アイレクスの絵空事

世界の温度

 そして、何の音もしなくなった。
 冷え切った空気を支配しているのは、嗅覚を根元から麻痺させるような悪臭。いつになっても、この臭いだけは慣れない。悪臭の発生源が、足元に転がる三十二の死体と、体にかかった体液であることも、当然わかっているけれど。
 愛用のナイフを拭って、鞘に。
 そして、ふと目を上げて、足元に転がっている死体が、三十一であったことに気づく。
 死体の間から、顔だけを上げて、僕を睨み付けている男。その下半身がどこに行ったのか、僕は知らない。僕の手持ちの武器ではそうはならないから、ジェイか誰かの火器で吹き飛ばされたのかなとだけ、思った。
 男は、溢れる液体を飲み込みきれないのか、ごぼごぼと喉を鳴らしながら、言った。
「人……殺し……」
「知ってる」
 腰から抜いた銃を、男の頭に向けて、きっかり二発。
 そして、今度こそ本当に、何の音もしなくなった。
 
 
 ――ホリィ・ガーランド。
 それは、造り手である父さんが、造った僕に与えた名前。
 けれど、塔ではもっぱらこう呼ばれる。
『ガーランドの第三番』
 呼び声に合わせて、顔を上げる。
 天井近くのモニタには、どうしても名前が覚えられない、いくつかの人の顔。父さんが「上」と呼んでいる、偉い人たちだということだけ、知っている。それさえわかれば、何も困ることはないから。
『ご苦労だった。素晴らしい成果だ』
『さすがは「新たなる人類」ガーランド、と言ったところか』
『これで、塔を脅かす存在がまた一つ減ったことになる』
『次の活躍も期待しているぞ、第三番』
 降ってくる声は、何かとても深い意味のある、大切なことを言っているのかもしれない。だけど、耳から入ってきた声は、僕の頭の中を通り抜けて、そのまま逆側に抜けていく。それで特に困ったことはないから、きっと今回も問題ないはずだ。
 僕がきちんと頭に入れておくべきことは、誰を相手に、誰と一緒に、何を用いて、どう戦うか。それだけ。
 「上」だって、僕に求めているものは、それだけだ。
 その事実を再確認して、確認するまでもないことだと思いなおす。下らない思考に意識を割いてしまった、と少しだけ後悔しつつ、僕にとっては何の意味も持たないであろう「上」の話を聞き続ける。
 体感時間で十分、実時間は十分十六秒経過時点で、退出を命じられた。一応、聞き逃さないように気をつけていたつもりだったけど、話の筋はわからずじまいだった。次の任務の話もなかったのに、どうしてわざわざ僕を呼び出したのだろう。「上」は、一介の兵隊でしかない僕とは、全く別の次元でものを考えているのかもしれなかった。
 息苦しい部屋の扉を開けたところで、今度こそ、僕の意識の中に、言葉として認識される声がかけられた。
「ホリィ、おかえり」
「ただいま、父さん」
 父さん――ハルト・ガーランド博士は、小さすぎる白衣を肩に引っかけて、そこに立っていた。
「何か言われたか?」
「十分くらい、何か言われた。でも、話の筋はよくわからなかった。次の任務の話が出なかったのは、間違いないけど」
 普段どおりの答えを返すと、父さんは少しだけ眉を寄せた。僕は、何か間違ったことを言っただろうか。思っていると、父さんは軽く首を振って、僕の頭を、ごつごつとした手で軽く叩いた。
「……そうか。なら、検査を受けた後は、次の命令が下るまでゆっくり休め。いいな」
「わかった」
 別に、怪我をしたわけでも、疲れているわけではないけれど。父さんがそう言うなら、ゆっくり休んだ方がいいのだろう。僕にも、まだ、僕自身の体の異変に鈍いところがあるから、開発者で観察者である父さんの言葉の方がずっと確かだ。
 父さんの、普段と何も変わらない手の温かさを確かめてから、僕は父さんに別れを告げて、その場を離れた。
 任務から帰った後はいつもそうするように、研究室への昇降機に乗り込み、決まった階数で下りる。白衣の研究員が僕の姿を見て、道を開ける。僕の視線は、網膜保護装置に隠されてきっと研究員には見えなかったと思うけれど、僕が視線を向けても、彼らはみんな、僕からは目を逸らしていた。
 ……いつものことだ。
 僕だって、こんな場所に長居する理由はない。磨き抜かれた廊下に映る自分の影に視線を落とし、足早に検査室へ向かおうとしたところで、ふと、顔を上げる。
