話を聞けば、『ストーリオ』は毎日病室から逃亡を図っているらしい。一回は家まで本当に帰ってしまい、その後家族によって病院に戻されたという話だ。これもまた奇妙なことで、硬く閉ざされた扉を「開けることもなく」外に出て行くのだという。
やはり、『異能』なのか。
『イの五七』は『ストーリオ』の病室の前で思案する。医者に聞いたところ、今は精神安定剤を投与したところらしく、中で騒いでいる様子はないし、再び部屋から抜け出したわけでもないだろう。
部屋に入る許可を得て、『イの五七』は扉に手をかけた。音も立てずに扉が開くと、目の前に広がっていたのは、白一色に塗りつぶされた、箱のような部屋。窓際に置かれたベッドの上に、『ストーリオ』が座っていた。
『ストーリオ』は『イの五七』に気づいた様子はなく、薬が効いているのか、気の抜けた様子で虚空を見つめていた。開いた窓から冷たい風が吹き込みカーテンと彼の短い髪を揺らす。
『イの五七』事前調査にあった『ストーリオ』の本名を呼ぶと、彼はちらりとこちらを見て、くぐもった声で問う。
「誰?」
誰、と問われた時にはマニュアルが存在する。『イの五七』は仮に与えられている「警察」という身分と、偽名を告げた。『ストーリオ』は薬のせいかとろんとした目つきで『イの五七』を見つめていたが、やがて低い声で呟いた。
「警察の人が、俺に、何の用ですか?」
その言葉に感情らしいものは感じられなかったが、張り詰めた表情と強張った身体からもあからさまに警戒しているのはわかる。
「いえ、大したことはありませんが、少しお話を伺いたいと思いまして」
「……俺から話すことはありません」
静かに、しかしはっきりと、『ストーリオ』は言い切った。
「ない、とは」
「何度もあなたみたいな人が来ましたけど」
『ストーリオ』の口元が歪んだ笑みを模る。嘲笑にも見えるし、自嘲のようにも見えた。
「一人も、まともに俺の話を聞いちゃくれないんですよ。皆、俺のことを狂人扱いして、最後には『かわいそうな人だ』って。だから何も言わないことにしたんです。そちらの方が、皆さんにも俺にも都合がいいみたいですし」
口調は軽かったが、その目が映し出すのは暗い感情。いくら態度が落ち着いていても隠しきれない何かが、『ストーリオ』の中に渦巻いているのは確かだった。それが周囲の人間の言うような「狂気」であるかどうかは、まだ『イの五七』には判別しかねるが。
「それとも何ですか? 下らない雑談でもしに来ました? それなら大歓迎ですけどね。近頃事情聴取以外に人と話すことなんてなくて飽き飽きしてたんですよ」
言われて、ふと『イの五七』は『ストーリオ』に気づかれないように部屋の中に目を走らせる。療養のための最低限のものしか置いていない白い部屋。花瓶の中に入っていた見舞いの花は既にしおれていた。近頃は家族すらも訪れていないのか、もしくは訪れていたとしても『ストーリオ』と言葉をかわさないのかもしれない、と考える。
「雑談、ですか」
『イの五七』は使い慣れている作り笑顔を浮かべて『ストーリオ』に言った。おそらく今の状態では『ストーリオ』から『異能府』が求めているような決定的な証言を得るのは不可能だ。
それならば、少しでも彼に心を開かせる方が先だ。『イの五七』には、まだ時間はたっぷりと残されているのだから。
「それも、悪くないですね。こんなところにずっと閉じ込められていては気分も沈むものでしょう」
「わかります?」
『ストーリオ』はそこで初めて微かに微笑を見せた。今まで浮かべていた強張った表情や、先ほどの狂乱状態からは想像もできないような、少年を思わせる幼い笑顔。
「こんな部屋にずっといるせいで最近のこと、全然わかってなくて。何か面白い話、あります?」
加藤に言わせて見れば、「雑談なんて時間の無駄」ということだが。
完全に頭の回転が止まっていた秋谷はキーボードをのろのろと叩きながら、気晴らしとして、必死に加藤との会話を成立させようとしていた。
「昔の加藤さんはもっと優しかったと思うんだけど」
「協力してくださる方にはそれなりの態度を示しますし、逆もまた然りです」
「そりゃあそうですよねえ」
昔がどうだったのかはともかくとしても、今の秋谷は、担当編集者である加藤にしてみれば「協力とは程遠い」人間だ。加藤の態度が冷たいのは当然といえば当然で。
「だから、五分でいいので外に出してください。こんなところに閉じ込められちゃ鬱々として進むものも進みませんよ。ね? ほら、外のいーい空気吸えばサクサク進みますよきっと」
「〆切過ぎてたのに昨日まで箱根でいい空気吸っていたんですからそれは今更だと思いますよ秋谷さん」
「うっ」
決定打。
それ以上、秋谷に反論の余地はなかった。
「黙ってサクサク進めてください」
ぴしゃりと言い切られ、それきり加藤の声は聞こえなくなった。足音が聞こえなかったからおそらくまだ扉の外で秋谷が逃げないように監視を続けているのだろうが。
何となく、寂しい。
自分のせいだとはわかっているが、やはり秋谷は加藤と出会った当時のことを思い出さずにはいられなかった。あの頃から自分は何も変わっていないような気がするものの、お互いの関係は少しだけ、違った。
それは、決して「理想の」関係ではなかったのだが。
こんなことを考えていると妻に悪いかな、と苦笑して、秋谷はささやかな追憶から、現実の白紙に近い原稿に戻る。
喜劇『世界の終わり』