『イの五七』は『ストーリオ』の言う光景の一端すらも思い描くことが出来ずにいた。ぽつぽつと頭の中に浮かぶのは映画や小説の挿絵などにある典型的な破壊の構図であり、『ストーリオ』が体感したであろう空気の熱さや埃っぽさ、そして虚無を感じ取るまでには至らなかった。
『ストーリオ』は震える指先をこすり合わせながら、目を伏せた。
「それから、何処にも逃げられないんだって気づいて、俺、今度こそ死ぬんだって。世界の終わりで、誰もいなくて、独りで死んでいくんだって思って、すごく怖かったんです」
何処までも続く荒野と墓。何もかもを焼き尽くした真紅の太陽と、誰が立てたのかもわからない無数の十字架だけが倒れ伏した『ストーリオ』を見つめていたのだろう。
「俺は無宗教なんですけど、この時ばかりは本当に、神様とやらを恨みました」
そこまで淡々と、うつむきがちに喋っていた『ストーリオ』が、ばっと顔を上げた。怒りと絶望を込めて、声を荒げる。
「どうして、俺ばかりこんな目に遭わせるんですか! 何処の時代にも俺みたいに時間を越えられる奴なんていなかった。皆、俺を笑った。信じてくれなかった。それでも何とか生きてきたのに、最後には誰も知らない場所で野たれ死ぬなんて。俺を何だと思ってやがる!」
そこまで叫んでから、我に返ったかのように頭を振り、また、力なく笑った。
「だけど、どうしようもない」
倒れこんだ場所の砂を掴んで、空に投げ捨てて。
いくら叫んでも、『世界の終わり』から逃げることは出来なかった。
熱が『ストーリオ』の体力を奪い去り、また孤独が生きる気力それ自体を奪っていく中で。
「その中で、幻覚を、見たんですよ」
元より幻覚のような、現実離れした現象を繰り返してきた『ストーリオ』だったが、今度こそ、彼自身それが幻であると疑わなかったのだという。
「多分、神様だったのだと思います」
「神様……」
「ええ。誰もいないはずの場所に影が立っていて、それで、俺に言ったんですよ」
言いながら、『ストーリオ』は天井を見上げた。ここにあるのは真っ白な、色気も何もあったものではない天井だが、彼の目に映っているのはきっと、『世界の終わり』の空。
「 『まだ、生きたいのか』、って」
幻の空を仰いだまま、『ストーリオ』は言った。
「神様は言うんですよ。こうやって、何処までも彷徨い続けることに何の意味がある。いっそ死んだ方が楽なんじゃないかって。俺だって好きでやってるわけじゃないってのに……でも、言われてみれば、何処に行ったって俺の居場所はなくて、こうやって何も無い世界で倒れているのとそう変わらなかったんだって、気づいたんです」
ここに来て、やっと『イの五七』は『ストーリオ』の目に宿っている暗い感情を真に理解できた。そして、「帰りたい」という言葉の意味も。
「帰ることが出来たとしても、もうお前の居場所なんて何処にもない、いっそここで楽にしてやろうかって、神様は囁くんですよ」
『ストーリオ』は、帰ってきた今もなお、孤独なのだ。
十年の空白を経た彼の言葉を受け止める者はなく、家族にすら哀れみの目で見られ、帰るべき場所を見失った。だからこそこの場で「帰りたい」と叫び、誰かに自分の経験を信じてもらいたいと願い続けている。
『ストーリオ』は全てを自分自身で理解していて、どうしようもないことすらも理解しながら、なお足掻こうとしていたのだ。誰にも理解されないまま。
孤独であることの恐怖を、『イの五七』は知らない。物心ついたときから『異能府』の代行者となるべく教育を受け、周囲には常に同じ道を進む「仲間」がいた。それを本来の意味で「仲間」と言っていいのかどうかは『イの五七』自身判断しかねたが、最低でも『ストーリオ』のように人々から拒絶され続けるようなことはなかった。
「だけど、俺は、生きたいと願った」
それでも、彼は決然と言い切った。
「いつ帰れるかもわからない。誰も待っていないかもしれない。正直、怖くて、死んでしまった方が楽だって本気で思った。でも、俺を苦しめ続けた『神様』とやらの思い通りになるのは、悔しかったんです」
悔しかった。
「……それだけ、ですか?」
それだけで、『生きたい』と願えるものなのか。
「それだけです。いや、本当はいろいろあるんでしょうが、俺が覚えてるのは、ただ、悔しかったってことだけ。それで、ふと気づいたら見慣れた公園にいました。身体中が痛くて、死にそうで、それに自分がどうなったのかがわからなくて、しばらくは何も考えられませんでした」
その後は、あなたが知っている通りですよ、と言って『ストーリオ』は苦笑した。
「もう一ヶ月近く経ちますけど、あれからは、神様も俺に愛想をつかしたのか、時間を越えることはなくなったんです。今でもほんの少しだけ、変な力は残っていますが」
「……時間を越えることは、もう、無いと?」
「多分。これからどうなるかは俺にもわかりませんが……」
『ストーリオ』が言いかけたところで、それを遮るように低い声が響いた。
「君が『ストーリオ』か」
はっとして、『イの五七』は扉に目を走らせる。『ストーリオ』も同時にそちらを見た。
そこには『イの五七』と同じ灰色のスーツを纏った『イの零』と、二人の男が立っていた。
「ストーリオ……?」
