レベンタートの妖精使い

空の章/夜間飛行

 あるところに、一人の女の子がいました。
 女の子は、とても重い病を患っていて、自分の部屋のベッドから降りることもできませんでした。そんな女の子のお友達は部屋の外の世界を描いた絵本と、ベッドの横にある大きな窓の外の景色だけでした。
 毎日毎日、女の子は絵本の中の魔法使いたちを夢見て、窓から見える空を見上げていました。女の子は特に夜の空が大好きでした。真っ暗な空に輝く金と銀のお星様、まるでお皿のように大きな月。もっと小さな頃には、あのお皿に手が届くのだと信じてよく手を伸ばしていたものでした。
 今は、余りに遠くにあるものだということも、知っていましたが。
 その日は、いつもよりずっと高い熱が出て、とても苦しい日でした。眠っているのか覚めているのかもわからない悪い夢を見続けて、気づけば真夜中になっていました。すっと熱が引いた気がして、目を開けると……いつの間にか開いていた窓の外には、まん丸いお月様が金色の光を投げかけていました。
 そして。
 ふわり、と。
 カーテンを揺らして、風が部屋の中に入ってきました。
 その風は、一人の男の人の姿をしていました。窓枠に足をかけた男の人は、ぼんやりと月の光に照らされながら、珊瑚礁の海のような色をした瞳でこちらを見下ろしていました。
 泥棒か何かでしょうか。思わず声をあげようとした女の子でしたが、男の人は唇の前に指を立てて「静かに」と言いました。その声が思ったよりもずっと優しい声だったので、女の子も素直に唇を閉ざします。
 それにしても、この人は一体何者なのでしょうか。女の子は首を傾げてしまいました。女の子のいる部屋は二階なのです、壁を伝って上ってきたのでしょうか。それとも……
 まさか、そんなことはあるはずありません。
 男の人が、「空を飛んできた」なんて。
「人が空を飛んじゃおかしいか?」
 男の人は女の子の心の中を読んだかのように、笑って言いました。だけど、おかしいに決まっています。空を飛ぶ魔法なんて楽園のどこにもないことくらい、部屋から出たことのない女の子だって知っています。確かに、絵本の中ではそんな不思議な魔法を使う魔法使いがたくさん出てきたけれど。
 それはあくまで物語の中の話。そう女の子が言うと、男の人は笑いました。唇の端っこをきゅっとつり上げるだけの、不思議な笑い方です。
「それなら、試してみるか?」
 男の人は、そんな笑みを浮かべたまま、女の子に向かって手を伸ばしました。
 もしかすると、これも夢の続きなのでしょうか。こんな不思議なこと、現実にあるとも思えません。けれども、夢であるのならば……それこそ空を飛べたって、おかしくないのかもしれません。女の子はおそるおそる男の人に向かって手を伸ばしてみました。
 すると、男の人がぎゅっと女の子の手を握りしめました。男の人の大きな手は、夢とも思えないほど温かいものでした。
「手を離すなよ」
 男の人は海色の瞳で女の子を見下ろします。
「落っこちても責任は取れねえからな」
 女の子はこくりと頷いて、強く強く男の人の手を握り返します。男の人は満足げに頷きを返すと、ベッドの上から女の子を引っ張りあげてそのまま窓枠を蹴りました。
 途端、女の子の体を風が包み込みました。それは決して身を切り裂くような激しいものではなく、春のそよ風を思わせるとても優しい風。部屋の中では決して感じることのできない柔らかな草の香りに包まれて、女の子は思わず目を閉じました。
 次に目を開けたときには。
 女の子は、町を遙か足下に、夜の空に浮かんでいました。空には星、足下にはぽつぽつと灯る町の灯り。世界の全てが星に包まれているようで、女の子は思わずわあと声を上げました。
 まさしく、ベッドの上で夢見ていた世界がそこにありました。いえ、もちろんこれも夢なのかもしれませんが。いつもの息苦しさも、体の重さもありません。澄んだ夜の空気を胸一杯に吸い込んで、軽くなった体はふわふわと風船のように浮かび上がっているのでした。
 男の人は女の子の手を引いて、もっともっと、高みへと連れていきます。温かな指先と優しい風に導かれて、女の子は風の音渦巻く空を駆けていきます。
 高く、もっと高く。
 目指す場所は……小さい頃に夢見た、お月様。
「ほら、今日はこんなに月が綺麗だ」
 男の人が穏やかな声で囁きます。
 ああ、こんなに高く飛べるのならば、今度こそ手が届くのかもしれません。空に引っかかる、まん丸の月に。片手に男の人の手を握ったまま、ゆっくりと手を伸ばしてーー
 
 その指先の感覚を信じて、目を、閉じる。
 
「……よかったの?」
 青い空の下、耳元で囁く声。レベンタートの妖精使いは目を細めて「さあなぁ」と呟いた。彼の視線の先には白い服を身にまとった人々……葬列の風景。その中心では、やけに小さな木の棺が色とりどりの花に囲まれていた。木と花に愛されたユーリス神聖国ならではの「花葬」だった。
 空気の精である『風』もまた、妖精使いにならって新緑色の瞳でその様子を見つめている。二人は葬列に加わることもせずただ立ち尽くす。
 その時。
 少女の無邪気な笑い声が、風の中に聞こえたような気がした。
 声を聞き届けた妖精使いはあの時握った少女の手の小ささを確かめるように、手を握って開く。そして、ほんの少しだけ微笑んでみせる。ぎこちない、不格好な微笑みではあったけれど……せめて、空の向こうで笑う少女に応えられるように。
 風が笑う。花が揺れる。
 少女の声は二度と聞こえない。
「行くか」
「うん」
 短い言葉を交わして葬列に背を向ける妖精使いと『風』。空に消えていった少女を弔う歌を聞きながら、妖精使いは道を蹴る。『風』に支えられ、彼の体はふわりと浮かび上がり……そのまま雲の向こうに消えていった。