喜劇『世界の終わり』

05:旅路と家路

「……聞いたんですね、弟から、俺の話」
 翌日。『ストーリオ』は穏やかに微笑みながらも単刀直入に問いかけてきた。『イの五七』は無表情を装ったが、言葉を投げかけられた瞬間の揺らぎまで隠すことは出来なかった。
「あなたも、俺の頭がおかしいって思ってますよね?」
 笑顔のまま、『ストーリオ』は確かめるように言う。だが、その笑顔が無理やり作ったものだということは明らかだ。
 ここに来てから何度そうやって言われてきたのか。何度同じことを言われても、きっと慣れることはなかったのだろう、笑顔の奥に見えるのは初めて会ったときと同じ、暗い色。少しは気を許せるようになった『イの五七』にまで否定されるのを、恐れているようにも見えた。
 『イの五七』は少しだけためらった後に、首を小さく横に振った。
 『ストーリオ』の目が驚きに見開かれる。
 まさか、ここに来て自分の話を認められるとは……しかも、素性も知らない相手に認めてもらえるとは思ってもいなかったのだろう、彼は我に返った後も困惑を浮かべていた。
 いや、自らの十年間の経験を訴える『ストーリオ』自身、自分の話が常人からすれば荒唐無稽なものだと気づいているのかもしれない。彼の口から零れたのは、弱々しくも微かな希望にすがろうとする声。
「……信じて、くれるのですか?」
「一から十まで信じるか、と言われると悩むところですが、最低でも、あなたが言っていることが嘘とは思えません」
 『イの五七』は、淡々とした口調ながら一言一言をはっきりと『ストーリオ』に言い聞かせた。『ストーリオ』の緊張が、ゆっくりと解けていくのがわかる。
「ですから、もう少し、詳しく話を聞かせてはいただけませんか?」
 『イの五七』の言葉に、『ストーリオ』は素直に頷いた。
「初めは、俺だって悪い冗談だと思っていたんです」
 高校三年のクリスマス・イヴ。聖夜と言えば聞こえはいいが、『ストーリオ』をはじめとする受験生にクリスマスなどという言葉はない。『ストーリオ』もまた進学塾の帰り道だったという。
 夜も遅く、聖夜に沸く駅の周辺以外はひっそりと静まり返っていて。聖夜なんてこんなものかと思いながら帰途につく。
 だが、その時に異変が起こった。
「いつもの帰り道だったはずなのに、道を曲がったら全く見たこともない場所に出たんです」
「見たこともない場所?」
「……街灯もない、やけに暗い場所で。星が怖いくらいに綺麗だったのは、覚えています。それで、どうしていいかわからなくなって、元の道に戻ろうと思ったのに、何処にも来た道がなくて」
 『ストーリオ』は小さく震えた。その時の光景を思い出して背筋に冷たいものが走ったのか。
「走っていたら転んで、下が石畳だってことを初めて知りました。もう痛い上に怖くなって、それでもどうしようもなくて、ただ、夜明けを待つしかありませんでした」
 けれど。
 彼は何処か引きつった笑顔を浮かべながら続けた。
「夜が明けたら、自分がとんでもない場所にいることに気づいたんです」
「とんでもない場所……とは、一体、何処に?」
「今でも、あれが『何処』だったのかはよくわかりません。ただ、映画とかテーマパークで見るような、『外国の街並み』だったと思います。しかも、大昔の。言葉もわからなかったから、多分英語圏じゃなかったんだろうなとは思うんですけど」
 俺、当時から英語だけは得意だったんで、と『ストーリオ』はわざとおどけた調子で言った。
「それで、朝になって、人が出てきたのはいいんですけど、外人だし見たこともない格好してるし、しかも俺を見て悲鳴を上げるんですよ。どうしたんですかって聞いても言葉は通じないし、逆に鍬とか振り回して俺のことを追い回す人も出てくる始末で。命からがら逃げ出しても、何処に逃げればいいのかなんてさっぱりですし」
 そういえば、ちょうどあの頃世界史で習ってたんですけど、「魔女狩り」ってあんな感じだったんでしょうかね。
 『ストーリオ』は冗談めかして言うが、半分以上冗談ではなかったのかもしれない。
「きっとこれは夢だって思いたかったんですけど、いつまで経っても覚めないし、しかも殴られれば痛いし腹は減る。新手のドッキリかと無理やり思い込もうと思った瞬間もありましたよ、本当に」
 だが、そうやって「現実」から逃避しようと思っても、逃げることは出来なかったのだ。
「何日くらい追い回されたのかな、そろそろ体力だけじゃなくて精神的にも限界で、ああ、俺何でこんなとこで死ななきゃいけないんだろう、って思った瞬間、全く別の場所にいたんです」
 今度は、同じように映画などで見るような世界であることには変わりないが、逆に高度に発展した世界だったのだという。
「すごいんですよ、それこそマンガで見るような『未来』って感じで。どうやって発展したらああなるんだろうなって思って。そこでは、何とか言葉は通じたんで聞いてみたんですよ」
 バカな質問だと思いますけどね。
 そう付け加えて、『ストーリオ』は笑う。
「 『今、西暦何年の何月何日ですか』って。当然笑われましたけど、何て言われたと思います?」
 『イの五七』の答えを待たずに、『ストーリオ』は笑いながら言った。
「 『二二五六年』ですよ! 今が何年だっていうんですか? これはもう俺の頭が本当におかしくなったんだって思いましたよ。周りの奴らも俺のことをいかれた奴だって思ったらしく、さっさと病院送りになったんです。ですが、今度は病院から知らない森の中に飛ばされて……」
 その、繰り返しですよ。
 言って、『ストーリオ』は笑顔を消して深く深く、息をついた。
「原因はさっぱりわからない。飛ばされる場所と時間、飛ばされるまでの期間に規則性もない。それで、俺が体感する時間にして大体十年くらい過ぎて、やっと、ここに……俺が本来いるはずの時間に戻ってこられたんですよ」
 なのに。
 『ストーリオ』は大きな手で顔を覆った。
「誰も、俺のことなんて、待っちゃいなかったんですよね」
 その言葉に、『イの五七』は息を飲んだ。
「皆、俺の話を聞いても信じちゃくれないし、口をそろえて『狂ってる』って言って、こんな部屋に押し込めて……俺、何のためにここにいるのかな」
 そういえば、『ストーリオ』は初めて出会った時何と言っていた? 病室を抜け出して、捕まりながら何と叫んでいた?
「俺は、ただ、帰りたかっただけなのに」
 帰りたい。
 そのために、この男は十年もの間、夢とも現実ともつかない場所を旅していたのだ。何度も生死の狭間を彷徨いながらも、「帰る」ことだけを支えとして、ここにたどり着いたというのに。
「何処に帰ればいいんだろう……って、今では思う」
 
