レベンタートの妖精使い

空の章/遠雷

 嵐が来る……
 レベンタートの妖精使いは、船室に流れる空気の匂いを嗅ぎ取ってちっと小さく舌打ちする。この時期の嵐は特にタチが悪いというのに、何故。
 この定期船は、航路を離れ嵐に向かっていこうとしているのだろうか。
 何故と問うまでもないのはわかっているけれど。
「手前、伏せていろと言っただろう!」
 少しだけ顔を上げた彼の目の前に、剣の切っ先が振り下ろされる。彼は渋々、しかし出来る限り恐怖に怯えたふりをしながら床の上に伏せる。周囲の乗客も皆彼と同じように床に這い蹲り、この場に立っているのは場違いな覆面を被った男たちだけ。
 要するに……飛空艇強盗だ。
 おそらくこの様子だと、操縦席も乗っ取られていることだろう。飛空艇を乗っ取っておきながら風読みの一人もいないときた。無計画にもほどがあるな、と相手には気取られないよう苦笑する。
「ね、大人しくしてる気?」
 そっと耳元で空気の精、相棒の『風』が囁く。
「武器も財布も取られたのに、素直に従ってるなんて珍しいじゃん」
 それは、ここを出る前に珍しくイカサマ抜きで挑んだ賭け骨牌であらかた財布の中身を空っぽにしてしまったからなのだが。基本的に妖精使いは賭事が苦手だ。駆け引きの苦手さもさることながら、彼はとことん運がない。
 もし彼に運があれば、そもそも乗った定期船が賊に襲われたりもしないはずだ。
「まあ……大人しくしてりゃ解放してくれるってんだし、余計な体力使うこともねえかなと思ってたんだが」
 ぼそぼそと言いながら、口の端を歪ませる。
「この調子だと、動かんとヤバいかもな」
「さっすがにあたしでもあの嵐はどうにもできないもんねえ」
「と、いうわけで協力してくれねえか『風』さんよ」
「めんどくさいけど、仕方ないか。後味悪いのはヤだもんね」
「おい、そこ! 何をさっきからぶつぶつ……」
 妖精使いの声を聞きつけた賊の一人が切っ先を再び彼に向けようとしたが……彼がそちらに視線を向けた瞬間、一陣の風とともに賊の腕から剣が吹き飛ばされた。
「な……っ!」
「借りるぜ」
 全身をバネのようにして伏せた体制から立ち上がった妖精使いは、空中に浮いた剣の柄を左手に握る。その時間はほんの数秒にも満たないものだったが、この場にいる賊たちの意識をこちらに向けるには十分すぎる時間だった。
「き、貴様っ」
「舐めた真似を……!」
 伏せたまま震える乗客たちを踏み越え、妖精使いに向かって飛びかかってくる賊たちだったが、風をまとった彼は浅い海色の瞳でそれを一瞥するのみ。
「人質取ってんなら、有効に使えっての。直接俺にかかってくるなんて愚の骨頂だ」
 言って、何でもないような足取りで歩き出す。彼が何もしなくとも、彼の周囲に渦巻く風……『風』の操る力は賊たちの腕から武器をもぎ取り、体を床に縫い止める。情けない悲鳴を上げ次々に倒れ伏す覆面の男たちには目もくれず、彼は真っ直ぐに操縦席を目指す。
 集まってくる覆面の男たちを、時には『風』が、時には妖精使い自身が無造作になぎ倒しながら。
 だが、操縦席の扉の前で、彼はついに足を止めることになる。
 そこに、覆面を被った大男が立ちはだかっていたからだ。
「随分、好き勝手やってくれたみたいじゃねえか、ああ?」
 地の底から響く地響きのような、もしくは天上に轟く雷のような、そんな声で大男は凄む。
「お前らがバカじゃなけりゃ、俺もそこまで好き勝手はできなかったよ」
 妖精使いはやれやれとばかりに肩をすくめながらも、目の前の男がこの船に乗り込んできた他の有象無象とは異なる実力者であることを見て取った。
