遠雷と白昼夢

シニガミと白い花/06:シニガミと白い花

 ああ、今まで話を聞いてくれてありがとな。なかなか面白かっただろ。
 さてと、別れも済んだし、俺も帰らなきゃ。
 勝手に出て行っちゃったもんな。早く帰らないと怒られちまう。
 ……っと、あれ、何でだろう。
 立てないや。ちと気が抜けちまったのかなあ。
 なあ、シニガミさん、ちょっと手貸してくれねえ?
 ……シニガミさん?
 
 
 *  *  *
 
 
「……アンタ、泣いてるの?」
 無邪気な『ホワイトフェザー』はほんの少しだけ困惑した様子で言った。明るいけれど掠れた、今にも消えてしまいそうな声で。
「やめろよ、なあ、笑えよ。笑ってよ」
 だが、シニガミと呼ばれた深沢智哉は。
「……か」
「え?」
「笑えるかよ……!」
 全部を知っていて、なお笑えるほど、強くなければ薄情でもなくて。
 知らなければよかった。秋谷が手渡した書類を、全部読まなければよかったのだ。彼が助けた女の言葉を、聞かなければよかったのだ。そうすれば、きっと少しは「ハッピーな」気分で終わりにできたかもしれないのに。
 深沢は知っている。『ホワイトフェザー』が助けたのは、彼が探していた「サツキ」ではないことを。
 深沢は知っている。彼が求め続けた「サツキ」は既に三年前の事故で……そう、『ホワイトフェザー』が能力に目覚めた事故で、彼を庇って死んでいるということを。
 笑えるはずもない。
 『ホワイトフェザー』の言葉は全てが見当違い。彼の謝罪も、感謝も、別れも、誰にも届いていないではないか。
 これが『ホワイトフェザー』の嫌う同情だとはわかっていても、溢れる涙を止めることはできない。
 目の前の男は、自分が血の海に沈んでいることに気づいていない。今もなお、帰ろうとしている。過去に別れを告げて、未来に目を向け、自分があるべき場所に帰ろうとしている。
 哀しすぎる。
 『ホワイトフェザー』は手を伸ばす。赤く染まった手を。本当は、未来に向けられるはずだったその手を。
「泣くなよ、シニガミさん」
 確かに、死神だ。深沢は思う。ここで、『ホワイトフェザー』の死を見届ける、死神だ。最初から最後まで孤独で、存在しない幻を見つめていた男。死は孤独かもしれないが、せめて、その瞬間までこの場所にいることくらいは、できる。
 深沢は涙を拭うこともなく、ゆっくりと手を伸ばしてその手を掴んだ。黒い手袋に、ぬるりと赤い液体が付着する。
「ほら、見てみなよ」
 『ホワイトフェザー』は座り込んだまま、空を見上げた。彼の目には青く、深沢の目には白く映った、その空を。
 
 
 *  *  *
 
 
 ……桜だ。
 温かいと思ったよ。もう、春だったんだな。
 綺麗だな……そういえば、ここしばらく、外に出たことなんてなかったから。
 なあ、シニガミさん。何で泣くんだよ、笑ってってば。
 シニガミさんが笑ってくれないと、俺、ちょっと落ち込んじゃうじゃないか。
 ほら、いい景色じゃねえか。こんな日に泣いているなんて損だろう。
 そういや、花が咲くことを、「花が笑む」っていうらしいぜ。いい言葉だよな。ハッピーなこの日にはお似合いの言葉だよね。桜の花まで、俺を祝ってくれてるのかな。
 おめでとう、俺。ありがとう、俺。
 はい、ご一緒に、シニガミさん。
 ……あ。
 何だ、笑えるんじゃん、シニガミさんも。
 ははっ、ブサイクな笑顔。
 だけど、俺のために笑ってくれたんだもんな。
 ありがとう、シニガミさん。
 これで、俺も笑ってサツキの所に――
 
 
 *  *  *
 
 
 雪が降る。
 まるで、桜の花びらのような、白い雪が。
 今までじっとこちらを見下ろしていたカラスの群れも、雪の中にいる気はないのだろう、ばさばさと羽音を立て、雪のない場所目掛けて飛び立った。
 深沢智哉は手を握ったまま動かなくなった『ホワイトフェザー』を見下ろしていた。雪が、彼の流した血の上に落ちて赤く染まる。
 しばらく、深沢は無言でそこに佇んでいた。それこそ死神のように、黒い外套に身を包み、静かに。
 だが、やがてふと深沢は動く。遠くから聞こえる声、そして絶叫しながら駆け寄ってくるのは血に塗れた一人の男、その片手にはナイフ。『ホワイトフェザー』を刺した暴漢だというのは見るからに明らかだった。
 捕まえようとする相手から逃げてきたのか、自分の邪魔をした『ホワイトフェザー』を追いかけてきたのか。遠くからは、「捕まえろ」と呼びかける声が聞こえるが、その姿は見えない。まだ、追いつけないのだろう。
 深沢は傘を左手に持ったまま、『ホワイトフェザー』から手を離した。そして、普段は決して外さない黒い手袋の指先を噛んで引き抜く。口の中に、手袋に付着していた『ホワイトフェザー』の血の味がした。
 ――なあ、『ホワイトフェザー』。
 深沢は、もう、泣いていなかった。
 ――俺には、お前の気持ちはわからないけれど。
 指先を軽くこする。ぱちりと、何かが爆ぜるような音が、微かに響いた。自然に、眼鏡の奥の目が黒から琥珀へと変化する。
 ――お前の生き方は、焼き付けた。
 暴漢が、目の前に立ち塞がった深沢に向かってナイフを振り上げる。深沢はそのナイフの一撃をかわし、素早く懐に潜り込む。
「……さよなら」
 小さな呟きは、暴漢に向けたものか、それとももう動かない『ホワイトフェザー』に向けられたものか。
 深沢の大きな手の平が、軽く暴漢の胸に触れる。そう、ほんの軽く触れただけだった。
 だが、一際大きな破裂音と共に暴漢は悲鳴を上げることもなく、その場にもんどりうって倒れた。
 深沢はすぐに咥えていた手袋を嵌めなおすと、もはや暴漢には目もくれず『ホワイトフェザー』に向き直った。その肩には、既に雪が積もり始めていた。
 再び泣きそうになるが、今度は眼鏡を外して外套の袖で乱暴に目を拭う。そして、左手に持ったままだった黒い傘をさした。
「最後にハッピーになれて、よかったな」
 積もった雪を軽く叩き、肩のところに傘を立てかけてやる。どうせすぐに回収されてしまうだろうが、それまでは傘越しに、早すぎる「桜」を見つめていてほしいと思う。
「おやすみ、   さん」
 小さく、本当は知っていた『ホワイトフェザー』の名前を呟いて。
 深沢は、足早にその場を去った。
 
 雪は桜の花のように。白い羽のように。
 ゆっくりと、ゆっくりと、降り積もっていく。
 最高の幸せを享受した『異能』を優しく包み込むようにして。