彼女は立ち上がり、ポケットの中から出した硬貨を何枚か置いた。男は顔を上げて硬貨を指すが、彼女は「いいのよ、奢り」と明るく笑いかけた。
長居しすぎた、と思う。そろそろ、ホールに着いていない彼女を心配した夫が探しに来る頃だろう。彼女の夫は彼女がどんな変装をして、どのように隠れていたとしても一瞬で探し当ててみせる。今までに何度そんなやり取りを繰り返したことだろう。
ついでに、嫉妬深いあの夫のことだ、他の男と歓談しているところを見ただけでも、機嫌を損ねるに違いない。
短い別れを告げようと口を開いたところで、唐突に男が手を伸ばし、彼女の右の手首を強く掴んだ。彼女が驚いて男を見れば、男は今にも泣き出しそうな、奇妙な表情で彼女を見上げていた。
「もし……もしもです。貴女が正しくなかったら、どうするつもりですか? 貴女の決断が、間違っていたら」
「確かに、ありえるかも」
手首を握る男の温もりを感じる。ごつごつしていて、決して見目が綺麗とは言えないものの、優しい熱を伴った指先は、少なからず男自身を投影しているようにも見えた。
きっと、鍵盤を叩かせれば力強くも独特な繊細さを持った音色を奏でることだろうと思う。
そんな男の手を空いた左手で握り返し、彼女は微笑む。
「だけどね、全部が全部正しいなんてことはないと思うの。誰かが正しいって言っても、誰かは必ず間違ってるって言う。それにね」
呆然とこちらを見返す男に。
「私は、セイギノミカタじゃない。世の中、正しいことばかりじゃ、つまらないじゃない」
男は、それこそ完全に言葉を失ったように見えた。口をぱくぱくさせながら、彼女と、握り返された自分の手を交互に見やっていたが、やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……貴女は、不思議な人ですね」
「そう?」
「そう。きっと、迷いがないのですね。とても、強い」
男の声に、彼女を羨むような響きが混ざる。それを聞いて、彼女は思わず苦笑した。
「いいえ、強くなんてない。ただ、馬鹿で……前しか、見えないだけよ」
彼の言うとおり、一度振り返り、考えるだけでも結果は変わるのかもしれない。けれども、どこまで行っても彼女の目に映るのは決まった未来。それならば、ただ前に進むだけ。そして、同じように前に進むのならば、笑っていたい。そう、願っているだけなのだ。
笑っていられることが「強さ」だというのならば、男の言うこともあながち的外れではないのだろうが。
「できることなら、貴女が選んだ結末を見てみたかった」
しかし、それは、叶わぬ願いですね。
呟く男の声は、今にもブルー・ノートの音調に沈みそうになっていたが、かろうじて彼女の耳には届いた。今度は彼女が男の言葉の意味を理解しかねて首を傾げたがそれ以上は問わなかった。
「コンサート、聞きに来てくれるのかしら?」
「申し訳ありません、今の私には、その時間もないのです。その代わりと言っては何なのですが」
男は彼女の手を放し、穿き古したズボンのポケットから、やはり古びた革張りの手帳を取り出し、彼女に示した。
「サインを、いただけませんか?」
「いいわよ」
普段ならば、顔も知らないファンに囲まれ、サインをせがまれるだけで辟易する彼女だったが、何となく、初めて出会ったはずのこの男の願いは笑顔で聞き入れることができた。
周囲が多少黄ばんでいる何も書かれていないページに、添えられていた青いペンで大きく言葉を記す。
『出会いを祝福して ミューズ・トーン』
この、ささやかな出会いを決して忘れることのないように。この手帳を持つ男が、そして、このサインを記した自分自身が。
ペンと一緒に手帳を返す。男はじっと彼女の筆跡を見つめていたが、ふと顔を上げて、初めて屈託なく笑った。
「ありがとうございます」
それが嬉しくなって、彼女も満面の笑顔を返す。
ああ、何て幸せな日。
未来が見えると言っても、彼女とて「全て」が見えるわけではない。出会いはいつも突然で、だからこそ、予期することのできない幸福を感じることができるのだ。
「……申し訳ありません、突然引き止めてしまって」
心底すまなそうに頭を下げる男に、彼女は笑いかける。
「いいえ、お話できてよかった」
もう一度、手を差し伸べれば男がそれに応え、その手を握り返した。温かく大きな手は、決して小さくないはずの彼女の手を覆い隠した。彼女は目を上げると、はっきりと、言った。
「貴方はこれからの私の分まで、幸せになってね。約束」
きっと、普通にこんなことを言えば怪訝な顔をされるだけだっただろう。だが、未来を見たという男は影をその穏やかな色の瞳に落としながらも、どこまでも笑い続ける彼女のことを思ったのだろう、笑顔で答えた。
「はい、約束します」
手が、離れた。彼女は座ったままの男に背を向ける。
すると、背中に声が投げかけられた。
「さようなら、ミューズ」
よく通る声に、彼女はふとある事実に気づき、振り返った。
「そういえば、貴方の名前……」
聞いていなかった。
そう言おうとした唇のまま、彼女は固まった。
一瞬前までそこに座っていたはずの男の姿が、消えていた。影すらも残さずに、忽然と。そこに誰かがいたと証明するのは、テーブルの上に残された二人分のティーカップだけ。
彼女は、すぐに喫茶店の出口に向かって駆け出すと、錆び付いた扉を思い切り開け放った。だが、通りを行き交う人々の中に、今まで目の前で穏やかに微笑んでいた男の姿は見えなかった。
溢れる人の波の中で、呆然と彼女は立ち尽くす。
「名前くらい、教えてくれたっていいじゃない」
誰も聞いていないとわかっていながら、口の中で呟かずにはいられなかった。思えば、自分からの別れの言葉も告げていない。一方的に「さようなら」と言って男は消えた。
そして、もう、二度と。
「ミューズ!」
慣れ親しんだ声が彼女を呼ぶ。はっとしてそちらを見れば、正装に身を包んだ夫が慌てた様子でこちらに駆け寄ってくるのが見えた。ただでさえ目立つ外見の夫が、彼女の名前を大声で呼ばわっているのだ、道行く人々も驚き一斉に夫と彼女を見た。
今までは誰も自分の存在に気づいていなかったのに、と彼女は思わず苦笑して、近寄ってきた夫に向かって人差し指を一本立て、唇に寄せてみせる。夫もそれでやっと周囲の驚きの目に気づいたのだろう、小声で「悪い」と言った。
「だが、貴女も勝手に出て行かないでくれ、スタッフが迷惑しているし、私も心配したんだからな」
「ふふっ、ごめんなさい」
彼女は悪びれもせずに笑うと、もう一度だけ喫茶店の窓を見る。丁度彼女が座っていた席が見えたが、そこにはもう、誰も座ってはいない。二つのティーカップを残したまま、二人分の席だけがぽかりと空いていた。
「……どうした、ミューズ」
「何でもない。行きましょう、リハーサルもしなきゃいけないものね」
彼女は愛する夫の腕を取る。夫は人の目もあるからだろう、顔を少しだけ赤らめながらも彼女がするに任せ、大股に足を出した。
もう、彼女は、振り返らなかった。
耳の中に響くブルー・ノートを口ずさみ、空を見上げる。
彼女は白い空の下、笑顔で一歩を踏み出す。
彼女と名前も知らない男が見た、未来に向けて。
喜劇『世界の終わり』