アイレクスの絵空事

一〇〇一分の一の夜/あるいは君と千夜一夜

「……ホリィ、起きてる?」
 いつの間にか、鈴蘭の顔が目の前にあった。
 大きな右の瞳、それに、左目――《種子》を覆う医療用の眼帯。
 いつだって、鈴蘭の接近は突然だ。意識ははっきりしていたと思うのに、どうしても、彼女の動きに気づくことができずにいる。
 妙に悔しく思いながら、まず、僕が問うべきことを問いかける。
「どうした?」
 具合が悪化したのだろうか。その場合、僕が取るべき行動を頭の中に思い描いてみたが、想像に反して鈴蘭は首を横に振った。
「ちょっと、眠れなくて」
「具合はどう?」
「今は、だいじょぶだよ」
 昼間いっぱい寝たからかな、と。鈴蘭は朗らかに笑ってみせる。医者から貰った薬が効いているのか、確かにずいぶん顔色はよくなっている気がする。僕は毒も病も知らないから、正しく相手の顔色から病状を判断できているかは、わからなかったけれど。
「でも、無理はよくない。眠れなくても、横になっていた方がいい」
 首都ならともかく、ここは辺境だ。どんな病原体がはびこっているかもわからない。今はただの風邪でも、弱っている状態でたちの悪い病気を拾ってしまうとも限らない。とにかく、今は休んでもらわなければならない。
 僕らの役目は、《種子》を塔に送り届けること。その《種子》が不完全な状態であることは許されないのだ。
 鈴蘭も、流石に馬鹿じゃないから、僕の言葉に小さく頷いて再び布団の中に潜り込む。けれど、眠れない、というのは本当なのだろう、目は真っ直ぐにこちらを見つめている。
「だいじょぶ?」
 鈴蘭の掠れた声が、かろうじて、僕の耳まで届く。
「何が?」
「うつったり、してないかなって」
「僕は大丈夫。ジェイは知らないけど……大丈夫だろ」
 いつも通り迷惑極まりないいびきをかいて、すごい寝相で寝ているところを見るに、体調を崩しているようには見えない。鈴蘭も、そんなジェイを見て、少しだけ笑ったようだった。
 けれど、その笑顔も、すぐに翳る。
「ごめんね」
 ここに来てから何度も聞いた、謝罪の言葉。僕にはどうしても理解できなくて、やっぱり何度目かわからないけど、問い返す。
「どうして、謝るんだ」
「だって、わたし、ホリィとジェイに、迷惑ばかりかけてる」
 鈴蘭は、布団を顔の上まで持ち上げて、くぐもった声を上げる。
「ほんとは、もっと早く首都につかないといけないんだよね。でも、わたしがいつも、邪魔しちゃってる」
「邪魔だなんて、思ってない」
「でも」
「君が、僕やジェイより弱いのは当たり前だ。僕もジェイもそれは当然のこととして了解している。君がそれを気に病む必要はない。むしろ、君の体調管理まで意識が回っていなかった僕らに責任はある」
 鈴蘭の身体が強くないことは、事前調査から明らかだったのだ。なのに僕は、「大丈夫」と笑っている鈴蘭を見て、本当に大丈夫だと思いこんでしまっていた。
 だから、責められることはあっても、謝られる理由など、一つもない。
 なのに。
「強く、なりたいな」
 ぽつり、と。
 顔を隠した鈴蘭は、湿った声で、呟くのだ。
「わたしだって《種子》なんだから、せめて、ホリィたちを助けられる奇跡が使えればいいのに。わたし、助けられてばっかりだよ」
 それでいいんだ、と思うけれど。
 その言葉は、喉の奥に引っかかって、鈴蘭にまでは届かなかった。どうしてか、声を、かけられなかった。
 僕には、鈴蘭の感情は理解できない。理解、できないのだ。
 しばし、沈黙が流れた。
 すると、鈴蘭が、片方の目だけを布団から出して、僕を見上げた。
「ねえ、ホリィ」
「何?」
「何か、お話ししてくれないかな」
「お話し?」
「……その、迷惑かな。なんだか、まだ眠れそうになくて」
「君の要請が迷惑なわけじゃない。ただ、僕は面白い話を知らない」
 そう、いつだって、話をしてくれるのはそっちだ。
 僕が頼まなくとも、鈴蘭は色んなことを教えてくれる。片足が、僕の知らない世界にかかっているのではないかと思うくらい、鈴蘭は、御伽話や空想の物語に詳しかった。
 僕とはともかく、片割れとは気が合うかもしれない。あれも、気がつけば、旧い本を抱えて夢見るような目をしていたから。
 とにかく、鈴蘭から僕に何かを話す、ということはあっても、僕から鈴蘭に何かを話すことは今まで一度もなかったし、話すべきこともそう多くはない。
 けれど、鈴蘭は顎の下まで布団をおろして、僕をじっと見上げるのだ。
「本当に、どんな話でもいいよ。わたし、ホリィの声が聞きたいの」
「僕の?」
「ホリィの声を聞いてると、何だか、とっても安心できるの」
「声……」
「うん。すごく、あったかくて、優しい声だから」
 あったかくて、優しい、声。
 どうしてだろう、悪く言われているわけではないのに、居心地が悪い。
「ホリィ?」
「そんなこと言われたの、初めてだ」
「そうなの?」
 一人だけ……片割れだけは、僕を「優しい」と評したことがあったけれど、ほとんどの人は、僕の声を聞いただけで身を硬くして、化け物を見るような目でこちらを見る。
 別に、それを気に病んだことはない。相手に恐怖を与えること。それが、僕に与えられた役割だ。
 だからこそ、鈴蘭の言葉や眼差しは僕が知らないもので、むずがゆくて仕方ない。
 でも、それも当然か。
 鈴蘭は、僕の普段の仕事を知らない。説明はしたけれど、きっと、実感はしていないに違いない。
 鈴蘭は、寝台の上から、じっと僕を見つめている。僕の言葉を、待っている。
「なら」
 鈴蘭が面白いと思えるような話なんて、何一つないけれど。
「……『僕の話』で、よければ」
 僕自身の経験を話すくらいは、できるかもしれない。
 鈴蘭が小さく頷いたのを見て、僕は、僕自身のことを、思い出す。