街角に佇む小さな画廊。
そこには一人の画家がいて、彼の手によるいくつもの鮮やかな絵が展示されている。
画家の名前はコラル・クローム。
精霊視のエルフであり、彼の瞳が見る世界をカンバスいっぱいに広げた絵は、色彩豊かながらもあくまで柔らかであり、現代の楽園絵画には珍しい画法ということもあり一部の芸術好きの間で話題を博している。
そして、ある日偶然彼の画廊を訪れたレベンタートの妖精使いは、別段「芸術好き」とはいえない人種だったが、何だかんだでコラルの絵とコラル自身の人柄を気に入り、この町に訪れた時には必ずコラルの画廊を訪れるようになっていた。
同じ精霊視の持ち主として、彼の描く世界に何か感じるものがあったのかもしれない。
今日もまた、妖精使いは画廊の一角に置かれた机と椅子に陣取り、コラルが出してくれた茶を遠慮なくすすって言葉を交わす。近頃の調子や、妖精使いの旅のこと、それはとても他愛の無いやりとり。
けれど、その「他愛の無さ」が妖精使いには心地よい。
旅の身である妖精使いには、「知り合い」は多いがこうやって他愛の無い話をすることの出来る「友人」はさほど多くない。その相手が妖精でなく人であるなら尚更だ。妖精使いに人見知りの気があり、しかも常に険のある顔つきをしているというのが人を遠ざける要因ではあるのだが。
そんな妖精使いにとって、いつもそこにいて笑顔で自分を迎えてくれるコラルがとても好感の持てる存在であることは、確かだった。
「でもさ、こんな話聞いてて楽しいか?」
妖精使いは自分の話を中断して、目を細めてコラルを見る。すると、コラルは柔和な微笑みを浮かべて言った。
「楽しいですよ。僕も旅をすることはありますけど、あなたのような冒険はしたことがありませんから」
「しない方がいいぞ、マジで寿命縮む」
「あはは、それは確かに困りますねえ」
冗談じゃねえってのに、と唇を尖らせる妖精使いに対し、コラルはけらけらと心底愉快そうに笑う。始めはぶすっとしていた妖精使いだが、やがて自らも笑みを浮かべていた。
どのくらい、そうしていただろうか。皿の上に載せられたクッキーが消え、コラルは「何か持ってきましょうか」と奥に消えた。そして、コラルが戻ってきた時には、妖精使いの薄青の瞳は、壁にかけられた一枚の絵に向けられていた。
「その絵が気になりますか?」
茶菓子を出してきたコラルに妖精使いは「悪いな、気ぃ遣わせて」と片手を上げて応じ、そして絵に視線を戻した。
それは、肖像画、と言えばよいだろうか。輪郭が周囲の風景に溶け込むかのような淡い色使いだが、そこに描かれていたのは、波打つ銀色の髪を持つ一人の少女だった。柔らかな筆致の中でもくっきりと際立った気の強そうな瞳をきらきら輝かせ、絵の中からこちらを見つめている。
「肖像画って、お前には珍しいなと思って」
コラルが得意とするのは、幻想的な要素を含んだ風景画だ。そこに人や妖精の姿は見られるが、それが中心として描かれることは珍しい。コラルもそれは自覚しているのだろう、「そうですよね」と苦笑しながら言う。
「実はこれ、友人の妹さんをモデルにしたものなのですよ。習作なのですが、いかがでしょうか」
「綺麗だな。絵のよしあしはわからないけど、きっと、本物より美人さんなんじゃねえの?」
妖精使いは思ったことを素直に言葉にした。元より妖精使いは言葉を飾るのが苦手なのだ、言葉にしたことは大体彼の本心だ。それほど長い付き合いでないといえ、コラルはそんな妖精使いの性格を見抜いているのだろう、「それは妹さんに失礼ですよ」と曖昧に笑いつつも、まんざらでもなさそうだった。
「実は、大きな絵を一枚、書こうと思っているのですよ」
肖像画から目を離さないまま、コラルはぽつりと言った。
「大きな絵?」
