彼女は石碑の上に腰掛け、スカートの下から覗く細い足をぶらつかせていた。空はよく晴れていて、青い空を横切るように一筋の白い雲が走っている。おそらく、飛空艇が生み出した風切り雲だろう。
そんなからりと晴れた空を見上げ、しかし彼女は深くため息をつく。
「はーあ、暇だなあ」
周りには彼女の仲間が駆け回っていたけれど、彼らは自分勝手に飛び回っているだけで人の話なんかまともに聞きやしない。ただでさえ個人主義な上に相手のことなんて考えない連中の集まりなのだから。
それにしても……と、彼女は空にかかる翼の痕跡を見つめながら考えずにはいられない。
風切り雲は空を切り裂き、遥か空の向こうまで続いているというのに。
自分は今もこの場に留まったまま、一歩も動けずにいる。
別に、離れられないわけではないのだ。彼女は誰に命令されたわけでもない、どこか遠くへ行こうと思えばいつだって行けるのだ。ただ……ここを離れるだけの理由がないのも確かではあった。
彼女は腰掛けた石碑をぺちりと叩いてみる。もちろん、返事がないことくらいはわかっているけれど。
ここには誰も眠っていない。どこかの誰かさんの功績を称えた仰々しい言葉だけが書かれていて、その実誰かさんはずっと遠くの存在だ。たまに帰ってくることはあるけれど、時間の流れというのは残酷なもので、それはもうとっくのとうに「彼」とは言えないものになっている。
別に、それを嘆くつもりだってない。元より誰かさんと自分が違うものだということは、嫌というほど理解している。
理解は、しているが。
「……なーんか、やりきれないなあ」
誰も聞いてないとわかっていながら、呟かずにはいられない。何もかも、遠い昔の話だ。石碑は苔むして角なんてすっかり丸くなってしまったし、いつの間にやら辺りの風景だって変わってしまった。
変わらないのは自分の頭上に広がる青い空だけ。
どこかの誰かさんが夢見続けた場所だけ。
彼女は特に何を思うわけでもなく視線を空から地面に落とそうとして……不意に、鮮やかなアオが視界に飛び込んできた。
空の青とも違うアオ。たとえるならば、珊瑚を育む浅く温かな海の色。そんな色の瞳が彼女を見上げていたのだ。
「誰?」
彼女は驚きと共に問いかける。普通、彼女の姿は他の何者にも見えないはずなのに。思いながら彼女はその人間を無遠慮に眺めてみる。
海色の瞳の持ち主は、まだ若い青年だった。ぼさぼさの焦げ茶色の髪と枯れ草色の外套を強い風に靡かせ、少年のようにも見える顔を不機嫌そうに歪めていた。青年は目にかかる前髪をかきあげて、高めのテノールで言う。
「しがない旅人だよ。お前等のせいでこんな辺鄙な町に足止め食らってた、な」
「あはは、ごめんごめん」
楽しげに笑いながら彼女は石碑から飛び降りた。素足のままではあったが、彼女の足が草を踏むことはない。地面から少しだけ浮き上がったまま、彼女は青年の顔を覗きこもうとする。その青年は、嫌そうな顔をしてすぐに視線を逸らしてしまったけれど。
青年の反応に彼女はちょっとむっとしながら、両手を腰に当てて胸を張る。
「でも、もう風は止むよ。あいつも持ち場に帰ったからね、お祭り騒ぎも終わるでしょ」
すると、青年は視線を逸らしたままではあったが大げさに肩を竦めてみせる。
「死んだ後もはた迷惑な奴なんだな、かの飛空偏執狂とやらは」
「へえ、わかるんだ、あいつが来てたって」
「わかるさ」
海色の瞳が遠くを見つめる。そこで踊る、風の精を捉えているのだということは傍目で見ていてもわかる。
なるほど、精霊視なのかと彼女もやっとのことで納得した。人の中には妖精や精霊を「視る」ことが出来る瞳を持って生まれる者がいる。おそらくこの青年もその一人なのだろう。遠い昔に死んだ男の姿を捉えるくらいには強い瞳を持つ精霊視。
青年は、ゆっくりと彼女に視線を戻す。決して目を合わせようとはしないけれど、その表情からは先ほどのような険は感じられなかった。
「で、あんたは風だろ。そんなにはっきりとした自我を持ってる風も珍しいけど」
「あたしはちょっと特別だからね」
彼女は自慢げに笑ってみせる。
妖精や精霊と呼ばれる存在は、基本的には明確な人格というものを持たない。人という存在でない以上、人が思うような「人格」を必要としていないのだ。
妖精使いと契約している妖精は契約者に影響され自我を持つことも多いが、誰にも縛られていない彼女のような妖精が人間とここまで言葉を交わせるということは皆無に近い。
ただ、彼女としては自分自身が「ある」ことに誇りはあるにはあったが、自我を持っていたところで言葉を交わせる相手がいないのだから、そんなもの無意味だとも思い始めていた。
けれど――
「ね、君」
「あん?」
「あたしと契約しない? あたしをここから連れてってよ」
半分は冗談で、半分は本気。誰かに縛られるなんて、風たる彼女には堪えられるものではなかったが……このまま何も変わらない毎日よりはその方がまだマシかもしれないとも思う。どちらが幸福なのかなんて、今の彼女にわかるはずもなかった。
そんな彼女の言葉を聞いて、青年はあからさまに目を見開いた。それから、何とも形容のしがたい表情で言い放つ。
「嫌だね」
あまりにそっけない拒絶の言葉に、彼女は頬を膨らませて青年に迫る。
「な、何でよ! 失礼じゃない、あたしみたいなすっごい妖精と契約できるなんて、めったにないんだからね!」
自分で自分のことを「すっごい」と言ってしまう辺りが彼女らしいところだが、実際、妖精としての彼女の能力は他の空気の精を遙かに上回る。その力を人のために振るったことなど一度もなかったけれど。
精霊視である青年が、彼女の実力を測れないとも思えない。しかし青年は「はいはい」と気のない返事をするばかり。
「お前等と契約はしねえって決めてんだ。別に妖精使いになりたいわけじゃねえしな。でも」
青年は彼女に背を向け、ぶっきらぼうな声色で言い放つ。
「勝手についてくるなら、何も言わねえよ」
その、言葉の意味を理解するまでに、数秒。
彼女は苛立ちをすっかり忘れて、きょとんとした表情で首を傾げる。
「……いいの?」
「勝手にしろ」
それは、とても遠回しな肯定だった。
誰に命令されたわけでもなく、誰が彼女を縛ろうというわけでもない。今までも、そしてこれからも。
ただ、今までの彼女にはきっかけが足りなかった。
ほんの一欠の、きっかけが。
彼女は一瞬だけ石碑を振り返って……そこに誰もいないことを確認して、勢いよく空を蹴った。ふわり、頭の上で結ったポニーテイルが青い空に揺れる。
ゆっくりと歩み去ろうとしていた青年の肩に飛びつき、細い腕を絡めてにっと笑う。
「じゃ、勝手についていくからね!」
あんたがそう言ったんだから、恨まないでよね。
そう言った彼女に、青年は初めて笑った。はにかむような、ほんの少しだけの微笑みではあったけれど、それが彼なりの笑顔なのだと彼女は確信した。
かくして、彼女は風の丘を去り――
この時から、二人の旅が始まる。
レベンタートの妖精使い