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階下の扉が閉まる音で、彼はまどろみから引き戻される。
依然CDプレイヤーは古いブルースを延々と流し続け、手帳は遠い日に彼女が記したサインを彼に示している。あの日と同じように。
あの日、ミューズ・トーンがどうなったのかは知らない。知りたくても、知ることができなかったのだ。彼は、あの場所に留まることが許されていなかったから。
彼女の未来を知ったのは偶然だった。彼は本来ミューズのように未来を見る能力など持ってはいない。ただ、偶然に彼女の未来を知ってしまったから、同時にそれは彼が望むような未来ではなかったから、止めたいと願った。彼女を止めることで、彼女の未来を変えたかった。
なのに、ミューズは笑った。笑って、彼の提案を拒絶した。
何故、笑っていることができたのだろう、と思う。
彼が目にした未来は、どこまでも、希望が見出せなかったというのに……
「……もしかすると」
――彼女は、自らの手で、自分が見た未来を変えようとしたのではないだろうか。
ミューズは、何も言わなかった。笑顔で、ただ「それでも、行くの」と答えただけで、自分の分の幸福を彼に託しただけで、自らが見た未来に殉ずるとは一言も言わなかった。あの笑顔は確かに決意だったが、その決意が一体何の決意だったのか、彼は知ることができなかったのだ。
もちろん、ミューズが未来に殉じたのか、変えようとしていたのか。それが成功したのか否か。彼がそれを確かめる術はない。
ただ一つ、今の彼が遠い日に出会ったピアニストのためにできることは。
「おおい、早くしないと置いてくよ!」
階下から響く声に、彼は重い頭を上げて立ち上がる。
「今行く!」
叫び返して、彼はもう一度、手帳を見た。色あせることのない青のインクが、ミューズの笑顔を蘇らせる。
『出会いを祝福して ミューズ・トーン』
「私も、会えてよかった」
小さく呟き、ゆっくりと手帳を閉じて、手元にあるプレイヤーのリモコンを手に取る。
「……大丈夫」
彼女のために今できることは、ただ一つ。
「私は、幸せです」
彼女との約束を、守り続けること。
そうしているうちにも、階下から呼ぶ声が音量を増す。そろそろ本当に置いていかれるかなと苦笑して、彼はリモコンの「停止」のスイッチを押した。流れ続けていた物憂いブルー・ノートは止み、部屋は静寂に包まれる。
手帳を机の上に置いたまま、窓の鍵をかけ、勢いよく部屋の扉を開ける。
もう、彼も、振り返らない。
「置いていくなよ!」
耳に残るブルー・ノートは、彼女の笑顔を呼び起こす。
結末は知らず、思い出すのはただ笑顔だけで、それでよいのかもしれないと彼は思う。彼女の笑顔を思い出せば、自分もまた笑顔を浮かべることができるから。
かつて未来を生きた時間跳躍能力者は今、青い空の下。
誰も知らない自分の未来に向けて、笑顔の一歩を踏み出す。
喜劇『世界の終わり』