「ほざくな、ガキが。まあ……すぐにその口も塞がるがな」
 男は手にした刃を長い舌で舐める。
 巨大な手に握られたこれまた巨大な曲刀は、今までに何人の人間を斬ったのだろうか、ぬらぬらと嫌な輝きを発している。この細い空間では不利にも見える得物だが、舐めてかかれば痛い目に遭うのはこちらだろうな、と妖精使いは腰に手を当てて冷静に分析する。
 『風』が首を傾げて問いかける。
「ね、大丈夫なの? あたしでも一撃じゃきつそうだけど」
 『風』は空気の精でありその名の通り風を操るが、特性上、このような狭い場所では全力を発揮できない。妖精使いは先ほど覆面の男から奪った剣を手の中でくるくる回しながら言う。
「ん……ま、そうだな。俺とお前じゃちときついだろうけどさ」
「何を一人でぶつぶつ言ってるんだ!」
 男が妖精使いの言葉を遮って踏み込んでくる。妖精使いはとっさに手にした剣でその一撃を受け止めようとしたが、ぎん、という金属と金属が触れ合う耳障りな音と同時に、非力な彼の手からあっさり剣が飛んだ。
 男は追撃とばかりに容赦なく曲刀を振り下ろそうとする、が。
「な、お前ら」
 妖精使いの唇が、開く。
 薄い笑みすら湛えながら……男の背後を見据える。
「俺らが出るまでもねえよな?」
 その瞬間、男の動きが止まった。男は何が起こったかわからず何とか刃を妖精使いに叩きつけようとするが、手首を何かに強く握られているような感覚とともに、宙に縫い止められる。
 目を白黒させる大男を見上げ、妖精使いは淡々と言葉を紡ぐ。
「お前さん、恨み買いすぎだ。少しそそのかしてやりゃ、こんなもんよ」
 妖精使いは男の喉元に指を突きつけ、くいと曲げる。すると男の喉に指の痕だけが食い込んでいく。まるで、目には見えない指が男の首を締め付けているかのように。しかも、それは一つではない。無数の透明な指先が、男の呼吸を奪おうと襲いかかっていた。
 妖精使いは何をしたでもない。ただ……「呼びかけた」だけだ。普通ならば誰の目にも留まることない、この世界に影響を及ぼすこともできない存在に。
 男ががくりと膝を折り、剣を取り落とす。既に男の顔は真っ青ですっかり意識を失っているようだった。妖精使いはふうと息をつくと、虚空に向かって呼びかける。
「もうやめとけ。それ以上やったらお前らもこいつと同じだ」
 彼の声に応えるかのように、辺りを満たしていた気配が大男の体の自由を奪ったままにこちらを「向く」。妖精使いはぴりぴりするような空気を受け止めながらもなお笑う。
「何、心配すんな。生きてる奴らにしかできねえ、最高にえげつないやり方で罰を与えてやるさ。だから今はここまでだ」
 ぱん、と手を叩く。それを合図として、辺りの気配がふっと霧散した。そして、形ない力に縛られていた男の体が糸の切れた人形のように床に落ちた。
 一連の様子を見つめていた『風』が「はわー」と気の抜けた声を上げる。
「えげつないなあ、それ、死霊術士のやることじゃん」
「うるせえなあ、そこにいる奴の力を最大限に利用するのが俺のやり方なの。それに」
 妖精使いは倒れ伏した男の頭を踏みつけ、言う。
「奴らだって成仏できたんだからいいだろ」
 窓の外には強風。そして、風に舞い踊りながら遠い世界樹に向けて駆け出す霊の姿を見つめる。神も仏もない世界に「成仏」という言葉が正しいかどうかは、妖精使いの知ったことではなかったけれど。
「さ、とっとと操縦席を奪い返すぞ。このままじゃ俺らも世界樹に還る羽目になる」
「はいな、了解っと」
 妖精使いは『風』を連れ、操縦席の扉をゆっくりと開いた。
 ――嵐は、近い。