レベンタートの妖精使い

海の章/幽霊船

「あー、もう、むかつく! 何なのアイツむかつく!」
 『風』はぎゃんぎゃんと独り言をわめきたてながら、空を蹴る。くるぶしの辺りから伸びる白い羽が、空気を捉えて彼女の体を高く高く海の上空へと持ち上げていく。空はからりと晴れ、雲ひとつ無い。春の空気は柔らかく、それだけでいい気分になりそうなものだが、『風』の気分は最悪も最悪だった。
 彼女の不機嫌の原因は、相棒と些細なきっかけで喧嘩をしてしまったことにある。ちなみに、その「些細な」の具体的な内訳については、あまりに下らないためあえてここで語ることはしない。
 ただ、一度喧嘩になってしまうと頑固な『風』とその相棒のことである、お互いの顔も見たくないということで、『風』は一人きりで海の上を飛んでいるのであった。
 もちろん、勢いで飛び出してきてしまったのだから行く当てなどない。そもそも『風』は風の妖精である、風には自らの足を縛る「目的」など本来必要ない。気の向くまま風の吹くままに空を散歩するのが、妖精らしい振舞いというものである。
 むかつくむかつく、と相棒に対する怨嗟の声を漏らしながら、見渡す限りの海を眺めてみると、不意に不思議なものが目に入った。
 波間に突き出している、きらきらと光る何か……金属の、塔、だろうか。明らかに自然物ではなく、しかしこんな何処にも陸地が見えないような海の只中に建造物があるとも思えない。
 『風』は一瞬で胸に溜まっていたむかつきを放り出し、その代わりに好奇心でそこを満たした。気分の切り替えが早いのも、風の妖精の特徴だ。単に気分屋なだけともいう。
 塔のようなものは、そんなに大きなものではなかった。人一人がぎりぎり上に立てるくらいだろうか。ただし、全体が滑らかな曲線を描いているので、上に立つのも案外難しいかもしれないと思う。
 そして、斜めに傾いたシルエットの先端には、既に先客が座っていた。
 これまた、海に立つ塔に負けず劣らず奇妙な男だった。
 海の只中だというのに、フードのついた真っ青なローブを纏っている。その布地は柔らかそうで、海の風をずっと浴びていたら塩と水分を吸ってぼろぼろになること請け合いだ。そして、その手には長い釣竿が握られていて、揺れる水面に向かって白い糸が垂らされている。
 この辺で漁をする釣り人だろうか。
 『風』は思ったが、その考えをすぐに打ち消す。こんな、海の真ん中の塔で、帰るための船も無しに釣りをする馬鹿はいない。それに、よくよく見れば潮風に柔らかくはためく青いローブの裾は、空と海に溶け込んでいた。
 つまり、『風』の同類……妖精使いのような一部の人間しか見ることの出来ない存在、妖精や精霊の類に違いない。
 気づいてしまえば、男から感じられる気配も『風』のよく知るものだと理解できるし、その異様さもある程度納得できてしまう。それにしては奇妙な出で立ちではあったが。
 すると、男が『風』に気づいたのか、不意に顔を上げた。
 『風』はその男の顔を見て、思わず息を飲んでしまった。
 フードの下に見えた男の顔は、顔の右側が無残に焼け爛れていた。その中心の右目も、本来眼球があるべき位置には暗い穴が開いているのみ。左目が氷河を封じたような鮮やかな色をしているだけに、余計にそのアンバランスさが際立っていた。
 男は改めてフードで顔の右半分を隠し、穏やかに『風』に微笑みかけて小さく会釈した。それがとても自然な所作だったため、『風』も緊張を解いて男の横に降り立つ。
「こんにちは、お兄さん。こんなところで何してんの?」
「釣りの真似事」
 男は低い声で答えると、釣竿を上げてみせた。確かに「真似事」という言葉が示すとおり、釣糸には餌はおろか針すらついていなかった。
「それじゃあ釣れないじゃん」
「だって、食べられないのに釣っちゃうのもお魚に悪いでしょ。ま、こういう無意味でだらだらした時間ってのを一度過ごしてみたいと思ってさ」
 軽い口調で言って、男は慣れた様子で釣糸を水面に投げ入れた。と言っても、その先端には重りとなるものもついていないのだから、糸が波間に浮かんでいるだけになってしまっているが、構う様子もない。
 『風』はしばらくその様子を見つめていたが、そもそも飽きっぽい『風』である、すぐに男に問うた。
「楽しい?」
