳ついてるか?」
「残念、あの映像には音なんてついてませんでしたー!」
「そんなとこで揚げ足取るな!」
「それに、アンタに兄貴の何がわかるってのさ、アンタなんかに兄貴を語られたくないんだけど!」
「そりゃ俺は何も知らんよ、そいつは認める! だが、何でお前は何でもかんでも真っ向から否定しようとすんだよ、少し素直になって俺様の話を聞け!」
「聞けるか! このデリカシー欠乏症の女心蹂躙装置!」
「何だと、手前のその曲がりきった減らず口、引っ張りゃ素直なこと言えるようになるんじゃねえだろうな!」
 ぎゃいぎゃいと言い合っていると、話は段々と関係のない方向に進んでいく。いつしか言い合いはどっちが何を言った、言ってない、わかってる、わかってないの堂々巡りになっていた。
 一体、何について喧嘩しているのかも忘れかけていた頃、いい加減声を上げすぎてがらがら声になっていたミドリノが、唐突に叫んだ。
「じゃあ聞くけどな! 手前、兄貴が死んで寂しいんじゃなかったのかよ!」
「寂しいよ、だから怒ってるんだろ! あんなの見せられたら余計に寂しくなるに決まってるだろ!」
「なら、見なければよかったって思ったか?」
「まさか!」
 ヒトミは思い切りかぶりを振った。
 確かに、あんなものを見せられた瞬間は、どうしていいかわからなくてミドリノに苛立ちをぶつけてしまったけれど、本当は、違う。
「ずっと、ずっと……兄貴は、私のことなんて目に入ってないって思ってた! でも違ったよ、最後、あんな形なのが悔しいけど、私の名前を呼んでくれて嬉しかった!」
「じゃあ、それでいいじゃねえか」
 ぽん、と。
 不意に、言葉が落ちてきた。それでヒトミは我に返る。
「すっきりしたか?」
「へ?」
「大騒ぎして、すっきりしたか、って聞いてんだ」
 一気に、肩の力が抜けてしまった。
 恐る恐るミドリノを見上げれば、頬を腫らしたミドリノは、先ほどまでの剣幕は何処へやら、口元に微かに笑みすら浮かべている。
 やられた、と思ったのは次の瞬間。
 ミドリノは、わざとヒトミに突っかかったのだ。どうしても、素直になれないヒトミの本音を引き出すために。そして、兄の遺言どおりの『大騒ぎ』を演出するために。
 やられた、と思ったのに。
 ヒトミも気づけば「ははっ」と笑い出していた。
「……少しだけ、すっきりした」
「ならよかった」
 悔しいけれど、今ばかりはミドリノの方が数枚上手だった。へたり込んだまま、見上げれば桜の木に引っかかっているように見える半月が、こちらを見下ろしていた。
 涙は、もうなかった。さっき言い合っているうちに、どこかに消えてしまった。思い出して泣くことはあるだろうけど、常に胸の中に抱えていた嫌な感覚は、綺麗に消え去っていた。
 隣で手を握っていてくれた兄は、もうどこにもいない。二度と会えない場所に行ってしまったのは事実。それでも、手の届かぬ場所から、笑顔で夜の桜を見つめている……何故か、今だけはそう確信できたのだ。
 ヒトミと同じように地面の上に座り込んだミドリノは、腫れた頬をさすりながらも満足げに桜を見上げる。平手打ちしたことを謝るつもりはない。ただ、一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。
「ねえ。今の、演技だったの?」
 問われて、ミドリノは「いや」と言って、ヒトミから目を逸らして頭を掻いた。
「悪い、正直半分以上はむかっと来て本気で言ってた」
 それを聞いて、ヒトミは心の底から安堵して……ミドリノの背中をばしばしと強く叩いた。
 バカで、デリカシーが無くて、一言多くて、でも何故か人の気持ちを汲んでくれる。この男が妙に愛しくて、でもその感情を素直に表現する術がないヒトミは、乱暴にミドリノを叩き続ける。
 どうして叩かれるのかさっぱり理解できないミドリノは、ちょっとだけ困ったような表情になる。
「な、何だよ」
 叩く手を緩めないまま、ヒトミは声を上げて笑う。いい気味だと思うし、何よりも、この胸の中に浮かび上がってくる不思議な感覚に名前をつけるのだとすれば。
「ちょっと、嬉しかっただけ!」