レベンタートの妖精使い

海の章/人魚姫

「――人魚姫は、姉からナイフを手渡された。そのナイフで王子を刺せば、お前は海の泡になることなく、人魚として海に戻れるのだと。
 だが、人魚姫は結局ナイフを海に捨て、そして自らも海に身を投げた。
 このまま、海の泡になると思われた人魚姫だったが、気づけば自分の体は海の中でなく、空の上にあると気づいた。周囲には、美しい姿をした透き通った女たちが微笑みかけている。
 人魚姫は空気の精となって、世界を循環し続けることになった。そして三百年の時をかけて、新たなる命となるその日を待ち続けているんだとさ」
 これで物語は終わり、とレベンタートの妖精使いは言って改めて煙管を咥えた。紫煙が風に揺らめき立ち上る。
 岩の上に寝そべっていた人魚は、「興味深い話じゃないか」と血のように赤い唇を笑みの形にした。妖精使いは普段どおりの仏頂面のまま、軽く肩を竦めてみせる。
「アンデルセンとかいうおっさんの作り話だけどな」
「作り話だからこそ面白いんだよ。本物の人魚はそんな都合のいいもんじゃないさ」
「そんなもんか。ま、作り話だから面白い、ってのは一理ある」
 妖精使いは答えて、海を見渡す。岩場の向こうには、どこまでも、どこまでも、青い水面と青い空が続いていて、その境界線が煙って見える。
 ぱしゃり、と人魚の長い尾が水面を叩く。群れからはぐれたのだ、というこの人魚は、美しい虹色の尾を持っていた。
「そういえば……あたしもちょっと変わった話を思い出したよ。一種のおとぎ話だね」
 けれど、これは実際にあった話でもある。
 そう言い置いて、人魚は言葉を紡ぐ。
「昔々、そうだね、それこそ三百年くらい前の話さ。あるところに、子供のいない老夫婦がいてね。子供が欲しい、欲しいって願ってたら、ある嵐の夜に家の前に赤ん坊が捨てられていたんだ。女神ユーリス様が願いを聞き届けてくれたんだ、って夫婦は大喜び」
 まあ、あの自己中の女神が本当にあの夫婦の願いを聞き届けたとは思えないけどね、と人魚は付け加えてみせる。妖精使いもそれには同意だった。
「ともあれ、引き取り手の見つからなかったその子……女の子だったんだがね、彼女は夫婦の下ですくすくと育った。ただ、育つにつれて、その子が普通じゃないことがわかってきたんだ」
「普通じゃない?」
 妖精使いが問い返すと、人魚は「そ」と目を細めて笑う。人を魅了して海の底に沈める怪異、と称される人魚だが、それはあながち間違っていないかもしれない、と妖精使いは思う。ふと浮かべるその微笑みを見るだけで、心が惹きつけられてしまう。
 そんな、非の付け所の無い美を湛えた顔の中で、唇だけが別の生き物のように蠢く。
「その女の子はね、空を飛べたのさ」
 妖精使いは、一瞬きょとんと目を丸くして……それからぱたぱたと手を振った。
「空を? んな馬鹿な。ありえねえだろ」
 楽園の魔法では、空を飛ぶことは出来ない。正確には、魔法「だけでは」と言うべきだろう。魔法で飛べなければ、飛べる道具を作ればいい。そうやって飛空艇を作ってしまったのが、最終的に異端として処刑された『飛空偏執狂』シェル・B・ウェイヴであるわけで。
 そんな簡単に飛べれば、シェルだって首を切られることはなかったに違いない。
 人魚はそんな妖精使いの反応を十分想定していたのだろう、ニヤニヤと笑いながらからかうように言う。
「アンタだって飛ぶじゃないか」
「あれは『風』の力を借りてるだけだ。俺が飛べるわけじゃない」
「その子も、風が力を貸してくれるんだ、って言ってたみたいだよ。ただ、アンタと違って、妖精が見えるわけじゃない。その子には、ただ『風』だけが見えていたみたいでね」
 風を見る少女はやがて成人の儀を迎え、その日を機に旅に出ることになった。
