喜劇『世界の終わり』

09:凶器と信頼

「まさか、ここは五階だぞ!」
 『イの零』は窓に駆け寄り、異変に気づいた。
「……いない?」
 『ストーリオ』の姿が、何処にも無い。『イの零』は最悪の事態を想定したのだろう、思わず声を上げた。
「まさか、時間を越えたのか!」
 『イの五七』も窓の外と地面に目をやって、ふと『ストーリオ』の言葉を思い出す。
『時間を越えることはなくなったんです。今でもほんの少しだけ、変な力は残っていますが』
「いいえ……これは単なる空間跳躍ではないでしょうか」
「何?」
「今の『ストーリオ』に時間を越える力は無いのだと聞きました。彼の言葉を信じれば、彼自身で扱えるのは微弱な空間跳躍のみだと思われます」
 『ストーリオ』の能力は話を聞く限り、自らにも制御することのできない『時間と空間を同時に跳躍する能力』だ。そのうち制御不能だった時間を越える能力を失い、また「ほんの少しだけ」力が残っているのだとすれば、それは短距離の空間跳躍であると考えるのが妥当だろう。
 それを証明するものは、何もないが。
「にわかに信じられんが、今はそれを頼るしかない、か。出るぞ。手分けして奴を探せ。見つけ次第処理しろ。事後報告で構わん」
 『イの零』は何とか動けるようになった部下を連れて病室の外に出る。『イの五七』も迷わずそれに続く。何故か人の姿が見えない長い長い廊下を抜け、病院の外へと駆け出した。
 冬晴れの空の下、『イの五七』は『イの零』たちと別れて『ストーリオ』の姿を探し始める。
 実は、『ストーリオ』がそう遠くには行けない、と思ったのには他にも理由がある。
 先ほどの行動を見る限り、『ストーリオ』は時間跳躍とは異なり空間跳躍能力を自らの意志で制御しているように見えた。力を完全に使いこなせるのならば、とっくにあの狭い病室を出て好きな場所に向かっていてもおかしくない。
 だが、『ストーリオ』は何度か脱走騒ぎを起こしたくらいで、決して病院から完全に抜け出そうとはしなかった。
 これは、『ストーリオ』が制御できる能力の限界というのもあるだろうが、もう一つには……
「動くな」
 背後から、声。
 『イの五七』が振り向こうとしたのと、その喉元に何かが突きつけられたのは同時だった。
「な……っ」
「動いたり、大きな声を出したりしたら、俺があなたを殺します」
 『ストーリオ』。
 背後を取られるとは思っていなかった。
 片方の手に凶器……おそらく拾ったガラスの破片か何かだろう……を持ち、片方の手で『イの五七』の身体を拘束している。『イの五七』が予想していた以上に『ストーリオ』は力があり、また人体の構造を熟知しているようで、片腕だけで完全に『イの五七』の身動きを封じている。
「慣れてますね」
「茶化さないでください。十年うろついていれば、こういうことは何度でもあります」
 なるほど、と『イの五七』は思う。
 先ほど病室で『異能府』の代行者二人を倒したのも、同じく代行者である『イの五七』の背後を取れたのも、単なるまぐれではなかったのだ。
 柔らかな物腰に惑わされがちだが、無作為に時間を越える旅を続けながら生きて戻ってくるためには、常人を遥かに越えた自己防衛手段が必要になる。これは『ストーリオ』の実力を測り損なっていた『イの五七』の落ち度だ。
「……あなたは」
 ぽつり、と耳元で『ストーリオ』が囁いた。
「ずっと、俺のことを殺す気だったのですね」
「ええ、そうですよ」
 小さな棘が刺さったような痛みを伴いながらも、『イの五七』はそれを表に出さずに淡々と答えた。
「俺と一緒にいてくれたのも、俺のことを知った上で、殺すかどうかを判断するためだったのですか」
「そうです。あなたはよく喋ってくれました」
「ありがとうございます、それだけ聞ければ十分です」
 『ストーリオ』は突然『イの五七』を拘束する腕を緩め、凶器を投げ捨てた。からん、という高い音を立てて落ちたのは、予想通り割れたビンの破片だった。
 『イの五七』は『ストーリオ』に向き直り、呆然と見上げることしかできなかった。『ストーリオ』は子供のように無邪気な笑顔を浮かべながら、言った。
 
 
「今から一つゲームをしましょう、加藤さん……いや、『イの五七』でしたっけ?」
 
 
 加藤はじっと秋谷を見つめた後、深々と溜息をついた。
「本当に、人は生きているだけで欲深いものですよね、特にあなたの場合」
「ははっ、酷いですねえ」
 もちろん本当に酷い、とは思っていないからこそ、秋谷は笑顔でいられるのだが。
「生きている、で一つ思い出したのですが」
「え、何ですか?」
「あれだけ『生きたい』と言っておいて何故あの時手を放したのです?」
 突然何を言い出すのだろう、と秋谷は首を傾げ……すぐに、加藤が言わんとしていることを理解して大声で笑った。
「もう十年以上前の話じゃないですか」
「あなたが今書いているそれの話でもありますが」
「そりゃそうですね。いや、あの時は私もどうかしてたんですけど、確信はありましたよ?」
 秋谷はいたずらっぽく笑う。子供のように。
「現に加藤さん、隙だらけの俺も殺せなかったじゃないですか」
 その時、加藤の口元が、秋谷の笑顔につられてほんの少しだけ笑みを模ったように見えた。