 誰もが目を逸らす中で、ただ一人。硝子張りの壁の向こうから、こっちを見ている誰かがいた。
 その誰かさんを、僕は、知っていた。
「……ひさしぶり」
 か細い声が、硝子の壁を越えて聞こえる。僕は一旦足を止めて、硝子の壁に手を触れる。ちょうど、壁の向こうで壁に手を当てる誰かさんと、手を重ねるように。
「ひさしぶり、二十番」
 彼女は、研究棟に訪れると常にそこにいる、実験体だった。《種子》SD0201-R、通称二十番。その頃の僕は、《種子》が何であるかもよく知らなかった。今も、本当の意味でわかっているわけじゃないけれど。
 とにかく、彼女は《種子》だった。右手の甲に小さな石を持つ、奇跡の使い手だった。
「今日も、仕事だったの?」
 うん、と頷くと、二十番は目を細めて、眉尻を下げた。少しだけ吊りあがった、猫を思わせる目は……僕のことを責めているようにも、見えた。
「また、人殺しの仕事?」
「そう。それが、僕の仕事だから」
 新たな人類のかたち。未来を生きるもの。色々な呼ばれ方はするけれど、結局、僕が人より絶対的に優れているのは、何かを殺す技術くらい。
 生まれながらに人より優れた力を持っていたとしても、それを人の中で「活かす」には、現在最も必要とされる役割に当てはめなければならないのだ、と父さんは言う。
 果たして、それは事実だと思う。
 僕に必要とされた役割は、確実に殺すこと。時によっては、殺すことなく、絶対の恐怖を与えること。
 その役割が、人から忌避されるものであることは、僕にだってわかる。ただ、誰もが忌避しても、それは「必要」な役割なのだ。誰かがやらなければならない、役割なのだ。
 だからこそ、僕の存在には意味がある。
 誰にも殺されずに、誰かを殺せるだけの、圧倒的な力。それが、僕には生まれながらに備わっている。だから、僕はその能力を活かす道に進んだまで。
 そして、その道を選んだことに、後悔などない。
 恐れられようと、忌避されようと、構わない。必要とされる限り、僕はナイフを握り続けるだろう。
 そうしていれば、僕という存在に、確固たる意味が与えられるのだから。
 意味を与えられていれば、僕は、生きていられるのだから。
「……怖く、ないの?」
 ぽつり、と。
 僕の思考を遮ったのは、二十番の声。声は、酷くか細いのに。こちらを見つめる瞳は、どこまでも真っ直ぐだ。何となく、あの戦場で最期まで僕を睨み付けていた、三十二人目の男に似てると思う。
「怖くはない。やることを、やってるだけだから」
「死んだ人のことは、考える?」
「考えない。きりがないから」
「じゃあ」
 薄い唇が、言葉を、紡ぐ。
「人を殺すとき、あなたは、何を考えてるの?」
 何を。
 そう問われたのは、初めてだ。
 僕が人を殺すのは、指示する側にとっては当たり前だし、僕に殺される側にとっては、理由を知る余地もないはずだ。だから、全く関係ない誰かから、そういう質問をされたことが、なかったのだと気づく。
 僕は、喋るのがうまくない。その才能は全部弟が持っていったのだ、と弟自身が冗談交じりに言っていた。その全てが本当だとは思っていないけど、とにかく僕は、伝わるかわからない頭の中を、何とか無理やり言葉にする。
「……体が、勝手に動くから。その時に、何かを考えてるわけじゃない」
「何も考えてないってこと?」
「きっと」
 僕の答えは、やっぱりきちんとは伝わらなかったに違いない。二十番は、不可解そうな、不服そうな……いや、多分、どれも正しくない。何だか複雑で僕にはさっぱり理解できない表情をした。
 それから、二十番は、やけにはっきりと、こう言った。
「あなたって、人形みたいね」
「よく言われる」
「……そっか。ねえ、私を殺せって言われたら、あなたは私を殺すのかしら」
 二十番を。殺す。
 僕は、二十番を眺めてみる。長く伸ばした濃い色の髪、髪より少しだけ薄い色をした瞳。検査着から突き出た腕や足は細くて、筋肉はほとんどついていない。僕が少し力を入れただけで、簡単に折れてしまうだろう。殺すのは、難しいことじゃない。そう、分析する。
 ただ、二十番を殺す自分の姿は、全く想像できなかった。
 なぜなら。
「そんな命令はありえない」
 僕の役目は、塔に逆らうものを殺すこと。塔が保護すべき《種子》を殺すことでは、ないから。二十番は僕をじっと見つめて、それから、ため息を漏らして首を振った。
