ある晴れた昼下がり。
あまりにも晴れすぎた昼下がり。
安アパートの六畳間、毛羽立った畳の上に膝を突き、転がる「それ」を凝視する一人の青年がいた。つややかな金茶の髪に、アイス・グリーンとフォゲットミー ノット・ブルーのオッド・アイ。明らかに日本人からかけ離れた外見を持つ彼は、白い顎からだらだらと汗を垂らし、ぽつり、呟いた。
「リモコンが……壊れた……だと……?」
声は悪いが、流暢過ぎる日本語だった。
この憐れな青年の名は小林巽。戸籍上は日本人だが、出身は何処までも不明。
自称『遠い世界からやってきた元神様』とのことだから、多分この世界ですらないのだと思われる。本当に、世間は広いものである。
さてこの元神様、一応正真正銘の神様だったのだが、色々あって現在は見た目だけが普通じゃないただの人。神様の時に持っていた素敵パワーを全部投げ打って まで人の体と戸籍と「大学生」という立場を手に入れたという、なかなかのチャレンジャーだ。
さて、あくまで手に入れたのは体と戸籍と立場であって、ここに、生きるために大切な要素が欠けていることは既に皆様お気づきだろう。
そう、彼に足らないのはお金。マネーである。
この世知辛い世の中、金が無ければただ息をしていることも難しい。そんな時代にやってきてしまった元神様、見かけは若造で頭脳は自称三十路程度……って神様千年近くやってて精神年齢それじゃ駄目なんじゃなかろうか。
ともあれそんな彼がこの世界を生きていくのは何かと大変なもので、生活費を稼ぐべく勉強の傍らバイトを三つ四つ掛け持ちし、回遊魚よろしく止まることも許 されぬままに駆け回る毎日を送っている。まあ、基本的に忙しくないと落ち着かないタイプらしく、それはそれで幸せそうではあるんだが。
そんな赤貧生活を送る彼、その彼が、エアコンという素晴らしき文明の利器を自らの城である六畳間に導入したのが今年の春のこと。もちろん貧乏性の彼のこと だから、夏に入った今になっても「耐えられる暑さのうちは電気代を無駄にしたくない」と言ってエアコンの力を借りることを拒み……
そして、今。
ついに、エアコン様の本領発揮、というところで。
エアコンの命、リモコンが。
畳の上で、ばらばらになっていたので、ある。
このリモコン、春からずっと彼が使っていなかったこともあり行方知れずとなっていて、たった今、部屋の中で唯一の座椅子の下から無残な姿で発掘されたのであって……
ゆらり、と彼は立ち上がる。日本人離れした長身を伸ばし、凶悪なまでに釣り上がった三白眼で押入れの襖を睨み、
「……飛鳥、いるな。出てこないと殺す。出てきたら半殺しで済ませてやる」
襖にぐっと手をかけた――
ここで、秋谷飛鳥について話をしよう。
秋谷飛鳥は冴えない小説家だ。中年で、人間嫌いで、でも万年新婚の幸せ者だ。ついでにそれなりに美形だ。けれど、ちょっと不思議な能力が使える以外はただの人だ。
そんな秋谷飛鳥は、小林巽の友人だと思っている。果たして彼が秋谷飛鳥のことをそう思ってくれているのかはわからない。しかし秋谷飛鳥は自分が小林巽の無二の親友であることを疑ってはいない。疑ってはいけない、死にたくなるから。
親友であるということは、気安く付き合える相手であるということであり、気安く付き合える相手なのだから、家に無断でお邪魔したところで嫌な顔をされるは ずも無い、という理論で暇さえあれば秋谷飛鳥は彼の家に上がりこみ、そこが我が家であるかのように好き勝手振舞っているわけだ。
その秋谷飛鳥のわがままを、文句を言いつつ容認してしまう彼も彼ではあるが。
そして、件のリモコンの話に戻るのだが……
リモコンは、唯一の座椅子の下から無残な姿で発見された。この座椅子に直前まで座っていたのが、まさしく、秋谷飛鳥であった。当然、座椅子に座った秋谷飛 鳥はすぐにリモコンが壊れたという事実に気づいた。そこですぐに彼に謝っておけばこのような事態にはならなかった。多分。彼はそこまで心の狭い人間ではな い。はずだ。
微妙に自信が無いことに対するツッコミは禁止である。
しかし、こともあろうにチキンハートの秋谷飛鳥(鳥故のチキンハートだろうか)は事態の隠蔽を図ろうとして見事に失敗し、押入れに隠れるもあっさり発見され、このように、アパートの近くの並木道を、走って、逃げて、る、わけだ。
何ていうかさ、元神様は、伊達じゃ、ないよな! 俺、結構鍛えてるのにね、こう、普通に、全力で、追いかけてくる、辺りがさあああああああ!
「飛鳥手前止まれええええええええ!」
「だ、だからごめんって言ってるじゃないかああああああ!」
立ち並ぶ木々はすっかりしおれ、蝉もあまりの暑さで鳴かない、そんな昼下がり。二人のむさくるしい男が陽炎すら立ち上る並木道を失踪する図は、かなり シュールなものがあるんですよわかりますかおくさん。ああ、でもそんなことを言っても巽くんは止まってくれないよね止まってくれない限り俺も止まれないん だわかって巽くん!