『ストーリオ』は呼びかけられたそれが自分の名前だと認識することが出来ずにいた。それも当然、この呼び名は本来『異能府』の人間の間でしか使われていない暗号名なのだから。
それが本人に伝えられるということは、『異能府』にとっては一つの事実を意味している。
『イの零』は『ストーリオ』の困惑を無視して『イの五七』の横まで大股に歩み寄る。それを合図にして、灰色の二人も足並みを揃えて病室の中に踏み込む。
「な、何だよ、誰?」
「 『異能府』、と呼ばれる者だ」
『イの零』はにこりともせずに『ストーリオ』に向き直った。『ストーリオ』は余計に混乱した様子で灰色の闖入者を見つめて首を傾げる。
「いのうふ? 何です、それ……皆さん、何そんな怖い顔してるんですか」
『ストーリオ』は長年の間時を渡り歩いてきた経験からだろうか、『異能府』の面々が放つ異様な雰囲気を鋭く察知していた。
おそらく、この異様な雰囲気の正体が『殺気』であることも、気づいていただろう。
「ご苦労だった、『イの五七』 」
『イの零』は感情の感じられない声で『イの五七』に言った。『イの五七』が深々と頭を下げたのを見て、『ストーリオ』は言葉を失う。目を見開いて呆然と『イの五七』を見つめている。
「我々は、世界の均衡を守るために動く、影の存在」
『ストーリオ』にはその意味の半分も理解できていないとわかっていながら、『イの零』は容赦なく、浴びせかけるように言葉を紡いでいく。
「 『ストーリオ』、君は世界の均衡を崩しかねない『異能』であると判断された。よって」
決して人の目に付いてはならない存在である『異能府』が表に出てくる目的は、ただ一つ。
「全てが壊れる前に、君の存在を抹消し、調和を取り戻す」
「抹消……って」
それでも、『ストーリオ』自身の未来を理解させるには、十分だった。『ストーリオ』は恐怖にかられてベッドから降りようとしたが、ベッドの両脇に移動していた二つの灰色の影がそれを許さない。あらゆる『異能』の抵抗を想定し訓練を重ねた『異能府』の代行者だ。一ヶ月もの間病室で過ごしていた男を取り押さえるくらい、わけもない。
「抵抗は止めた方がいい」
ベッドに押し付けられ、声も出せない『ストーリオ』を見下ろす『イの零』の目に、感情はない。これは、『任務』なのだ。突然変異的に生み出されてしまった世界の異物『異能』を排除する、神聖なる任。
「苦しむ時間が、長くなるだけだ」
『ストーリオ』は枕元に取り付けられたナースコールに手を伸ばそうとするが、その手もすぐに押さえられてしまう。もし手が届いたとしても決して助けが来ることはなかったのだが。
何故。
『ストーリオ』の口が微かに動き、そんな言葉を口にした。喉を押さえられ、それはひゅうひゅうという嫌な息遣いにしかならなかったけれど。
「さあな」
彼の言葉を受け取った『イの零』はそこで初めて、嘲笑にも似た笑みを浮かべた。
「恨むのならば、『異能』として生まれてしまった自分を恨め」
「嫌だ!」
ひときわ鋭い声が、狭い病室に響き渡る。『イの五七』はその声を聞いてどきりとした。刹那、ベッドの右脇にいた灰色の男が壁に叩きつけられていた。「貴様」、という声が終わらないうちに、『ストーリオ』を拘束していたもう一人の男もまた床に倒れ付す。
「……何?」
『イの零』は……そして『イの五七』も、唖然とした。
見れば、『ストーリオ』がゆらりと立ち上がっていた。右の拳を握り締め、歯を食いしばって。
まさか病人と言われていた『ストーリオ』がここまで抵抗するとは思っていなかったのだろう、『イの零』は小さく呻き、懐から小ぶりのナイフを取り出した。
「俺は這いつくばってでも生きてやる、絶対に!」
「愚かな……自らの恐ろしさを理解していないのか!」
『イの零』が手にしたナイフを突き出す。『ストーリオ』はそれを間一髪で避けてベッドの側から離れ、窓際に寄った。「殺せ」という『イの零』の言葉をうけ、半ば反射的に『イの五七』も隠してあったナイフを構える。
それを見た『ストーリオ』は、ふと、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
「何処まで、俺は神様に嫌われてるんだと思います?」
呟いて、
『ストーリオ』は窓の外に身を投げ出した。
「あなたがよく知る通り、私は不器用な人間ですよ」
秋谷はぎいと椅子を引き、天井を仰ぐ。
淡い色の壁紙に覆われ、頼りない明かりに照らされた天井に、秋谷はどんな空を描くのか。
「加藤さんみたいに仲のいい人じゃなければまともに喋れないし、自分のことを表現するのだってものすごく下手くそで」
長年の付き合いである加藤でなくともわかるだろう。秋谷の言動は、どう見ても社交的な人間のそれとは大きくかけ離れている。何しろ、気を許しているはずの加藤相手であっても、未だに目を見ながら話すことすらできずにいるのだから。
「だけど、人間生きているとどうしても欲が出るもので、ついつい『語りたい』って思っちゃったんです」
ディスプレイを覗いても、文字で構成された虚構の主人公『ストーリオ』が何を言ってくれるわけでもないが、現実の『ストーリオ』はディスプレイの中にいるわけではない。それを一番よく知っている秋谷は目を閉じて、言った。
「この目で見た、『世界の終わり』を」
喜劇『世界の終わり』