「知ってる。ただ、あなたならどう言うかなって、思っただけ。ごめんね、変なこと言って」
 軽い言い方ではあったけど、二十番は笑ってはいなかった。
 二十番がどんなことを思って、僕にその質問をしたのか。それを想像することも、僕には難しい。例えばこれが弟なら、きっと、僕よりずっと気の利いた……僕には理解できない……答えを返すに違いない。
 目を見開いた二十番は、壁を丸く切られた爪で引っかいた。分厚い硝子に遮られて、僕の手にその爪が届くわけではなかったけれど。
「あなたって、本当に、不思議なひとね」
「そうかな」
「あなたは、私と、全く違う場所を見ているから」
 そんなの、当たり前じゃないか。
 僕は二十番じゃない。二十番は僕じゃない。僕は二十番の目からものを覗くことはできないし、その逆も然りだ。そんな当たり前のこと、僕がわかっているのに、僕よりもずっと賢いだろう二十番が、わからないはずもない。
 なら、何か、特別な意味があるのだろうか。
 そんなことを考えていると、二十番は、唇を噛んで僕を見上げた。ぎゅっと、壁に当てた小さな手が握り締められる。
「ねえ、ホリィ」
 ホリィ。それは、紛れもなく、僕の名前。
「……あなたの手は、人の温度をしてるのかしら」
 
 
 そして、僕は、目を開ける。
 何となく半身が重たくて、妙だなと思ってそちらを見ると。
 出会ってからいつもそうであるように、鈴蘭が僕の腕を枕にして熟睡していた。
 ……いつも。そう、いつもそうなのだが。一体鈴蘭は、どうやって、眠っている僕の隙をついて、僕の腕を好きに使ってみせるのだろう。仮にこれがジェイだとしたら、触れられた瞬間、いや、半径数メートルに近づいた時点で、確実に目が覚めるというのに。
 鍛え方が足りないのだろうか。それとも、緊張感だろうか。妙に悔しく感じながら、鈴蘭の頭に軽く触れる。
「鈴蘭」
 声をかけてみると、鈴蘭は「んー」と全く意味のない声を出して、さらに僕の方に体を預けてきた。柔らかな髪が、頬をくすぐる。どうにも、離れてくれる気はなさそうだった。
「……どうして、いちいち僕にくっつこうとするんだ」
 聞こえていないつもりで呟くと、不意に鈴蘭が言った。
「だって、ホリィがあったかいんだもん」
 その声が、あまりにもはっきりしていたから、驚いて鈴蘭を見下ろしてしまった。だけど、当の鈴蘭は目を閉じたまま、むにゃむにゃ呟くだけで、深い眠りを続行する心構えのようだった。
 それにしても……あったかい、か。
 外套越しに伝わってくるのは、鈴蘭の温度。三十六度、正しい人の温度。確かに鈴蘭の言うとおり、こうしていると外気の冷たさはさほど気にならない。僕は寒さには強くできているから、鈴蘭の温度がなくとも眠るには支障がないのだが。
 それでも、鈴蘭をむりやり引きはがそうと思えないのは……彼女が望んでいるから、だろうか。
 肩にかかる、淡い色の髪をはらう。一体、どんな夢を見ているのだろう。口元に笑みを浮かべて、心地よさそうに寝息を立てる彼女を見ていると、自然と先ほどの夢を思い出す。
 夢……いや、あれは「記憶」だったはずだ。
 硝子の向こうで手を重ねていた女の子。名前も知らない、二十番目の《種子》。
 ……いや、僕は彼女の名前を知っていたはずだ。彼女自身から、聞いたことがあったはずだ。でも、その名前が今は思い出せない。今の僕には、必要のないものだったから。
 ただ、何となく。今になって彼女の言葉を思い出し、鈴蘭の枕にされていない片方の手を握って、開く。
『あなたの手は、人の温度をしてるのかしら』
 僕は、自分の温度を知らない。人として造られた以上、人としての生命活動を行っている以上、人としての温度を持っている、そう認識はしている。
 だけど、きっと。二十番が言おうとしていたのは、そういうことではなかったのだと、思う。そういうことでない、というのがわかるだけで、それ以上のことは、結局僕には理解できないのだけど。
 あの時、硝子の向こうにあった二十番の手も、今の鈴蘭のような温度をしていたのだろうか。
 今の僕のような温度を、していたのだろうか。
 そんなことを思いながら、車の天井に向かって手をかざす。
 闇の中にぼんやり浮かび上がって見える手を見つめて、僕は、そっと息をついた。
 眠る鈴蘭を、起こさないように。