走りながら振り向けば、目を吊り上げて真っ赤な顔をした、神様っていうか鬼の形相の巽くん。壊れたリモコンを振り回し、今にもそのまま投げ放ちそうな雰囲 気だ。巽くん、神様としての超常能力こそ失ってはいるが、無駄にコントロールが正確だから怖い。流石は正確無比を旨とする時間の神様ってところだろう か……時間あんまり関係ない気はするけど。
って本当に投げたー! この勢いはやばい、投げてるモーション見えてなかったら受け止められなかった! 受け止めた手すげえ痛い! 痛すぎる! しかも今の一撃……
「ちっ、その高い鼻へし折りゃ俺様のこと二度と薄口醤油顔とか平面顔とか言えなくなると思ったのに」
「顔狙うのは反則だろ! あとそれ絶対に恨みの内容違うよな! なあ!」
こんなところで己のコンプレックス丸出しにしないでいただきたい。被害に遭うのどちらにしろ俺じゃないかよ。……ま、まあ、「外人っぽい見かけのくせに超 あっさり味付けの顔」である巽くんのコンプレックスを刺激するようなことを言う俺が悪いのは認めるけれど。
しかし、この様子だと巽くんもちょっと正気に戻ったのだろうか。リモコン投げた直後にそれを追ってハイキックからの連続コンボを決めてこないところを見ると、この追いかけっこの不毛さにも気づいたのかも、しれない。
呼吸を整え、足を止める。巽くんも、それに合わせて距離を取ったまま足を止める。よし、ここまでは大丈夫。
「……は、話を、しよう。巽くん」
「聞こうか」
ああ、やっと話を聞く体勢になってくれた。声は、すっごく冷ややかだけど。
俺はだらだらと汗をかきながら、何とか声を絞り出す。
「本当に俺が悪かった。隠そうとしたことも謝る。弁償もする」
「本当か」
「俺が嘘をつくと思……ごめん、結構ついてる」
「正直は美徳だなあ、飛鳥あ」
巽くんはすっごいいい顔で俺を見ている。そりゃあ俺は人間ですから。巽くんと違って嘘がつけない元神様じゃないんですから、嘘というか方便の一つや二つ許 して欲しい……いや、巽くんだって元神様だから嘘がつけないんじゃなくて、単にそういう性格なんだったか。
けど、こんなところで疑われてはちょっと困る!
「でも、これは本当! 本当だよ! この飛鳥さんがリモコンごときにケチケチすると思ってる?」
「煙草代を差し引くと毎月の小遣い五千円の悲しき中年作家には十分ありえることだろ」
「うっ」
それを言われてしまうと痛い。俺が事実隠蔽を図ろうとした理由だって、結局のところ弁償するとなるとちょっぴり懐痛いって思っちゃったからだし。静、お小遣い上げてくれないかなあ……
そんなことを思っている間に、巽くんはじりじりと俺との間合いを詰めながら、目だけが笑っていない怖すぎる笑顔を浮かべる。
「ま、俺様も鬼じゃねえ。リモコンと、あと今季の電気代を負担してくれればにっこり笑って許してやるわ」
「ちょ、何で電気代まで!」
ずざっと下がろうとした俺との間合いを一気に詰めて、巽くんは力強く俺の胸元を掴んで引き寄せる。
「どうせ俺様がいなくても、手前が勝手に俺の部屋上がりこんでエアコン使うだろが!」
……あ。
「そうでしたすみません、謹んで奉納させていただきます」
仕方なく頭を下げると、やっと巽くんは納得してくれたらしい。掴んでいた胸元を離し、大げさに溜息をつく。
「あー、無駄な体力使ったー」
まるで、先ほどまでの剣幕をすっかり忘れてしまったような態度。俺はさすがに呆れて額の汗を拭く。
「巽くんって、本当に切り替え早いよな……」
「でなきゃ手前の相手なんざしてらんねえ。とにかくとっととリモコン買って来い」
「はいはい」
財布の中身にどれだけ入っていたっけか、というかこんなぼろぼろのリモコン持っていって、直してもらえるのだろうか。エアコンってテレビと同じように、代替リモコンってあるんだろうか……
そんなことを思いながら歩き出そうとした時、ばたーんという音がした。
ぎょっとして振り向くと、何と巽くんが、直立不動の姿勢のままその場に倒れていた。
慌てて抱き上げると、ものすごく熱い。熱すぎる。真っ赤な顔をした巽くんは、虚ろな目で俺を見上げてぼそりと言った。
「まず、リモコンより前に救急車かもしれん……」
「こんな暑い中全力で駆け回るからだろ! ちょ、えええええええと、す、すすすすみませんそこの方、きゅ、救急車ー!」
巽くんの体を冷やす方法を考えつつ、何とかかんとか助けを求めながら。
俺、今年の夏は、巽くんに優しくしようと思う。
――ちょっとだけ。
元神様と放浪作家のイビツな関係