「や、楽しかねえな。ただ、ものを考えるには、こういうなんでもない時間ってのも悪くねえかもとは思うよ」
 男はフードの下で、片目だけの瞳を細めた。『風』は男の横に足を投げ出して座り、男の話を聞く体勢に入る。座るにも不安定な場所だが、『風』に実体は無いから座るスペースも必要ない。
「考え事、かあ。何か面白いこと考えてんの?」
「面白いかはわからねえけど、例えば……俺たちが座ってるこの場所は、一体いつどのような目的で作られた『何』なのか、とかね」
「知ってるの?」
「答えは知ってる。けど、答えを知ってても想像力が及ばねえってことはある」
 男は釣竿を持たない片手で、自分が座っている金属の塔の表面を撫でた。男には『風』と違い人と変わらぬ実体があるのだろう、表面に散っていた水滴が男の指先にすくい上げられる。
「これは、遠い昔。それこそ、女神ユーリスが現れるずっとずっと前に創られたもの。人が、空を往くための船の一部だ」
「飛空艇?」
 そんなものは、決して珍しくない。
 『風』は思いながら空を見上げる。この空は島と島の間を巡る定期船の航路だ、今もちょうど大型の飛空艇が風の海を泳ぎ去るところだった。男もフードを片手で押さえて『風』の視線を追うように空を見上げて、それから言った。
「……飛空艇と言ってもいいけど、今俺らが思ってるもんとは違う。これは、『星の船』だ」
「 『星の船』? 実在してたの?」
 『風』はすっとんきょうな声を上げた。男は「そ」と言って、もう一度いとおしそうに自らが座る塔の表面を撫ぜた。
 『星の船』とは、その名の通り星の海、宇宙を往く船だ。楽園では、夜空に煌く星は女神の涙と呼ばれているが、一部の人々……主に異端研究者と呼ばれる人種……は、星が今自分たちの立っている場所と変わらぬ「星」であり、また宇宙が果てしなく広がる空間であることも知っている。
 だが、そこへ向かうための方法は知られていない。遠い昔に技術が失われたとする説もあれば、そもそも星の海には進出できなかったという説もある。女神以前の歴史を研究する異端研究者の間でも、宇宙の存在は認めていても『星の船』は実在しなかったという意見を持つ者は多い。
 『風』からすれば人の価値観など知ったことはないが、それでも自分の手すら届かない空の高み、それよりも高い場所には限りない憧れを持つ。そして、この男も『風』と同じ憧れを抱いているのだろう、左だけの瞳を輝かせて声を弾ませる。
「 『星の船』が実在したか否かは、カイルの方が詳しいはずだ。アイツは『星の船』を見たことがあるらしいしな」
 カイルとは『風』の相棒の名前だ。『レベンタートの妖精使い』という通称の方が有名かもしれないが。
 何故この男が相棒の名を知っているのか、そんなことは問うだけ無駄だろう。知っていても何もおかしくはない、目の前の男は人に限りなく近いが人ではない。『風』の同類であるが全く違う存在でもある、色々なものを超越した「何か」だ。
 それを正しく表現する言葉を『風』は持たない。
 相棒ならば、きっと「カミサマ」と呼んだだろうけれど。
「俺はカイルと違って『星の船』を見たことが無い。だから想像することしか出来ない。こんなちっぽけな残骸から、闇を泳ぐ船の形を想像するのさ」
 正しい想像かどうかはわからない。
 けれど、想像すること、それ自体はとても楽しいことだ。
 男はそう言って楽しげに笑い、もう一度釣竿を振った。ひゅん、という風を切る音とともに、意味の無い釣糸が青い海に舞う。
 『風』はそれを目で追いながら、さっさと相棒と仲直りをすることを決めた。
 そもそもが下らない理由の喧嘩だ、きっとこちらから謝れば相棒も許してくれるだろう。
 そして――『星の船』の話を聞こう。
 心に決めて、『風』はもう一度空を見上げた。空には雲ひとつ無く、当然星の姿も見えないが、目には見えなくても星がそこにあることは『風』も知っている。『風』は男にならって、そこに一つの船を思い描く。まるで鯨のような、美しい曲線を描く銀色の船を。
 すると、男が下手糞な鼻歌を歌いだした。あまりに下手すぎてメロディラインすら定かでない歌だったが、何故か『風』はそれが相棒の好きな歌であることに気づくことができた。
 ――私を月まで連れて行って。
 男の声に合わせて口ずさみ、二人は顔を見合わせて、笑った。