「はい。一人の『人』を描きたいと思って。ありのままの、一人の人を。そのためにも、人を描く練習をしてみようと思ったのです」
コラルの視線は肖像画に向けられていたが、実際にはそれよりもはるか先の……コラルにしか見えない、未来の絵に向けられている。そう、妖精使いは思った。
コラルの描く絵が、妖精使いは好きだ。精霊視とかそういうものを抜きにして、純粋に。彼の筆が描き出す一つの大きな世界、彼の描く「人」の姿を見てみたい、そう思った。
「へえ……ありのままの人、か。それは楽しみだな」
「本当ですか? そう言っていただけると嬉しいです」
はにかむように、コラルは笑う。妖精使いもつられるように薄く笑いながら、「それで、実際にはどんな奴を描くつもりなんだ?」と問うた。
すると、コラルは浮かべていた笑みをちょっとだけ意地悪いものに変えて――彼には珍しい表情だ――言った。
「そうですね、目の前にいる、妖精使いさんの絵を」
一瞬、妖精使いは目をぱちくりさせた。コラルは一瞬浮かべた意地悪い笑みをすぐに収め、いつも通りのふわふわした表情に戻っていた。妖精使いは一回、二回、三回とコラルの言った言葉を頭の中で反芻してから、
「はあ? 俺?」
とすっとんきょうな声を上げた。
「ええ。きっと素敵な絵になると思って」
コラルは嬉しそうに言うが、妖精使いはぶんぶんと首を千切れんばかりの勢いで横に振る。
「前言撤回! 却下だ! 全力で却下だ!」
「何でですか」
「恥ずかしい!」
きっぱりと、妖精使いは言い切った。何しろこのレベンタートの妖精使い、少し変わった術を扱うために巷ではそれなりに有名だが、彼自身は有名になることをとことん好まず、近頃は顔を隠して歩くほどだ。
それもこれも、彼に言わせてみれば「そんな偉いもんでもないのに、恥ずかしいじゃねえか」ということで。
妙なところで気が小さい、それがレベンタートの妖精使いである。
しかし、コラルも妖精使いがそう言うことくらいはわかっていたのだろう、くすくすと笑いながら、「でも、もう描き始めちゃってますから」と言った。妖精使いが「何だと?」と詰め寄ると、コラルはにっと笑った。
「見ますか?」
妖精使いは、ぐっと言葉を飲み込んでしまった。
見たい、恥ずかしい、でも見てみたい。
花占いか何かのごとく「見たい」と「恥ずかしい」を繰り返して……結局、
「見せてくれ」
と、言葉を搾り出したのであった。
そこには、一枚の、巨大なカンバスがあった。
人一人の背丈よりも高く、両腕を広げたよりも広い。そこに、炭でざっと、絵の下書きが描かれていた。
だが……それだけでも、妖精使いはそこに何が描かれているのかが、わかった。
――海、だ。
「あなたの話を聞いていて、ずっとあなたの絵を描いてみたいと思っていたのです。あなたの旅の記録、生きてきた道を」
海、と一言で言っても、それはただの海ではない。女神の眠る海、蜃気楼の城を隠す闇の海、永遠に凍てつく氷河。いくつもの海が、一枚の絵の中に確かな濃淡をもって描かれている。
それらの海の真ん中に立つ人の影は、きっと妖精使いの姿だろう。まだ、下書きの段階であるから人の姿をした影でしかないけれど。絵の中の妖精使いは、背筋を伸ばし、遠浅の海に立ち尽くす。
ああ、そうだ。
コラルには話しただろうか、話していなかっただろうか。もし、話していなかったとしても、きっとコラルは人とは違うものを見るその瞳で気づいていたに違いない。
自分の旅は、確かに「海」から始まったのだ、ということを。
「いつか、絶対にこの絵を完成させて見せます。そうしたら」
一番に、あなたに見てもらいたい。
コラルの言葉に、妖精使いは小さく頷く。
まだ少しだけ恥ずかしくて、頬が熱くなっていたけれど。今度は躊躇うことも無く、目の前に広がる、まだ色の無い海に向かって言った。
「ああ――楽しみだ」
レベンタートの妖精使い