レベンタートの妖精使い

海の章/砂クジラ

 よう、坊主。その格好を見るに、旅人だろう。ちょいと俺の話を聞いていかないか。何、そんな長々とした話じゃあない。
 俺は昔、この町で船乗りをやってたもんさ。船であちこちに荷物を運ぶ仕事をしていたんだがな……船を駆るのが海だろうと空だろうと、船乗りをやってる奴は皆、早い遅いの差はあれ必ずこう思うときがやってくる。
『楽園の果ては、どうなっているのだろう』
 女神様は、楽園が海と世界樹の世界だというだけで、楽園の果てを示しちゃくれねえ。坊主も気にならねえか、海の果て、地図が途切れる場所。そこはどんな場所だと思う。海がそこで終わっていて、何も無い穴に落ち込んでいるのか、それとも超えられない壁が立ちはだかっているのか。
 もちろん、確かめに行った奴がいないわけがねえ。俺の耳にも、そんな連中の話は入ってくる。だが、楽園の果てを見て「帰ってきた」奴はいなかった。
 そこで、俺様は自分でそれを確かめようと思い立った。
 燃えるじゃねえか、誰も見られなかった場所に行くなんてさ。
 当然周りの連中は止めたがな、そんなことでこの俺の胸に湧いたもんは止められねえ。相棒――長年連れ添ってやってきた、旧型だが最高の船に乗り込んで、大海原に漕ぎ出したのさ。
 漕ぎ出した、つっても実際に漕ぐわけじゃあねえ、魔道機関仕掛の船だったからな。そりゃあ、地図にも載っていない場所だ、人の手で行くにゃあ辛すぎる。魔道機関が出てくる前は、帆と櫂だけで楽園の果てを目指した奴もいるらしいがな。
 旅のはじめは順調だった。晴れの日が続いていたし、風も穏やか。このまま行けば、簡単に地図の果てにたどり着けるだろう、そう、思ってたんだがな。
 やっぱりそう上手くはいかなかった。
 そろそろ地図の終わりにたどり着くだろうか、そんな時になって、急に雲行きが怪しくなってきやがった。それに、今まで快調に進んでくれていた相棒がおかしくなっちまった。何でそうなっちまったのかは、今になってもわからねえ。そのうちに、すっかり舵もきかなくなって、俺は荒れ狂う海の中に一人、取り残されちまったんだ。
 自分の思うとおりに動かない船は、波に揺られて何処ともわからない方向に流されていく。俺も流石に死を覚悟したね。
 怖いとか悲しいとかそれよりもまず、楽園の果てを見ないままに死ぬことが悔しかった。結局、俺も「帰ってこなかった」連中の一人になっちまう。名前も残らずに、そうやって一くくりにして語られちまう、ってのが我慢ならなかったのさ。
 そんな風に思いながら、どのくらい経っただろうな。もう水も食糧も底をついて、このまま死ぬだけだと思った時……曇っていた空の間から、一筋だけ光が差したんだ。そんな空に、何かが浮かんでることに気づいた。
 段々と、そいつはこっちに近づいて来るんだ。鳥かと思ったが、鳥じゃねえ。船かと思ったが、船でもねえ。
 そいつは……空を飛ぶ、巨大なクジラだった。
 信じられない、って顔してんな。俺だってそうだった。空飛ぶクジラなんて、まるで子供の夢物語じゃねえか。けれどもそいつは間違いなくクジラだった。砂のような色をしたごつごつとした巨体を揺らめかせて、海を泳ぐのと同じように空を泳いでこっちにやってきたんだ。
 ゆっくりと、ゆっくりと、眠っちまうような速度で泳ぐクジラを、俺は呆然と見上げることしか出来なかった。もう、こんなおかしな幻まで見るほど弱っちまったのか、って自分で自分を笑いたくなったよ。
 そうしたら、な。
 クジラが、こっちを見たんだ。
 綺麗な、黒い瞳だったよ。馬鹿でかい体をしてんのに、やけにちっちゃい目でもって、こっちを見つめてんだ。
 俺を取って食おうとしてんのかと思ったよ。あんな馬鹿でかいクジラだったら、俺みたいな人なんて海の中に漂う小エビも同然だったに違えねえ。
 けど、そいつは俺を見て、それから来たときと同じようにゆっくりとした動きで、頭の向ける先を変えたんだ。さながら、船を旋回させるみたいにな。それで、俺はやっと気づいたんだ。
「付いて来い」
 そう、言ってるんだって、な。
 言われたって、俺の相棒はとっくにおかしくなっちまってんだから、追いかけることなんて出来ねえ、そのはずだった。だがな、俺は最後の力を振り絞って、舵に取り付いた。動け、動いてくれ、そう強く念じたよ。
 すると、今の今まで眠ってた相棒が、目覚めたんだ。いつものような速さで動いちゃくれなかったが、俺の舵取りに応えてクジラを追いかけ始めた。俺も相棒ももう限界だった、だがこの背中を見失うわけにはいかねえ。
 俺は震える手で舵を握り続けた。相棒も、今にも壊れそうな音を立てながら、それでも確かにクジラを追い続けた。
 そして、気づけば……水平線の向こうに、世界樹が見えて、やがて陸地が見えてきた。その時には、いつの間にかクジラは消えていて、ほとんど意識を飛ばしてた俺は近くを通りがかった船に見つけられて、事なきを得た。
 結局、相棒は二度と海に出られない体になっちまって、そのまま処分することになっちまった。それで、俺も海に出ることを止めたんだ。ま、海に出なきゃすることもねえからな、今はこうやって飲んだくれる毎日さ。
 お、坊主、気が利くじゃねえか。ありがたくいただくとするぜ。
 あれから、俺ああの砂クジラを見ちゃいねえ。だが、奴はきっと、楽園の果てからやってきて、今もどこかを泳いでるに違いねえ。俺は船乗りを止めちまったが、もう一度、死ぬまでにもう一度だけ、あのクジラを見たい。
 あのクジラの行く先を追いかけりゃ、いつかは楽園の果てに辿り着ける、俺は、ずっとそう信じてんだよ……
 
「旅人さん、真に受けちゃダメですよ」
 レベンタートの妖精使いに、酒場の主人がカウンターの向こうから苦笑を向ける。元船乗りの老人は、真っ赤な顔でカウンターに突っ伏し、豪快ないびきを立てている。
「この人、この辺じゃ有名なほら吹きなんですよ。道行く人を捕まえちゃ、あんな話ばっかりするんですから」
「ふうん」
 妖精使いは気の抜けた返事をして、席を立った。ジュースと干し果物、そして船乗りが飲んだ酒の代金をカウンターの上に置いて、「ごちそうさま」と主人に頭を下げる。主人も妖精使いに笑顔で頭を下げて「また来てくださいね」と言った。それはどの客にも投げかける言葉であっただろうが、ジュースが美味しかったのでまた来てもよいかもしれない、と妖精使いは思う。
 扉を開けると、扉につけられていたカウベルが優しい音色を立てる。妖精使いは小さく息をついて、空を見上げる。
「俺は、あながちほら話でもねえと思うんだが、な」
 太陽の光から目を庇うために手を翳す妖精使いの上を、当たり前のようにクジラが行きすぎる。大地に影を落とさない、この世ならざる砂色のクジラ……妖精使いの目にしか見えないそれは、誰も知らない楽園の果てを目指して、ゆったりと泳ぎ去っていった。