はらわたの散歩者たち

君の名前を

 誰かが名前を呼んでいた。
 誰かが。
 顔を上げれば、霧明かりが眩しいくらいの庭で、そこには見慣れた友が立っていた。
「どうしたんだい、ぼうっとして」
 君らしくもないな、と友は朗らかに笑う。何も自分が笑われたわけではないとわかっていても、無我の自身を見られたのが無性に気恥ずかしくて、自然と火照る頬を掻くことしかできなかった。
「あまり実感が湧かなくてな」
「しっかりしてくれよ。今日の主役は君なのだから」
 友の言葉には、「それもそうなのだが」と苦笑することしかできずにいた。
 そう、今日の主役は自分なのだ。常に華やかな――その一方で思惑の渦巻く表舞台に立っている目の前の友ではなく。それがあまりにも現実味というものからかけ離れているように思えて仕方ないのだった。
 ことさらに卑下をする気はないが、友と自分との間には雲泥の差がある、と思っている。それは育ちの差であり、今現在の立場の差であり、経験の差であり、ありとあらゆる差である。それを悪しきものという気はない、友と自分とは別の人間である。当然のこと。
 ただ、友の経験のほんの一部だけでも側にいて実感しているだけに、「主役」でない友の姿が想像できず、「主役」である自分の姿が想像できない。それだけの話だ。
 ただ、どれだけ想像が及ばなくともこの時ばかりは自分が主役なのだ。気を取り直して、友に手を差し伸べる。
「改めて礼を言わせて欲しい。忙しい中、俺と彼女のために時間を作ってくれてありがとう」
 友はしなやかな指で、差し出した手を強く握り締める。いつしか、一つの誓いを交わした時と同じように。その指先は、確かなぬくもりを帯びていた。
「いや。君の晴れの日に居合わせることができて本当によかったよ。……そういえば、彼女はどうしたんだい? 姿が見えないようだが」
「どうも、馬車の不具合で遅れて到着するらしいと、先ほど早馬で連絡があった」
「なるほど。それで彼女のことを思ってぼんやりしていたわけだね」
「否、そういうわけではないのだが……」
 どうしたって言い訳じみてしまう返答に、冗談だよ、と友は愉快そうに笑う。
「さあ、挨拶もあるんだろう? 早く戻った方がいい」
「ああ、そうだな。ありがとう、」
 友の名を呼ぶと、友はにこりと微笑んで手を振った。
 その時、ぱち、ぱち、と何かが爆ぜる音がしてはっとする。友の姿はいつの間にかその場から消えていた。いや、元からそこにはいなかったのだろうか、それとも自分がそこにいなかったのだろうか、それすらもわからない。
 ただ一つはっきりしていることは、今、自分の目の前には「かつて人だったもの」が転がっているということ。
 そして、自分の手には一振りの剣が握られているということ。
 ぱち、ぱち。炎が、爆ぜる。
 目の前に転がっているものを凝視して、それから、本来そこにいるべき人間の名前を呼ぼうとして、
 
 
「――っ!」
 ぱち、ぱち、と爆ぜる音は、目の前の焚き火からだった。立ち上る煙は『獣のはらわた』を通る「獣の寝息」に乗せられて、岩と岩の間に吸い込まれていた。
 いつの間にうたた寝をしていたのだろうか、と思い出そうとしても、頭がぼんやりとして正しく状況を把握することができない。否、一時の夢が果たして本当に夢なのか現実なのかを判じかねた、という方が正しいか。
 もちろん、それは夢だ。霧明かりは『獣のはらわた』までは届かない。この、暗くてじめじめとした獣の死骸にまで、女神の息吹はもたらされることはないのだ。
『ヤドリギ』は鈍く痛む頭を振って、これが現実だと自分自身に言い聞かせる。
 あの、刹那の幸福は、焼き捨てられたはずなのだと、言い聞かせる。
 そうだ、事実として焼き捨てられたはずなのだ。残された左の手で、右の頬に触れる。指先に伝わるのは違和感、引きつった熱傷の痕。本来右腕があるはずの場所から伸びた蔦が、諫めるように左の手指に絡まるのにも構わず、傷跡を撫ぜる。
 最近、あの日の夢は見ないようになったと思っていたのに、やはり折々思い出してしまうものだ、と『ヤドリギ』は誰に向けるでもない苦笑を歪んだ面に浮かべる。
 ただ、その苦笑もすぐに小さな溜息の向こうに消えて。
『ヤドリギ』は側にあった薪をひとつ、焚き火にくべる。炎はゆらりと揺らめいて、冷たい洞穴の中に唯一のぬくもりを生み出していた。
 炎は苦手だ、と『ヤドリギ』は思う。自ら炎を生み出すことができても、それはあくまで自分の「痛みの記憶」を引き出しているだけ。身を焼かれた記憶を呼び覚まして、逆説的に炎というものを定義している、というだけの話。本来ならば、思い出したくもない類の記憶のひとつだ。
 ただ、一方でそれを武器にしなければ生きていかれないのもまた事実。この『獣のはらわた』で息をし続けるためには、炎の力は必要不可欠だ。炎がなければ、こうしてぬくもりを得ることも、危害を加える獣や植物を払うこともできやしない。
 もし。もし、『獣のはらわた』の外に出られたとしたら、このような力は不要なのだろうか。
 そんな考えがよぎりもするが、それこそありえない話だと『ヤドリギ』は一人首を横に振る。右肩から生えたゆるやかにうねる蔦は、『ヤドリギ』がどうあれ人間でありえないことを問答の余地なく示している。人でありえず、さりとて化物とも言い切れない自分が存在しても許される場所は、霧明かりが届かない闇の中くらいしかないのだ。
 ただ、たった一つ。
 たった一つだけ、祈ることが許されるとすれば。
「君は無事だろうか、」
 ぽつり、呟かれた名前は虚空へと消えていく。
 ぱち、ぱち。
 ちいさく爆ぜる炎だけが、その声を聞いていた。