 
「そういえば秋谷さん、娘さんはどうしてるんですか」
「今の時間は学校ですよ。送り迎えはシズカがやってくれるって。そんなこと言って、加藤さんの息子さんは? 旦那さんも働いてるんでしょ、置いてきちゃって大丈夫なの?」
「妹に任せてありますのでご心配なく」
 さらりと流されてしまい、秋谷はちぇっと舌打ちした。それを聞きつけた加藤は呆れた声で言った。
「そんなにここから逃げたいんですか?」
「逃げたいに決まってますよ。私は密室と〆切が嫌いでお家と家族が大好きなんです」
「好きなら奥さんに『浮気してやる』とかめったに口にしないことですね」
「うっ」
「知ってるんですよ、この前も奥さんが相手してくれないからって冗談で『浮気してやる』って言ったら『君に、他に愛する人が出来たというのなら素直に祝福するよ。愛は理性ではどうにもならないし、私の幸せはどういう形でも、君が幸せでいることだから』って笑顔で言われたんですよね。相変わらず情けない旦那様で」
 この言葉を聞く限り、秋谷より秋谷の妻の方がよほど男前に思えるのは気のせいではない。
「う、うるさい! それより何で加藤さんがそんなことを知ってるんですか!」
「決まっているじゃないですか、奥さんが言っていました」
「シズカのバカ!」
 哀れな秋谷の悲鳴が、密室に響き渡る。