アイレクスの絵空事

アイレクスの走馬灯/手紙

 夜が暗いのは、何も隔壁の外だけではない。眠ることを知らない首都、それも塔の周辺を除けば、ほとんどの隔壁は夜が来ると同時に死んだように眠りにつく。
 僕がその事実を知ったのは、この任務を受けてからのことではあったが。
 宿の中も既にほとんどの明かりが落とされ、静まり返っていた。いや、横のベッドで眠るジェイのいびきが酷いのだが、それはいつものことで、意識にも入っていなかった。
 とにかく、明日のために早めに眠るべきではある。眠るべきでは、あるのだが。
「……まだ、寝ないのか?」
 部屋の中には、まだ明かりが灯っていた。小さな明かりを灯して机に向かっていた鈴蘭が、こちらを振り向いて首を傾げる。
「あ、ごめん。まぶしいかな」
「いや、君は眠らないのかと思って」
「これ書いたら寝るよ。明日も早いもんね」
 そう言って、鈴蘭は再び机に向かって何かを書き始めた。僕はベッドの上に座り込んだまま、その背中を見るともなしに見ていた。
 小さくて、薄い背中。僕が少し強く触ったら、壊れてしまうのではないだろうか。仮に壊れなくても、きっと、痛みに顔を歪めて、責めるように僕を見上げるのだろう。
 ……だけど僕は、そんな彼女の顔を、想像できない。
「よっし、できたー!」
 そんな下らない考えは、突然両腕を振り上げた鈴蘭の声によって遮断された。夢の中のジェイにもその声は届いたのか、「ふごっ」と一瞬呼吸を詰まらせて、しかし、すぐにまた迷惑きわまりないいびきを立てはじめた。
「……もう少し、静かに」
「ご、ごめんね」
 声を落として謝罪してから、鈴蘭は手にした紙を折り畳んで、煤けた封筒に入れる。
「手紙?」
「うん。孤児院のみんなに。あ……ダメ、じゃないよね」
「通信は問題ない。兵隊による検閲が推奨されてはいるけど、人の手紙を覗き見る趣味はないな」
 塔の機密を握っているような相手なら話は別だが、鈴蘭は何も知らない《種子》でしかない。僕らから何を明かしたわけでもない以上、問題はないと判断した。
 鈴蘭はほっと安堵の息をついて、微笑みを深める。
 笑顔。僕が今知っている彼女の表情は、そのほとんどが笑顔なのだと気づいた。こんなこと、気づいたところで何の意味もないというのに。
「よかった。いつ届くかな?」
「さあ。隔壁間の郵便屋が巡回しているとは聞くけど、塔の管轄でないから、いつこの町に来るかは僕も知らない」
 それは単なる疑問で、僕に対する質問ではなかったのかもしれない。答えてから気づいたが、鈴蘭は「そうなんだ」と右の目を丸くして、それからうっとりと虚空を見上げた。
「いつか郵便屋さんにも会えるかな。きっと、いろんなところを旅して、いろんなものを見てきてるんだろうな……」
「……手紙は書き終わったんだろ。そろそろ寝たらどうだ」
 少し、棘のある言い方になってしまったかもしれない。けれど、鈴蘭は嫌な顔一つせずに頷いて、明かりを消すと軽い音を立てて布団の中に潜り込んだ。
 きっと、真っ暗になったのであろう部屋の中で、鈴蘭の声が、小さく響く。
「おやすみなさい、ホリィ」
「……おやすみ、鈴蘭」
 声をかけたけれど、鈴蘭に届いたかどうかはわからない。一拍後には、ジェイのいびきの後ろから小さな寝息が聞こえてきたから。
 目を覆っていた網膜保護装置を外して、壁と天井の境目をほとんど無意識に追いかける。
 ……今日も、長い一日だった。
 何もない一日だったはずなのに、妙に頭がくらくらする。
 どうしてだろう?
 らしくない疑問符をすぐに打ち消し、一振りのナイフを抱えて布団を被る。余計なことを考えるよりも、今はただ、この疲れを癒すべきだ。
 瞼を閉じて、視界を闇に閉ざして、
「おやすみ」
 誰に向けたわけでもない挨拶を、もう一度だけ呟いた。