喜劇『世界の終わり』

ブルー・ノート(3)

 この時期に彼女……ミューズ・トーンが独奏会を開くのは、毎年のことだった。連邦領内でも指折りのピアニストとして知られる彼女の演奏を聴くために、各地からファンが訪れる。現在は捨て置かれているこの都市が、彼女すら知ることのない、気が遠くなるほど遥かな過去の活気を一日だけ取り戻す。彼女はその光景が好きだった。
 そして、コンサートまでの時間を、誰にも気づかれないよう行きつけの喫茶店で過ごすのも彼女の毎年の楽しみの一つだった。普段は寂れている喫茶店も、今日ばかりは遠くから彼女の演奏目当てにやってきた人々であふれていた。それも、毎年のことだ。
 ただし、今年だけは一つだけ、例年とは違う点がある。
 それは、自分の正面に座り、居心地悪そうに肩を縮める一人の男の存在だった。
 ノイズ混じりの、気だるいブルー・ノートのバックグラウンドミュージックにカウンターに浮かぶ立体映像の音声が被さり、複雑に混ざり合って耳に届く。
『第三ブロック現地時間、地球暦三九九四年十二月二十四日、午前十一時のニュースです』
「……何を飲む?」
「いや、その、私は」
 彼女がメニューを勧めるものの、男は周囲をせわしなく見回していた。何が珍しいのだろう、と彼女は思うが、むしろこのご時勢にここまで古い建物が残っていて、なおかつ店の中に並ぶ器具もまた前時代的なものばかりであることが珍しいのかもしれない。
 この第三ブロック街は地球暦にして二十世紀代前半の文明特徴を色濃く残している。それは人類がこの地を離れた時期と丁度一致するとも言われている。
 だからだろうか、外からここを訪れる者は皆、妙な懐かしさを覚えるという。その感慨の本当の理由はこの地球に生まれ育った彼女にはわからなかったが。
「何でもいいわね?」
 男の返事を待たずに、彼女はカウンターに向かって声をかけた。男は抗議の声を上げるでもなく、カウンターに浮かぶ立体映像をじっと見つめたまま、上の空だった。
『未確認天体「ゼロ」の衝突まで、あと五年となりました。星団連邦政府は地球住民に至急の避難を呼びかけると同時に避難船を派遣しているものの……』
「 『ゼロ』……?」
 小さく、男が呟いた。その声に含まれた感情は、小さな驚き、だろうか。彼女は何となく不思議に思い、男に問うた。
「知らないの?」
 知らないわけがない。地球だけではない、連邦領に住む人間、特に太陽系圏人ならば誰だって知っている話だ。だが彼女の予想に反し男は首を横に振り、短く「知らない」とだけ言った。
 そう、と小さく彼女が呟いたところで、給仕用の機械人形がトレイを捧げ持ってこちらにやってきた。トレイの上には、湯気を立てるティーカップが二つ。あらかじめインプットされた滑らかな動きで人形はカップをテーブルの上に置く。
「ありがとう」
 この型の人形に人工知能が入っていないことはわかっていても、彼女は軽く微笑みかけて言葉をかけた。人形は何も答えず、来たときと同じように滑るようにカウンターの奥へと消えていく。男もまた、彼女と同じように人形の背中をじっと見つめていた。
「 『ゼロ』っていうのはね」
 人形の姿が完全に見えなくなったところで、彼女が口を開く。
「五年後にこの星に落ちてくる、青い星の名前。光の塊らしいんだけど、詳しいことは何もわかってない。誰が調べても、わからないの」
 彼女は言いながら薄汚れた窓の外を見上げた。窓の外に広がるのは、目には見えない微細な粒子に覆われた、白色の空。決して晴れることの無い、空。かつては、連邦の現首長星『アーク』と同じ青い空が広がっていたと言われているが、彼女はこの星で青い空を見たことがないし、今この星に生きている人間は皆そうだろう。
 そして、今は見えないもののこの空に浮かんでいるのは、遠くない未来にこの場所を消し去ってしまう、何か。全てを無に帰す、ゼロに戻す、存在。
「今は見えないけれど、夜になると見えるようになる。どんな星よりも強く輝く、青い星」
「……『ゼロ』 」
 男も彼女にならって空を見上げ、呟いた。そこに表情はなく、何の感情を感じ取ることもできない。白い粒子の空に目を凝らし、未だ遠い宙に浮かぶ青い星を探しているようにも見えた。
「一つ、聞いてもいいですか。とてつもなく馬鹿なことかもしれないのですが」
「ええ、何でもどうぞ」
 男は、静かな口調で言った。彼女も、薄い微笑を浮かべ、言葉を促した。小さく、心を落ち着けるように息を吐いてから、男は言った。
「ここは、地球なのですか」
 確かに、奇妙な質問だった。しかし、彼女は男の言葉を笑うことはせず、先ほど言葉を促した瞬間と同じ微笑のまま、頷いた。
「そうよ」
「そう、ですか」
 男は窓の外を見つめたまま、武骨な手で無精髭の浮いた顎を撫でた。
