アイレクスの絵空事

片付けの断章

 ずいぶん、贅沢に湯を使ってしまった。
 濡れた体を拭きながら、そんなことを考える。
 終末の国、その中でも辺境では特に、水は貴重品だ。飲むにせよ身を清めるにせよ、浄化された水を無駄遣いすることは許されない。
 もちろん、宿に泊まる場合も、水の料金は使っただけ加算されていく。いくら塔が旅の経費を負担してくれると言っても、さすがに、どこか後ろめたいものを感じる。
 とはいえ、僕だって、きちんとした町に泊まるのが久しぶりだ。このくらいの贅沢は許される、と思いたい。
 ……そうだ、後で薬を入れておかないと。
 今日の分はすっかり忘れていた。
 この体をこの形で維持するには、薬が不可欠だ。いつかきっと、何もしなくても自然と安定する日が来る、とは言われたけど、いつになれば、その時が来るのだろう。そう、毎日のように、考える。
 新しく買い揃えた服を着て、濡れたままの髪から軽く水分を拭き取る。上着もあったけど、まだ暑いから、後で着ればいいだろう。
 網膜保護装置をかけて、なるべく音を立てないように扉を開ける。
気づかれないかな、と思ったけれど、ベッドに座っていた鈴蘭は、すぐに僕の存在に気づいた。
 そして、露骨に目を見開いた。
 一体、どういう意味なのかはわからないまま部屋を見渡して、すぐに、そこにいるはずの姿が一つ、消えていることに気づく。
「ジェイは?」
「お酒、飲みにいくって」
 またか。
 今までの任務でも、ジェイはことあるごとに、僕の前から姿を消していたから、別段驚くことはない。ただ、呆れるだけだ。
 でも、まあ、久方ぶりの町なのだ。今日くらいは構わない、だろう。
 ……塔の金を使ってなければ。
 鈴蘭は、本を膝の上にのせたまま、じっと僕のことを見つめている。
 何か、僕におかしなところでもあるだろうか。ただ、風呂に入って上がってきただけなのに、鈴蘭の視線が刺さるように感じる。
 思っていると、鈴蘭が口を開いた。
「その腕の模様、何?」
「模様?」
 僕は、半袖のシャツから突き出た自分の腕に視線をやる。
 ――なるほど、これが珍しかったのか。
 実際には、単なる模様ではなくて、塔の研究機関で使用される暗号だけど、確かに、鈴蘭にとっては珍しいものなのかもしれない。普通の人間には、まず必要はないはずだから。
 珍しいものを観察する、その気持ちはわからないわけでもない……、けれど。
「……そう、まじまじと見るものでもない」
「そ、そうだよね! ごめん」
 鈴蘭は慌てて僕から目をそらして、手元の本に意識を戻した、ように見えた。そう見えただけで、やっぱり気になるのか、本越しにちらちらと僕の方に視線を向けてくる。
 どうも居心地が悪かったから、結局、上着を羽織る。その瞬間も鈴蘭の視線を感じたけれど、気づかないふりをして。
 鈴蘭は、なぜか少しだけ名残惜しそうな顔をして、本の後ろに顔を隠す。この子が何を考えているのかは、相変わらず僕にはさっぱり理解できない。
 理解できないから、考えることをやめて、これから自分がするべきことに思考を切りかえる。ひとまず、今日のうちにできることは、済ましておかなければならない。
 床の上にシートを引き、その上に、車から降ろしておいた荷物を広げて、僕もその前に座る。荷物のうち、これから必要なものと、そうでないものをより分ける。
 これからは、鈴蘭の体のことも考えて、こまめに町に立ち寄ることになるだろう。そのため、いくつかの装備は処分して、身軽になっておいた方がよい。新たに必要なものがあれば、町で手に入れればよい。
 反面、もしものこともある。
 この国の気候や地形は読めない。地図と予報を駆使しても、思わぬ事態に陥ることはままある。その時に必要な装備が揃っていなければ、鈴蘭を守れないどころか、僕らの命も危うくなる。
 さて、どう整理しようか。
 思いながら、とりあえずは思うがままにより分けていると、鈴蘭が言った。
