アイレクスの絵空事

夜明けの廃園

 ――その頃の僕は十四歳で、《鳥の塔》の兵隊で、ある《種子》を運ぶ旅の途中だった。
 《種子》。それは、奇跡の力を持つ石のことで、その石を身に持って生まれた子供のことでもある。奇跡が主に「歌」の形でもたらされることから《歌姫》候補とも呼ばれる。ただ、「奇跡」という言葉が一体何を指すのかは、僕は知らない。知る必要もないと思っている。
 それでも、この国の統治機関《鳥の塔》は、《種子》のもたらす奇跡がこの国を、果てには『魔法使い』バロック・スターゲイザーによる《大人災》以来、ただ滅び行くばかりのこの世界全てを救う鍵になると信じている。
 だから、僕は新しい《種子》を首都まで運ぶ。《鳥の塔》が望むように。
 辺境の第四十六隔壁から《種子》九条鈴蘭を連れて旅立って一ヶ月。僕と相棒の銃士ブルージェイ、そして鈴蘭は、地図にはない街にいた。
 統治機関《鳥の塔》が築いた隔壁ではなく、スターゲイザーの禍をかろうじて免れた遊園地の廃墟。そこには、口減らしのために隔壁を追われた子供たちと、かつて《鳥の塔》にいたという一人の博士がささやかに暮らしていた。
 塔の援助がないために生活は困窮を極めているようだったが、それでも彼らは生きていた。《鳥の塔》、そして首都である裾の町から遠く離れた、この場所で。
 ゆっくりと、砂利に覆われた道を踏みしめる。明け方の空気は、凍りつくほどに冷たい。空を覆う雲もいつもより重そうに見えたから、雨か雪が降るのかもしれない。何の目的で建造されたのかもわからない、奇妙な建物の間を、特に目的もなく歩いていたその時だった。
「おはよう、ホリィ!」
 ホリィ。ホリィ・ガーランド。僕の名前。歌うような響きの声は、冷たい空気を貫いて、僕の鼓膜を震わせる。そちらを向くと、目の前に大きな隻眼があった。ぱちぱちと目を瞬かせて僕を見つめているのは、護送対象である《種子》、九条鈴蘭だった。
「おはよう。起きてたんだ、鈴蘭。早いね」
「うん、なんだか目が覚めちゃって」
 鈴蘭は相変わらず何を考えているのか理解できない顔で笑いながら、僕に「どうぞ」と金属のマグを手渡した。マグから立ち上る湯気は、合成珈琲の独特の香りを漂わせていた。一口、苦味を確かめて、改めて鈴蘭を見やる。
 九条鈴蘭は、僕と同じ十四歳で、僕とは違って辺境の隔壁で、孤児として育った女の子だ。ただ、劣悪な辺境の環境で育ち、しかも孤児であるにも関わらず、鈴蘭はどんな状況でも笑顔を絶やさない、素直で明るい女の子だ。
 ――もしかすると、頭の螺子が一本か二本、抜け落ちているのかもしれないが。
 そう疑いたくもなるくらい、鈴蘭はいつだって暢気で、能天気だった。
 今だってそうだ。《種子》が埋まった左の目を眼帯で覆った鈴蘭は、にこにこ笑いながら、灰色の空に向かって聳え立つ、巨大な輪のようなものを見上げている。
「ねえホリィ、あれ、大きいね」
「あれは、何?」
「観覧車だよ。遊園地の乗り物の一つ」
 鈴蘭は、辺境育ちではあるが物知りで、かつ、僕の無知を決して嘲笑することはない。彼女の態度は僕の理解の範疇を超えているが、彼女の持つ知識については、一定以上に評価している。
「あの輪っかがゆっくり回って、輪っかについてる篭が高いところに上っていくの。そうやって、篭の中から見える景色を楽しむ乗り物だよ」
「なるほど。だけど、あれはもう、動きそうにないな」
 僕の目で見る限り、朝の薄闇に浮かぶ観覧車は全体が錆び付いていて、本来の役割を果たすには余りにも頼りない。きぃ、きぃ、と響く音色は、風に揺られる篭が立てているものだろう。鈴蘭は、そんな観覧車を見上げて、小さく息を吐く。
「でも、もっと近くで見てもいいかな。観覧車、本物を見るのは初めてなの」
「わかった。行こうか」
 僕は、マグを片手に持ち直して、鈴蘭に手を差し伸べた。鈴蘭は、片目しか見えないからか、足下がおぼつかない。転んで怪我をされるのは、僕の望むところではないのだ。
 鈴蘭は、「うん」と嬉しそうに頷いて、僕の手を握った。手袋越しに伝わってくる鈴蘭の手は、朝のこの気温のせいだろう、ひんやりと冷たかった。
