そこには、一枚の絵があった。
壁に掛けられた絵の前に立ち尽くした妖精使いは、半開きになった唇から感嘆の息を漏らす。
「間抜け面ー」
「うるせえ」
『風』の容赦ない言葉に、レベンタートの妖精使いは微かに眉を寄せて言い放つ。妖精使いの言葉が悪いのはいつものことなので、『風』は彼の横にふわふわ浮かんだまま同じように絵を見つめる。
「でも、確かに綺麗な絵だよね」
カンバスの中に描かれたのは、真っ青な空だった。その中点に輝く太陽、光を浴びて白く浮かび上がる雲、そして緑に包まれた丘を蹴って走る、一人の男の姿が鮮やかに描き出されている。
旅の途中にふらりと立ち寄った小さな画廊だったが、ここに並べられている絵はどれも鮮やかながら優しい筆致で描かれていて、絵の良し悪しなどわかるはずもない妖精使いでも素直に綺麗だと認めることができる。また、はっきりと輪郭を引かずに色を重ねていく様式は楽園でもかなり珍しい描き方であり、それもまた目を引く要因であった。
その中でも、この青空の絵は何故か妖精使いの目を引いた。この画廊にある絵は全て一人の画家によって描かれたものだそうだが……
「おや、お客さんですか」
声をかけられて、妖精使いと『風』は同時にそちらを見た。そこにはひょろりと背の高いエルフの青年が立っていた。見た目は妖精使いとさほど変わらないから、エルフとしてはそれなりに若い方だろう。人間の妖精使いよりはどう考えても年上のようだが。
妖精使いは素早く青年の頭から足先までを見渡し、そのあちこちが絵の具に汚れているのを確認して言う。
「ああ……アンタがここの画家さん? コラル・クロームとかいう」
「はい。どうでしょうか? できれば率直な意見を聞かせていただきたいなと思いまして」
コラルは人懐こそうな笑みを浮かべて妖精使いと『風』を見やる。『風』もコラルにつられるように笑顔になって言う。
「すっごい綺麗だよ。あたし芸術ってよくわかんないんだけど、好きだなあ、こういう絵」
「わ、ありがとうございます」
コラルはちょっと照れたように頭をかきながら頭を下げる。
そういえば、普通に『風』が見えているのだなと妖精使いは一拍遅れて気づいた。精霊や妖精を視る能力は生まれつきで備わるものであり、さほど人数も多くないのだ。とはいえ精霊視は一つの町に必ず一人はいるという程度の珍しさなので、あえて指摘するほどでもない。
ただ、このようなどこか幻想的な絵を描けるのは、人と違う視点で世界を見つめているからこそなのかもしれないとは思う。
精霊視の見る風景は、他の誰にも理解できないものだ。妖精使いがそうであるように。
妖精使いは何となく複雑な心持ちになりながら、改めて青空の絵を見る。草の香りを含んだ風の匂いさえ感じられそうな、青と緑の世界。
その境界線を孤独に駆けていく、男の影が脳裏に焼き付く。
ああ、そうか。
妖精使いは息が詰まるような感覚を覚えてぐっと手を握りしめる。
――自分は、この風景を、この男を知っている。
「……なあ、この絵、だけどさ」
「はい?」
「何かモデルになった風景とか人とかいんの?」
妖精使いの問いに、コラルは「そうですね」と言いながら絵に向き合う。だが、その明るい色をした瞳は、遙か遠くを見つめているようにも見えた。
「これは、私の友人を描いたものです。と言っても、実際に見て描いたものではないですけど。イメージ、と言った方が正しいでしょうか」
「友人?」
「ええ。空が好きで、何かといえば空を見上げてて。そして、いつも全力で走っていた。どんな場所にあっても、迷わず走り続けていた」
そんな人でした、と。
コラルは言った。その一言で、妖精使いの想像が正しかったことが証明された。
「 『機巧の賢者』か」
ぽつり、妖精使いが言葉を落とす。それを聞いたコラルの目が驚きに見開かれた。
「よくわかりましたね」
「あー……ま、俺も一応知り合いだから、さ」
だった、と言った方が正しいかな。そう付け加えて妖精使いは苦笑する。
「世間じゃ散々に言われてるけど、アイツはこういう奴だよな。誰よりも天才だった、誰よりも迷いがなかった、だから誰にも理解されなかった」
それこそ、最終的には処刑されてしまった希代の異端研究者、『鋼鉄狂』 『飛空偏執狂』シェル・B・ウェイヴのように。羨望と嘲笑をもって賢者と呼ばれた男は、そうやって楽園の闇の中に沈み消えていった。
その後のことは、誰も知らない。
今もなお、楽園全土を騒がせた異端研究者……『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの行方は誰にも知られていないのだ。
「アイツはただただ、真っ直ぐなだけだった。はっきり言って俺は大っ嫌いだけどな」
「あはは、それこそ散々な言いようじゃないですか」
コラルは楽しげに笑ってから、不意に寂しげな顔になって空色の絵を見やる。
「正直、ちょっと悔しいんですよ。私はいつまでも友達のつもりだったのに……最後まで彼を理解することはできなかった。何となく、置いていかれたような気分になってしまって」
絵の中の男は、わき目もふらずに足下の草を踏み、ただ真っ直ぐ空に向かって駆けていく。決して後ろを振り向いたりはしない……それが、コラルの目から見たノーグ・カーティスという男だったのだろう。それは決して間違っていない、間違ってはいないけれども。
妖精使いは小さく息をつき、浅い海色の瞳を絵に投げかけ、ぶっきらぼうに言う。
「多分、奴も同じことを思ってたんじゃねえかな」
「え?」
「奴は誰にも理解されない。だけど『理解されない』ことを理解できないほど突き抜けちゃいなかった。天才の孤独なんていうけどさ、アイツはアイツなりにずっと取り残されたような気分だったはずだ」
俺は凡人だから、奴の気持ちになることはできないけれど。
そう言いおいてから、妖精使いは微かに笑う。
「だから、せめて全力で幸福を祈ったんだ。自分に関わった者全ての幸せを。きっとアンタの幸せだって祈ってたはずだ」
そのために、『機巧の賢者』は誰にも理解されない高みを目指したのだから。わき目もふらず、振り返らず。高く、高く、幸せの色を追い求めていたのだから――
コラルは唖然とした表情で妖精使いを見て、ゆっくりと表情を笑みの形にした。そこには既に寂しさの色はなく、とても穏やかな表情をしていた。
「あなたは、本当に彼のことをよく知っているのですね」
「別に知りたくもなかったんだけどな。ああ、そうだ」
妖精使いはあくまでどこか不機嫌そうなそっけない口振りで言ってコラルに視線をやる。コラルは別段気を悪くした様子もなく「何ですか?」と問い返す。
「この絵を見たがるだろう奴がいるから、今度つれてくるわ。多分、俺よりはまともに話が弾むんじゃねえかな」
「はあ……どなたですか?」
「そうだな」
不思議そうに首を傾げるコラルに対して……妖精使いは初めて、いたずらっぽくにっと笑って見せた。
「この絵と同じくらい、綺麗な空色をした奴さ」
レベンタートの妖精使い