 周囲の大人たちは空を飛べることは隠しておけ、と言ったけれど、少女は飛ぶことが好きだった。風に乗って、雲を越えて、鳥と戯れる。その素晴らしさを知っていたから、旅に出てからも人の目の無いところではすぐに風に乗って空に舞い上がっていた。
「それを、一人の男が見ていたんだ……若き司祭にして異端研究者、シェル・B・ウェイヴがね」
 わお、と妖精使いは彼には珍しく大げさに声を上げた。
「マジか。そこに繋がるのかよ」
 だが、言われてみればシェルも三百年前の人間だ。話が繋がってもおかしくは無い。
「シェルはね、その子に一目ぼれしちまったんだ。元々『空を飛ぶ』ことに命を捧げてる男だったけど、その子を見てからは……彼女と『一緒に』飛ぶことを夢見るようになったのさ」
 人魚の濡れた指先が、空をなぞる。空には魚のような形をした、赤い船が飛んでいた。
「その結果は、アンタも知ってるでしょう」
「ああ……シェルは、飛んだ。無骨な船ではあったけど、確かに」
 そして、今に至るまでの「飛空」の歴史が始まった、わけだが。
「そう、シェルは飛んだ。だが、人ってのは馬鹿なもんでね、一度高みに届いちまうと、どんどんその先を目指そうとする。そのうちに、シェルは手を誤っちまった。そして、こう」
 人魚は首に親指を当てて、すっと引いてみせた。そして、壮絶とも言える笑みを浮かべ、妖精使いに迫る。
「さて、それじゃあ、空飛ぶ女の子はどうなったと思う?」
 ――知るはずも無い。妖精使いは眉を寄せる。
 当然だ、シェル・B・ウェイヴは楽園では知らぬ者なき英雄にして反逆者。だが、シェルの個人的な挿話はほとんど残っていない。シェルは己が生きてきた記録を残さなかった。何一つとして。唯一残したものは、それこそ今空に浮かんでいる飛空艇という存在そのものだ。
 ただ――妖精使いも、これだけは知っている。
 シェルは生涯独身を貫いたとされているが、それは大きな誤りだ。実際には、今もなおシェルの血は脈々と受け継がれている。そして、その事実は今もなお、神殿によって隠され続けている。
 妖精使いは少しだけ考えて、それからぽつりと言葉を落とした。
「……シェルが死ぬ頃には、生きてたとは思えんな」
「そうだね。彼女はシェルが処刑される一年ほど前に、事故で世界樹に還ったとさ。けれどね」
 くつくつ、とおかしそうに人魚は笑う。
「彼女の死体は、死んだ翌日には消えちまったのさ。残されていたのは、シェルが彼女に贈った、お守りのリボンだけだったそうな」
 それもまた、窓から吹き込んだ風に煽られて、高く、高く、風の海の果てに飛び去ってしまったという。
「何だそりゃ」
 妖精使いは眉を潜めた。そんな彼の手から、人魚は煙管を取り上げた。赤い唇が煙管を咥え、そして煙をふうと吐き出す。そんな仕草すら、まるで一枚の絵のよう。
 沈黙は、波の音。
 人魚は煙が昇っていく風の海を見上げ、ぽつりと呟いた。
「それこそ人魚の姫と同じように、空気の精になったのかもしれないよ」
「ああ……なるほど」
 そこに繋がるのか。思いながら、妖精使いはもう一度『人魚姫』の結末を口ずさむ。
 三百年もの時をかけて、風は楽園を巡る。例えば、風の生まれる場所からやってきた少女は、風の行く先に帰っていく。
 そして、今は。
「さあて、あたしは行くとするかね。面白い話を有難うね、歪曲視」
「こちらこそ。っと、煙管は返せよ、それ高えんだから」
 はいな、と人魚は嫣然と微笑みながら煙管を返した。人魚の手に触れられていたからだろうか、それはしっとりとしていて、やけに冷たかった。
 それじゃまたいつか、ご縁があれば。
 そんな古風な挨拶と共に、人魚は海の中に飛び込み、それきり見えなくなった。妖精使いはついと視線を空に向け、少しばかり湿り気味の煙管をふかしながらぽつりと呟いた。
「……何とも、奇妙な縁もあるもんだ」
 その視線の先では、いつも通りの相棒が、無邪気に手を振っていた。