 きぃ、きぃ、という音は、僕らが歩いていくにつれ、徐々に大きくなっていく。観覧車の足下に着いた時には、風の音と、耳の奥に響く音色だけが響いていた。
「寂しい音だね」
 鈴蘭が、ぽつりと言った。
「なんだか、泣いてるみたい」
 僕には、金属が擦れる音色としか、聞こえない。けれど、鈴蘭にとっては違うのだろう。こうやって、手を取って、同じ場所に立っていても、鈴蘭は僕とは違うものを見て、違う音色を聞いている。
 一体、鈴蘭の片方だけの目には、この「寂しげな」観覧車はどんな色で映っているのだろう。
 そんなことを考えていると、鈴蘭が僕の手を引いた。その視線は、地面近くにまで降りた、金属の篭の一つに向けられていた。
「ねえ、あそこ、扉開いてるよ」
「そうだね」
「乗ってみてもいいかな」
「構わないけど、手足を傷つけないように。破傷風にでもなったら困る」
 わかった、とさっぱりわかっていない気楽さで答える鈴蘭を一瞥し、僕が先に篭に乗り込む。あちこち錆び付いてはいるが、壊れる、という様子ではない。この街に住む子供たちの遊び場の一つなのか、椅子は整えられていて、壁面や窓には小さな落書きがあった。
「だいじょぶそう?」
「問題なさそうだ。ほら」
 一旦、鈴蘭の持っていたマグを椅子に置いて、鈴蘭の体を引き上げる。鈴蘭の体は棒切れのようで、中身が詰まっていないんじゃないかと疑うほどに、軽い。
 鈴蘭は椅子に座り、マグを膝の上に載せる。そして、窓の外を片方だけの瞳で見つめた。きぃ、きぃという音と共に、篭が揺れる。窓の外の世界も、揺れる。
 鈴蘭と僕は同時に珈琲を一口飲んで。それから、鈴蘭が口を開いた。
「寂しいけど、綺麗な風景だよね。まるで、御伽話の世界みたい」
「そうかな」
 僕は、視線を珈琲の水面に落とす。僕の目は網膜保護装置に覆われているから、鈴蘭が僕の視線を読むことはできない。
 僕は御伽話を知らない。だから、目の前に広がる景色を、鈴蘭と同じように評価することはできないのだ。
「きっと、昔は、たくさんの人がここに来て、いっぱい遊んだんだろうね」
「そうだね」
「きっと、わくわくするような音楽が流れてて、青い空に色とりどりの風船と、花火が上がってたんだろうね」
「そうだね」
「きっと、ここから見下ろす世界では、みんな、笑ってたんだろうね」
「……そうだね」
「あ、雪だ」
 鈴蘭の声に窓の外を見ると、音もなく、色のない欠片が空から降ってくる。
 一つ二つと数えているうちに、雪は勢いを増し、辺りの景色が閉ざされていく。
「困ったな。傘、持ってなかった」
 《大人災》以前は、雪とはただの水の結晶だったという。だが、この雪は、有害物質を多量に含み、人体に害を及ぼす。毒に耐性を持つ僕はともかく、鈴蘭が雪を浴びるのは好ましいことではない。
 鈴蘭は、僕の体に体重を預けて、マグを握っていない片手で僕の手を握った。
「止むまで、ここで待ってればだいじょぶだよ」
 いつもの、僕には理解できない笑顔を浮かべて、そっと、囁く。
「ホリィが一緒にいてくれるから。何も、怖くないよ」
 その言葉がどこから出てくるのか、僕にはどうしてもわからない。
 僕は《鳥の塔》の兵隊で、《種子》を運ぶ旅の途中で、つまり彼女に対する行動の何もかもが、任務として課せられたマニュアル通りの応対に過ぎない。なのに、鈴蘭は、僕に対して無邪気に笑って、僕への信頼をさらけだす。まるで、血を分けた家族にそうするように。
 僕には理解できない。
 理解できないことは、僕を苛立たせる。そして、一抹の不安を、僕の思考に植えつける。じりじりと、熱くて冷たい感覚が、僕の内側に居座って離れない。
 だけど、それを、嫌だとも言い切れない僕がいる。この不愉快な感覚を失いたくないと思っている自分もいる。自分で自分が理解できない。こんなこと、今まで一度もなかったというのに。
 鈴蘭の温度と、冷めつつあるマグの温度を確かめながら、僕は、ぐるぐると堂々巡りを始めた思考を遮断して、窓の外に視線を逸らす。
 色の無い遊園地の向こう側から、傘を差した相棒がやってくるのが、見えた。