「ああ、あなたですか」
『ストーリオ』付きの医者は、『ストーリオ』の病室から出るなり外の廊下で待っていた『イの五七』に言った。『イの五七』が普段どおりの挨拶を返すと、医者はにこにこと人好きのする笑みを浮かべて言った。
「いや、あなたが来てくれるようになってから、彼も随分明るくなりましてね」
この頃になると、『ストーリオ』は『イの五七』が来るたびに自分が経験した過去や未来の物語をするのが日課になっていた。その時の表情は大体重たいものだったが、少なくとも「誰も信じてくれない」と言っていた瞬間よりは遥かに生き生きしているように見えた。
「あなたが来た日は、いつも楽しそうにあなたの話をしてくれるのですよ。それに」
医者は、閉じた扉の向こうにいる『ストーリオ』のことを考えているのだろう、目を細めて白い扉を見つめていた。
「奇妙な話をすることも、突然、部屋を飛び出して行くこともなくなったんですよ」
「え……」
「薬を入れていないときでも随分落ち着いてきましてね。まだ定時の服用は続けているのですが、この調子なら少しずつ減らしていけるかもしれません」
それは、『ストーリオ』の精神状態が、徐々に回復に向かっているということか。
だが、『ストーリオ』は……
『イの五七』は、閉ざされたままの扉を見つめ、きっと微笑みすら浮かべながら自分の来訪を待っている、何も知らない『異能』を思う。長すぎる時間、いつ帰れるともわからない旅路を経て、この場所に帰ってきた男を思う。
ああ。
『イの五七』は無意識に手を握り締めた。
せめて、『ストーリオ』には笑顔を浮かべたまま眠りについてほしい、と思ってしまう自分がおかしいのだろうか。
それとも。
「大丈夫ですか?」
「死ぬかと、思った」
流石に異変に気づいた加藤が扉を開けて駆け寄ってきた。何とか喉に詰まった饅頭の破片を飲み干した秋谷はぜいぜいと喉を鳴らしながら、差し出された冷めた茶を飲み干した。
とんとんと突っ伏した秋谷の背を叩いてやりながら、加藤は呆れた。
「バカなことしないでくださいよ」
「私だってそう思う」
秋谷は机にうつぶせたまま言った。
「ああもう、自分が情けないな!」
加藤は奇妙な感覚に気づき、ふと秋谷の顔を覗き込んだ。
「いつもこんな風にバカばかりさ!」
吐き出される言葉に反して、
「何で、いつもこうなんだと思う、加藤さん?」
秋谷は、笑っていた。
要するに、俺は子どもなんですよ、と『ストーリオ』は笑う。
白いベッドの上に腰掛けて、『イの五七』と向かい合って、唐突にそんなことを言い出した。
「どういうことです?」
「俺、大人になれないんじゃないかなって思って」
意味がわからない、と『イの五七』が首を傾げると、『ストーリオ』も「ごめんなさい、変なことを言って」と苦笑した。窓の隙間から、冷たい冬の風が入り込んでいることに気づき、『イの五七』は窓を閉めた。
揺れていた白いカーテンが、動きを止める。それを見届けた『ストーリオ』は再び口を開く。
「長い間、いろんなものを見てきました。あなたに教えたのはその一部ですが。それで、一つ不思議に思いませんでした?」
明るい色の目が、いたずらっぽく細められる。
「どうして、俺がここに帰ってこられたのか」
そう。十年近くの間、留まることもできず、望まぬままいつとも何処ともわからぬ場所を彷徨っていた『ストーリオ』が何故、今この場所にずっと留まることが出来ているのか。
『イの五七』だってそれを疑問に思っていなかったわけではない。ただ、それを『ストーリオ』に問うことは残酷だという奇妙な確信があった。
その確信を裏付けるように、『ストーリオ』の表情に少しだけ、影が落ちた。
「この話は誰にもしないつもりだったのですが、それでも、誰かに聞いて欲しかった……その、あなたに、話してもいいですか?」
『イの五七』は不安げに顔色を伺う『ストーリオ』を安心させるために笑いかけた。
「 『語りたい』、と思うことに罪はありません。聞かせてください、何の話なのです?」
今まで、こうやって「話していいか」と『ストーリオ』が確認することは何度もあった。自分の経験を否定されることを極度に恐れる彼なりの防衛手段だったと言えなくもないが、今回だけは今までの話と趣が違うのは確かだった。
掛け布団の上で組まれた『ストーリオ』の手が、小刻みに震えていたから。
「 『世界の終わり』の、話です」
訝しげな加藤の声が降ってくる。
「小さい子供じゃないんですから、しっかりしてくださいよ」
「わかってます!」
「わかっているんだったら」
「……でも」
加藤も、気づいた。
笑いながらも、秋谷の指先が小刻みに震えていることに。
「少し、待っててくれませんか? 年甲斐もなく、変なこと思い出しちゃって」
息苦しかったんです。
いつもと違うなって思ったんです。
それで、ここが何処かって考えて、そこで初めて目が風景を理解したんです。
何処までも広がる赤茶けた荒野。
空を埋めつくす太陽が赤くて大きくて熱くて、焦げた空気が肺の中に入ってきて。
正確にそこが何処だったのかは、今でもわからないけれど。
荒野にたくさんの、たくさんの十字架が立っていて。
それで、俺、気づいたんです。
これが、『世界の終わり』なんだって。
「苦しいのでしたら、何故書こうなどと思ったのです?」
加藤が淡々と問いかける。秋谷はのろのろと顔を上げ、加藤に向かって苦笑を浮かべてみせた。まだ震えは止まらないが、何とか言葉を紡ぐことはできた。
「んー、何ででしょうねえ」
ディスプレイの中に存在するのは、文字で構成された虚構の男。
男の名は『ストーリオ』。
その名の元々の意味は、『物語』……『作り話』。
「ほら、『作り話です』、って書いておけばどんなバカなことを語ったって誰も笑いやしないじゃないですか。元々『作り話』なんですから」
笑う秋谷に対し、加藤は、無言で秋谷を見下ろしていた。それを見て、秋谷も笑顔を作るのをやめて、ぽつりと言った。
「それに、『語りたい』って思うことに罪はない」
喜劇『世界の終わり』