 何を思って、空を見上げるのか。夫と違い精神感応能力者というわけではない彼女は、相手の感情の流れがかろうじて読み取れるくらいで、何を考えているのか、ということまでは理解できない。それはそれで幸せなことなのかもしれないが、と思いながら、彼女はティーカップを手に取る。
「飲まない? 冷めちゃうわ」
 男も、その言葉に目を戻し、硬い表情はそのままに頷く。
「頂きます」
「お砂糖とミルクはいる?」
「いいえ」
 彼女が砂糖を一杯自分のカップの中に入れながら問えば、男は淡々と返し、カップの中に注がれた紅褐色の液体をじっと見つめた。いや、もしかすると水面に映って揺れる自分の姿を見ているのかもしれない。
 彼女はほんの少しだけミルクを加えると、一口、口に含んだ。口の中に広がる独特の苦みに、しばらく紅茶など飲んでいなかったと気づく。何処か乾いた香りがする、と思うのは、この街の空気が乾いているからだろうか。
 男も、ゆっくりとカップを持ち上げた。大きな男の手に包まれたティーカップはやけに小さく見える。猫舌なのだろうか、カップに唇をつけると、水面に軽く息を吹きかけてから飲んだ。
 しばしの沈黙が流れる。いつの間にかニュースは終わり、ブルースの物憂い旋律と自分たちの世界に没頭するそれぞれの客の話し声だけがこの空間を満たしていたことに気づく。
 どのくらいお互いに言葉を失っていたのだろうか、やがて茶を半分ほど飲み干した男が呟いた。
「……温かいです」
 その声は、今まで彼女が聞いたどの声よりも、穏やかな響きを含んでいた。彼女はそれを聞いて思わず笑み、男を見た。男は依然カップの中を覗き込んだままだったが、その口元は微かに笑っているようにも、見えた。
「美味しい?」
「ええ、美味しいです」
「よかった。これで気に入らないとか言われたらどうしようかと思った」
 屈託なく笑う彼女に、男は顔を上げ、不思議そうな目を向ける。何が男にとって不思議なのかは、彼女にも理解できる。だから、彼女は男が求めているだろう質問を投げかけることにした。
「じゃあ、私からも少し、聞いてもいいかしら?」
「何ですか」
 男の声が、再び硬質を帯びる。何となくその声も誰かに似ていると思いながら、彼女ははっきりと、言った。
「貴方は、未来を知ってるのね」
 びくり、と。男の身体が震えた。路地裏で彼女の肩を握り締めていたあの瞬間の、怯えにも似た目の色が戻る。肯定も否定も無かったが、その反応だけで答えはわかった。彼女は微笑みこそそのままに、もう一口だけ紅茶を飲んで喉を湿し、言葉を続ける。
「今日のこれから何が起こるのか、全部わかっていて、だから私を止めた。違う?」
 男は彼女の目を見つめたまま、凍る。唇から漏れるのは、擦れた声。
「な、何故」
「何故わかるのかって? 決まっているじゃない」
 ことり、と。
 カップをソーサーに置く小さな音が、ブルー・ノートを貫いた。
「私にも、未来が見えるから」
 時が、止まる。
 言った彼女自身が、そんな錯覚に囚われた。依然ブルースは続き、彼女と男の会話など聞こえてもいない人々の声が、この世界を満たしているというのに。
 ただ、同じ錯覚を男も感じていたのだろう、先ほどと同じ姿勢のまま硬直していたが、それは刹那のことだった。すぐに我に返って擦れた言葉を放つ。
「まさか、冗談でしょう」
「あら、予知能力なんて珍しくないじゃない」
 それは事実だ。
 この時代、超能力者など珍しくも何ともない。手も触れずに物を動かす念動力も、人の心に干渉する精神感応も、未来を垣間見る予知能力も、微弱なものであれば誰でも持ち合わせている、と言っても過言ではない。彼女もまた、そのような能力を持つ人間の一人だ。
 しかし。
 彼女は、男の目を見つめる。男もまた、こちらを射るように見つめていた。
「理解しているのならば尚更です」
 カップを置いて、男は言う。
「どうか、このまま、帰ってください。帰らなくてもいいのです。壇上に上らないでいてくれさえすれば、貴女は……!」
 よく響く、声だ。テーブルの上に置いた手が震えていても、唇が乾き、血の色を失っていても、声だけはどこまでも、凛と張り詰めた響きを持っている。言っている本人は気づいていないのかもしれないが、言葉には力があると、そう相手に信じさせてしまうような声だった。
 だが、彼女は笑う。
 笑顔で、男の精一杯の言葉を拒絶する。
 言葉はなくても、その笑顔だけで、十分すぎた。
 男の言葉に力があるように、彼女の笑顔にもまた確かな力がある。男のように、相手を圧倒するわけではなく、ただ、あるがままでありながら、折れない。
 男はぐっとテーブルの上で震える手を握り締めた。彼女が笑顔のまま男を見れば、男は目を伏せて、言った。
「それでも、行くのですね」
 搾り出すような声。男が何故そのような声を出すのか、理解できないわけではない。それでも……彼女は真っ直ぐに男を見据え、繰り返す。
「それでも、行くの」