「何か、お手伝いすること、ある?」
「いや、特にない。ゆっくり休んでてくれ」
「うん」
 頷いたのを確認して、再び選別の作業に戻る。
 戻った、けれど。
 どうしても、視線を感じる。
 本に集中していればいいのに、顔の半分は後ろに隠したまま、ちらちらと僕の様子をうかがっているのがわかる。
 そんなに、こっちの作業が気になるのだろうか。手にした本のページをめくる音もしないのだ、完全に鈴蘭の意識はこちらに向けられていた。
「鈴蘭?」
「なっ、何?」
「見られてると、やりづらい」
「でも……、その」
「何」
「何かしてる人がいるのに、ぼうっとしてるのも悪いかなって。お手伝い、できることないかな」
「……ああ、そうか」
 言われてみれば、その通りだ。
 確かに、他の誰かが目の前で作業をしていて、「気にせず休んでいていい」と言われて、素直に休むのは難しいかもしれない。自分のこととして置き換えて考えてみると、鈴蘭の言い分も納得できた。
 とはいえ。
「手伝いに値する作業じゃない。それに、これは僕ら兵隊の仕事であって、君がやるようなことでもない。本当に、気にしなくていいんだ」
「うん。それじゃあ、見てても、いい?」
 本当は、見られているのも落ち着かないのだけど、落ち着かないのは鈴蘭も一緒のようだ。それなら、僕が妥協すべきなのだろう。
「お好きに」
「わかった、そうするね」
 鈴蘭は、ぱたんと本を閉じて、改めて僕の前に座った。
 じっと、こちらを見られている気配だけがする。
 それを、なるべく気にしないようにしながら、作業を進める。
 ある程度、捨てるものとこれからも使うものをより分け、これから仕入れないといけないものもわかった辺りで、ずっと黙っていた鈴蘭が、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……お喋り、してもいい?」
 別に、喋るくらいなら、作業をしながらでもできるから、手を止めないまま答える。
「構わない」
「あのね、わたし、ちょっとだけ不安だったの」
「不安?」
「……首都の兵隊さんが、わたしを《鳥の塔》に連れて行ってくれる、って聞いて。ああ、それなら何も怖くないな、って思ったけど、その人たちが怖い人だったらどうしよう、って考えはじめたら、頭の中、ぐるぐるしはじめちゃって。
 だけど、これから、首都まで一緒にいるんだもん、ぐるぐるしてるままじゃダメ。
 どうしよう、どうしよう、って。
 だから、お話ししているうちに、すごく、すごくね、ほっとしたの。
 きっと、大丈夫だって思ったんだよ」
 ぽつ、ぽつと語られる言葉は、やっぱり要領を得ない。
 だから、つい、手を止めて聞いてしまった。
「君は、何が言いたいんだ?」
 責めたつもりはない。
 なのに、鈴蘭はぎゅっと本を握った手に力を入れて、それから……、少しだけ、傷ついたような顔をした。
「ごめん。変なこと、言ったね。邪魔しちゃった」
 違う、違うんだ。
「そう、じゃなくて」
「?」
 なんで、こんなもやもやした気持ちになるんだろう。
 わからないけれど、どうしても、どうしても、伝えないわけにはいかなくて。今の鈴蘭以上に、支離滅裂な言葉を、口走っていた。
「僕も大体、足らない……、違う、言葉が足らない、から。気分を害したなら、すまない」
「う、ううん、そういうわけじゃないよ、大丈夫」
「なら、よかった。もう少しだけ、わかりやすく喋ってくれると、嬉しい」
「うん、難しいけど……、頑張る」
「ありがとう」
 言って、再び作業に戻る。
 鈴蘭は、また、黙って僕の手元を見ていたようだけど。
「……ホリィは、ちょっと、不器用さんなんだね」
 ぎりぎり、僕に届くか届かないかの声で、そう言った。
 その言い方には、ちょっとむっとしたけれど、つい、先ほどの鈴蘭の顔を思い出してしまい、余計なことは何も言わないことにした。
 
 ――ジェイ、早く帰ってきてくれないかな。