数日『ストーリオ』の元に通ってみて『イの五七』がわかったことは、『ストーリオ』が失踪していた十年間に世間で起こった出来事を全く把握していない、ということだった。ただ、その十年間彼が何をしていたのか、ということは語ろうとしないし、まだ聞き出せるまでに至ってはいなかった。
それでも『ストーリオ』は随分『イの五七』の訪問を喜んでいるようで、初めはただ『イの五七』の話を聞くだけだったのが、段々と口数も増えてきたように思える。時折薬が切れて誰彼構わず当り散らすようなこともあったが、薬を服用している限りは事前調査に書かれていた「酷い錯乱状態」とは思えない、落ち着いた物腰の好青年といった印象だった。
そして、今日もまた『イの五七』は『ストーリオ』の病室を訪れたのだが、その日は先客がいた。『ストーリオ』が座るベッドの前に、背の高い男が立っていた。何となく、『ストーリオ』に顔立ちが似ていた。
男は『イの五七』に気づくと軽く会釈して、『ストーリオ』から話は聞いていたのだろう、「いつも兄が世話になっています」といったことを口にした。どうやら、事前調査にもあった『ストーリオ』の弟らしい。
『ストーリオ』は何故か複雑な表情で『イの五七』と弟を見比べていたが、やがて掠れた声で、言った。
「少し、一人にしてくれ」
「兄貴?」
弟は、唐突な『ストーリオ』の言葉に戸惑いを浮かべるが、次の瞬間『ストーリオ』はヒステリックに叫んだ。
「出て行け! さっさと出てけ!」
こうなっては、話をするどころではない。『イの五七』は心配そうな表情を浮かべている弟を引き連れて病室の外に出るしかなかった。扉を通しても聞こえてくる『ストーリオ』のわめき声が痛々しいが、今出来ることは彼が落ち着くのを待つことだけだ。
「その、申し訳ありません、うちの兄が」
「いいえ、構いませんが……しかし、突然どうしたのでしょうね」
頭を下げる弟に、『イの五七』は遠慮がちに笑いかけながら疑問を口にした。すると、弟が苦い表情を浮かべて言った。
「たまに、あるんです。薬が効いていても、何かがふっと切れたみたいに叫んだりすることが。これでも、見つかった一ヶ月前よりは随分落ち着いてきたのですが……」
「当時、どのような状況だったか聞かせてもらってもよいですか?」
『イの五七』は不躾な質問だったか、と思ったが、弟も今までいろいろな相手に同じ事を聞かれてきたのだろう、特に気を害した様子もなくすらすらと答えてくれた。
「兄は家の近くの公園で見つかったのですが、その時には酷い怪我をしていて、しかも全く喋れないような状態で……何かに、怯えているように見えました」
これは、事前報告にもあったことだ。
『ストーリオ』はほとんど廃人に近い状態で発見された。現在の状態まで回復したのはまさに奇蹟、といったところだろう。
「それでも、何とか話が出来るくらいにまで回復して、話を聞いたのですが」
「一体、彼は何を?」
「……わかりません。俺には、さっぱり理解できないことばかり言うのです。他愛もないことを喋っているうちはいいのですが、一体十年間何をしていたんだと聞くと、まるで夢のようなことを言って」
「夢?」
弟は、『ストーリオ』とよく似た色の薄い眼を細めて、何ともいえない顔をした。
「本当に、バカな話ですよ。兄は『過去や未来に行っていた』、と繰り返すのです」
まさか。
『イの五七』は、思わず目を見開いていた。
確かに『時間跳躍』と疑われる事例はいくつか『異能府』も確認しているが、それらのほとんどはデマか妄言である。実際に『時間跳躍』を行う人間というのは、長年『異能府』で過ごしてきた『イの五七』も確認したことがない。
「時間を越えた、と言いたいのですか?」
「兄が言うには。兄がこの十年間、何をしていたのかは私にもさっぱりわかりませんが……多分、よほど辛い目に遭って、心の傷からそういう妄想に囚われてしまったのではないかと医者は言っていましたし、私もそう思います」
そうやって考えるのが、普通だ。『イの五七』もそう思う。『ストーリオ』が実体験を伴ったものだと「思い込んだ」、狂人の戯言だろう。人の記憶など簡単に歪められてしまうものだという例は、『イの五七』自身よく見てきている。
だが、もしも『ストーリオ』の言葉が、まぎれもない真実だとしたら?
「とーきを自由にっ、こーえたーいなー!」
扉の外に立っているだろう加藤がつれないのと、あまりに原稿が進まないのが相まって、秋谷はやけになって叫んだ。
「……古いですよ、秋谷さん」
「ドラ○もーん!」
「残念ながらまだ今は二十一世紀初頭です」
加藤の突っ込みも微妙に的外れなのは気のせいだろうか。
秋谷は加藤から見えていないとわかっていながらも、思いっきり腕を振り上げて叫んだ。
「じゃあ二十二世紀にレッツゴー! やったねドラ○もん! 机の中からタイムマシンだ!」
「随分いい感じにキレてきましたね」
加藤の声に呆れが混ざる。とは言え、秋谷が原稿執筆中に奇妙な現実逃避を始めるのはいつものことなのだろう、動じた様子はない。それにしてもむさい四十路男が「タイムマシンだ」と叫び、高笑いしているとは何ともおかしな光景である。
「秋谷さん」
「えー、何かな加藤さーん」
「時間を越えて、どうするつもりですか」
「もちろん、決まってる!」
秋谷はだん、と机を叩く。机の上に置かれたノートパソコンと手帳が揺れた。
「一ヶ月前の私に、『今の私はこんなに修羅場なんだから、一ヶ月前の私よ、今から原稿を書くんだ!』と忠告を」
「それで、一ヶ月前、あなたはそんな忠告を受けましたか?」
「あ、れ? いや、受けた記憶は……」
加藤の言葉を受けて、秋谷は一生懸命考える。
確かに、加藤の言うとおり、一ヶ月前に「今の秋谷」が「一ヶ月後の秋谷」を見た記憶はない。そうするともしも「今の秋谷」が一ヶ月前に戻ることができ、「一ヶ月前の秋谷」に会って助言をしたとしても「一ヶ月後の秋谷」に会っていなかった「今の秋谷」の結果には影響しないと考えられ……
「もしかして、今の状況は全く変わらないって話?」
「それは時間跳躍に伴う矛盾の一つのパターンでしょう。平行世界への分岐を起こしつつも『今』の自分が存在する『今』は変わらない、というものですね。その他には『帰ってきた時には全く知らない「今」になっていた』や、『過去に行っても自分に助言することが出来ない』など、いろいろな考えられうるパターンが存在しますが」
要するに、前提からして完全にサイエンス・フィクションの領域である。元よりそちらの方面に詳しい秋谷は眉を寄せた。
「それは私だって知ってるけど、余計にこんがらがってきたじゃないですか」
「まあ、余計なことを考えている暇があったら書いてください、という話です」
そうですね。
あくまで淡々とした加藤の言葉に、秋谷は力なく呟くしかなかった。
喜劇『世界の終わり』