レベンタートの妖精使い

空の章/虹の根元

 『楽園』全土を襲った三日三晩の激しい嵐が去って、からりと晴れた空に虹がかかったその日。小さな港町に、小さな事件が起こった。
 一人の少年が、海岸に打ち上げられていたのだ。
 乗っていた船が難破したのだろうか。そうは思われたが、他に人や船の残骸が打ち寄せられているわけでもなく、また少年が一糸纏わぬ姿だったのも不可思議な点ではあった。
 ともあれ、酷い怪我をしていながらかろうじて息のあった少年はすぐに病院に運ばれ、一命を取り留めた。しかし少年を発見した人々が安堵したのもつかの間、今度はまるきり別の問題が浮上してしまった。
 少年は、自分の名前も何処から来たのかも覚えていなかったのだ。しかも、こちらの話はかろうじて理解しているようだが、自分で喋ることはできないようだった。
 頭を強く打っていた様子だったため、それで記憶と言葉を喪失してしまったのだろうと医者は断じた。これには町の人もすっかり困り果ててしまった。少年を故郷の親元に送り返すことも出来ず、一体どうしていいものかと首を捻ることしか出来なかった。
 少年は少年で、そんな自分の状況を不安に思っていたのか、病院のベッドの上できょろきょろと辺りを見渡しては、沈んだ表情で俯いてしまう。
 そんな折、少年を見ていたとある老夫婦が、自分の家で少年を引き取ろうと提案した。少年の身元がわかるその時までは、家族として一緒に暮らそうと言い出したのだ。少年は驚きをもってその提案を聞き……申し訳なさそうな顔をしながらも、「ありがとうございます」と頭を下げた。それが、少年が初めて明確に放った言葉でもあった。
 少年は自らにまつわる記憶こそなかったが、不思議なことに知識は豊富だった。言葉が自由になってくると少年を引き取った老夫婦も驚くほどの知識を披露してみせた。また、勉強熱心であり自らの知らなかったことも積極的に調べ身につけていく。
 それにつれ暗かった少年の表情も段々と明るくなり、町に流れ着いて一年もたたないうちに、自然と少年は町にとけ込んでいけるようになっていた。老夫婦とも仲が良く、まるで本当の家族のように幸福な毎日を送っていた。
 だが、ある日、そんな少年に転機が訪れる。
 少年を知っているという一人の少女が、港町を訪れたのだ……
 
「で、当時の『少年』ことアンタは逃げ出しました、と」
「はい、逃げました! 脱兎ですよ悪かったなこんちくしょう!」
 レベンタートの妖精使いは相棒の『風』にわめき散らす。小さな少女の姿をした『風』は、大げさに肩をすくめて呆れたため息をついてみせた。
「逃げなくたっていいじゃん、せっかく自分を知ってる人が来てくれたのに……それとも」
 『風』はそっぽを向く妖精使いの顔を大きな緑色の瞳でのぞき込む。
「何か、その子が来て都合の悪いことがあったとか?」
 妖精使いは難しい顔で沈黙を守る。とはいえ額にはすごく嫌な汗をかいているが。『風』はにやにやと笑みを浮かべて言った。
「実は、記憶喪失とか嘘なんでしょ」
「……はい、そーですよ! 嘘ですよごめんなさい!」
 この場に謝るべき人間がいるわけでもないのだが、やけっぱちになって叫ぶ妖精使い。相変わらずからかうと面白いなあと『風』は人事のように思う。実際に人事だが。ぎっとこっちを睨みつけてくる妖精使いだが、妖精使いの目つきが凶悪なのはいつものことだ。『風』はそれこそ「何処吹く風」といった風に問い返す。
「何で記憶喪失のふりなんかしてたのさ?」
「別に、全部『ふり』なわけじゃねえんだよ。名前と出身地が『無い』のも、喋れなかったのもマジ。そんな状態じゃ、下手に説明するより記憶喪失とか言ってた方がまだマシだろ」
「何か、あたし以上に不思議な経歴なんだねー」
 妖精としては相当特殊な部類に入る『風』だが、別段妖精使いの特殊な境遇にはそこまで興味ないらしく、くるくると踊るばかり。まあ、そういう奴だからこそ、気が楽ではあるのだと妖精使いも息をつく。
「で、そんなとこに俺の知り合いが来ちゃったわけよ。別にそいつが何したってわけじゃねえんだけど……何ていうか、昔の仲間に会えとか何とかうるせえんだよ」
「いいじゃん、会ってくれば」
「会えるか!」
 びしっ、と妖精使いは『風』を指さす。
「いいか、俺はそいつとはすっげえかっこよく別れたんだ、もう二度と会わない覚悟でな! つか二度と会えないような別れ方しちまったんだよ!」
「あー、あれね。『俺の分まで、お前は生きるんだ……』みたいな」
「くそっ、ほぼ正解なのが腹が立つ!」
 やっぱり図星なのか。
 単純すぎる展開に、『風』は再びため息をつく。妖精使いは「きぃっ」とヒステリックに声を上げ、ぶんぶんと腕を振る。
「手前、単純とか思っただろ! 思ったよな!」
「思ったに決まってるじゃん単純バカ」
「うるせえ! とにかく、んな別れ方しちまった手前、のこのこ出てきて『元気ー? 実は俺も元気にやってたんだぜへっへー』とか言うわけにはいかねえの! わかる?」
「事実なんだから言えばいいのに……」
「俺のプライドが許さねえの!」
 安っちいプライド。
 そうは思ったが、口に出さないのが『風』の優しさである。口こそ悪いが、このレベンタートの妖精使い、とってもナイーブな心の持ち主だったりする。おそらくこれ以上言ったら壁に向かって泣き始めるので鬱陶しいことこの上ない。
「逃げたところで解決しないと思うけどなあ」
「解決しねえさ、せめて猶予がほしいんだ! モラトリアム期間だ!」
 ――ああ、これだけ言っていても会いに行く気はあるのか。
 妖精使いの言葉を聞いて、『風』は思わずくすくすと笑ってしまった。
 何だかんだ文句を言いながらも、いつも彼は自分のすべきことはすべきこととして理解している。それをすぐに実行に移すかは別としても。
 妖精使いの肩に腕をかけて、『風』が楽しげに囁く。
「そのお仲間、きちんとあたしにも紹介してね」
「……へいへい、わかってますよ。っと、雨も止んだな」
 妖精使いは大樹から背を離し、木の下から顔を覗かせる。今まで散々降っていたはずの雨はいつの間にやらぱたりと止んでいて、それどころか明るい日の光が雲の合間から降り注ぎ始めていた。
 行く当てもなく、計画性などあるはずもなく。初めは勢いで飛び出してしまったけれど、今となってはそれはそれでよかったのかもしれないと妖精使いは考えている。
 いつかは帰らないとならないし、会わなければならない人もいるけれど、帰る場所があって、待っていてくれる人がいるというだけで幸せなのだ。
 その幸福を確認するためにも、今の自分は旅しているのかもしれない……思いながら彼は一歩を歩み出す。肩にしがみついたままふわふわと宙に浮かぶ『風』に、にやりと笑みを向けて。
「さ、行こうぜ」
 雨が止めば虹が出る。それこそ、彼があの町に流れ着いた日と同じように。
 今日もまた、虹の根元から妖精使いの旅は始まるのだ。