アイレクスの絵空事

一〇〇一分の一の夜/都に眠れるひとを恋う

「ホリィは」
 僕の言葉が切れたところで、鈴蘭が口を開いた。
 眠気が戻ってきたのだろうか。ほんの少しではあるが、ろれつが回っていないように、聞こえた。
 それでも、大人しく眠ってくれないのが鈴蘭だ。しきりに目を瞬かせながらも、問いを投げかけてくる。
「お仕事の時、どんなことを、考えてる?」
 仕事の時。人を殺す時。
 必要なことは、必要なこととして頭に入れている。けれど、実際にナイフを握って、その場に立つ時のことを思い返してみれば、自ずと答えは出る。
 ヒースの時は例外だけど、と前置きした上で。
「きっと、何も考えてない。考えても、きりがないから」
 そう答えて、同じようなことを聞かれたことがあるな、と今更ながらに思い出す。
 一体、誰からだっただろう、と少し記憶を遡ってみると、頭の奥底に触れる音色があった。
「……そういえば、君じゃない《種子》にも、似たことを聞かれたな」
「わたしじゃない、《種子》?」
 その言葉に、俄然興味を引かれたのか、ぱっと表情を明るくする。
 折角眠りそうだったのに、まずいことを言ってしまったかもしれない。でも、出てしまった言葉を引っ込めることは、当然、できない。
「どんな子だったの?」
「詳しくは、覚えてない。時々、話をするだけだったから」
 でも、僕を見つめる真っ直ぐな目だけは、何となく、覚えている。硝子の向こう側から、声ではない声で、語りかけてきた一人の少女。
「そう、僕と……君と同い年くらいの、髪の長い女の子だったと思う。《種子》は、確か右手の甲に」
 しゃべっていると、段々、彼女の姿がはっきりと、思い出されてくる。
 白い検査着に身を包んだ彼女は、顔を合わせた時にはいつだって、僕を、硝子の外にいる人間を睨みつけていた。僕ら《鳥の塔》の人間を、恨んでいたのかもしれない。
 彼女が振りかざす理論は、僕には最後まで理解できなかったけれど。
 それでも、彼女はよく、僕に語りかけてきた。わかりあえなくても、話をすることなら、できる。
 僕も、彼女も、同い年くらいの知り合いがいなかったから、話し相手にちょうどよかった。僕の場合きょうだい以外は大人ばかりだったし、彼女については考えるまでもない。
「その子と、どんなお話をしたの?」
「大した話はしてない。今と同じように、僕の仕事のことだったり、彼女の、役割のことだったり」
 そこまで言って、まずいことを言ったかもしれない、と気づいた。
 《種子》が《鳥の塔》でどう扱われているのか、どのような役割を負っているのか、きっと、鈴蘭は知らない。知っていたら、こうも無邪気に《種子》について問うこともないはずだ。
 けれど、鈴蘭は、特に疑問を差し挟むこともせず、目を輝かせて僕の言葉を待っていた。正直、ありがたいと思う。
「僕は彼女じゃないから、彼女が何を考えて、僕の話を聞いていたのかはわからない。僕も、彼女の言葉の大半を理解できていなかったと思う。ただ」
「ただ?」
「時々、思い出すんだ。彼女の言葉」
 ふとした瞬間に脳裏によみがえる、声。氷のようであって、それでいて、どこか寂しげに震えていた、声。
「僕は、人の温度をしているのか、って」
 硝子越しに伸ばされた、指の細さを思い出す。
「人の温度……ホリィは、あったかいと思うけど」
「君は、僕の温度を知ってるから。でも、彼女はそうは思わなかった。僕は、彼女に触れることを許されていなかったから、彼女が僕の温度を知らないのは当然だ」
 ただし、仮に許されていたとして、彼女に触れたいと僕自身が思うかといえば、きっと否だ。
 僕の記憶の中で、彼女はあまりにも壊れやすいかたちをしていた。目の前の鈴蘭と同じくらい、もしくはそれ以上に。
 そんな彼女を、いつ僕の手が壊してしまうかも、わからなかったから。
「彼女の目には、僕は人形のように映っていたと思う。ナイフを手に何もかもを殺す、血の通わない操り人形。ほとんどの相手が僕をそう称するように、きっと、僕に温度がないように見えたんだろう」
 すると、鈴蘭は、不思議そうな顔をして言った。
「……そんなに、冷たく見えるかな」
「君は、そうは思わないのか」
「思ったこと、ないな。初めて会った時は、真面目で、無愛想で、とっつきづらそうな子だなあって思ったけど」
 そこまで言って、鈴蘭は「しまった」という顔をした。そうもはっきり言っておいて、今更「しまった」もないと思う。
 別に気にしてないのだけれど、鈴蘭は居心地悪そうに身じろぎして、言葉を付け加える。
「えっと、でも、冷たいって思ったことはないよ。ホリィって、言葉は厳しいことあるけど、わたしのこと考えて言ってくれてるんだなって、わかるから」
 厳しく聞こえるのか。少し、そこは気を使う必要がありそうだ。でも、鈴蘭の評価は、どうも僕には耳慣れないものばかりで、僕の方が心地悪い。鈴蘭に非がないのもわかるけれど。
 でも、それは。
「君は、僕の、普段の仕事を知らないから」
「そうだね。そうかもしれない」
 鈴蘭は、存外素直に僕の言葉を認めた。
 この一夜で、僕が今まで経験してきた全てを伝えられるはずもないし、仮に伝えられたとしても、それが、鈴蘭の「実感」として反映されるとも思えない。
 だけど、鈴蘭は。そんな僕のあり方を否定しないまま、布団の下から、僕の手を握るのだ。
「でもね、今の、わたしの知ってるホリィは、人形なんかじゃないよ。ほら」
 あたたかな手が、僕の指を握る。細くて、折れそうで、頼りなくて、なのに確かにそこにあるとわかる指先が、僕の手を包み込む。
「やっぱり、あったかいもの」
 何故だろう。急に、心拍数が跳ね上がった気がする。原因がわからないけれど、とにかく意識して呼吸を整える。
 鈴蘭は、さらに強く僕の手を握って、笑う。
「いつか、その《種子》の女の子にも、ホリィがあったかいってこと、伝えられるといいね」
 ――肯定は、できなかった。
 それは、叶わないことだと、わかっていたから。
 そう、考えるべきじゃない。《鳥の塔》の上層で、一人で眠る彼女のことを思い出す前に、そっと意識に蓋をする。
 そして、僕の答えを待つことなく、鈴蘭は大きくあくびをした。
「そろそろ、寝る?」
「うん。ありがとう、ホリィ。お話ししてくれて」
「つまらない話で悪かった」
「ううん、面白かった。わたしの知らないホリィのことがわかるのは、嬉しいもの」
 またお話ししてね、と。鈴蘭はあくまで邪気のない声で言う。果たして、僕にどれだけ話せることがあるのかは、わからないけれど。鈴蘭の期待を潰す理由もないから、小さく頷く。
 それじゃあ、という声と共に、そっと鈴蘭の手が、僕の手から放れる。途端、肌に触れる空気が、いやに冷たく感じられた。
「おやすみ、ホリィ」
「おやすみ、鈴蘭」
 鈴蘭が目を閉じたのを確認して、僕も、網膜保護装置の下で目を閉じる。
 
 夜明けまでは、まだ、遠い。