……そっか。
ま、俺も有名人ってわけじゃないし、名前なんて無くても別に困らないんだけどな。忘れちゃいけないことさえ、忘れなければ。
怖いよな、忘れるのって。
何が忘れちゃいけないことなのかも忘れるってことだもんな。
このハッピーな気分も、いつか忘れちゃうものなのかな。いや、この気持ちは永遠だよな。うん、俺様自分で納得。
で、何の話だっけ?
ああそうそう、俺のハッピーな理由を辛気臭いアンタに教えてやろうと思ってたんだ。何でこんな辛気臭い話を自分でしちまったんだろう、わけわかんねえ。元々何もかもわけわかってねえからいっか。
俺の世界はいつも灰色、だけど今日だけはほら、こんなに綺麗な青い色。
空は青いし幸せの青い鳥だって飛んでるじゃねえか、あんなに低く。手を伸ばせば届きそうだな。シニガミさんなら届くんじゃない、そんなにでかい図体してるんだし。
何、喋りすぎだって?
ちょっとテンション高すぎかな。仕方ねえじゃん、ハッピーの絶頂ってこともあるし、久しぶりに人と喋るんだから大目に見てちょうだいよ。まともに俺の話を聞いてくれる人なんて、ここしばらくいなかったんだから。
皆、俺のこと頭おかしいって笑って取り合ってくれなかったんだよね。アンタは俺のことちょっと笑ったけど、話聞いてくれてるから別。嫌になったら言ってね、俺もちょっとだけなら考えるから。
頭がおかしいってのは、自分でも何となくわかってるつもりではあるんだけどな。
だって、皆に見えるものが俺には見えねえし、俺に見えるものは皆に見えなかったりするんだ。
そういやシニガミさんには、あの青い鳥は見えてる? あ、見えてる。それなら俺だけに見える幻じゃねえんだな、よかった。
昔からそうなんだ、何かちょっと、俺と皆の感覚ってずれてるらしいんだよな。だから余計に俺も考えちゃうんだよ。俺ってここにいていいのかな、とか、消えちゃった方がもしかすると楽なのかな、とか。
だけど、どうしても消えられない。
何かを動かすことも、空を飛ぶことも、一瞬で移動することも、俺なら何だってできるはずなのに、自分がこの世から消えることだけは絶対にできないんだ。
消えようと思うと、頭の中に色んなものが浮かんできて、苦しくなるんだ。
親父もお袋も、普段は俺のこと気味悪がってろくに目を合わせてくれねえのに、この時だけは俺の事をじっと見つめてる。俺を常に見下してる野郎が、頭の中ではこっちを上目遣いで見上げて何かを言ってる。俺を指差して笑ったバカな女は、頭の中で泣いてたりする。
ああ、やっぱり頭がおかしいのかな。全部俺の幻、気の迷いで、結局俺が見ているものも俺に都合のよいフィルターがかかってる全く別のものなのかな。
それでもいいや、俺の世界は俺の目からしか見えねえから。
今まではそれが嫌だったのに、今は逆にそれが何よりもハッピー。
正直、こんな日が来るとは思ってもいなかった。
嬉しすぎて、体がぽかぽかするよ。それとも気温が上がってるのかな? 汗が出てきた……シニガミさん、そんな格好で本当に暑くないの?
え?
ごめん、よく聞こえなかった。俺、あんまり耳よくねえんだ。昔ちょっとヘマしてな、半分聞こえなくなっちまったんだよな。
その代わり、目はいいぞ。シニガミさんみたいな分厚い眼鏡なんて一度もかけたことないし、そんなの邪魔じゃないか?
眼鏡がお洒落の一種だって言うんだったら、それは俺も認めるけどな。ただし、似合ってなければ即却下。シニガミさんは俺的に似合ってるからいいと思うけど。
サツキもよく似合ってるんだよ、眼鏡。眼鏡がなくても十分可愛いんだけどな。
サツキって誰だって?
えっと、何て言えばいいのかな、言うなれば幼馴染みなんだけどさ、こんな駄目な俺をいつも構ってさ、酷いこと言っちまうこともあるのにずっとついてきて、笑ってるんだ。俺もおかしいけど、アイツもいい加減おかしいと思う。
俺が消えようって思ったら真っ先に思い浮かぶのも、そいつが笑ってるところなんだ。これは、現実でも、頭の中でも、いつも嬉しそうに笑ってる。それを見て、何となく消えられないって思っちまうんだ。弱いよな、俺。
実のところ俺自身、アイツの横で笑っていられたらいいなあって思ってて、だけどずっと笑えなかった。笑えるほどハッピーな気分になれたことが、多分今まで一度もなかったんだな。
だから、今こうやって笑ってられるのはとってもハッピー。
ハッピーな気分がハッピーな笑顔を呼ぶ。いいなあ、最高の永久機関。
そして、最高の永久機関を手に入れた俺、最高の幸せ者。
幸せの青い鳥が自分の傍にいるなんて話、今までは笑い飛ばしてたけど……今なら信じられるって思うよ。
だってほら、青い鳥は今、そこでいい声で鳴いてるもんな……
* * *
深沢智哉は傘を片手に事務所を出た。
事務所を改めて見上げると、看板は外れそうだし壁はぼろぼろ、何とも怪しげな風情を漂わせている。なるほど、閑古鳥が鳴いているのも納得する。忙しければ、こう数日間も休みを取るなどという呑気な真似もできないだろう。逆に、どうやって今までこの探偵事務所が存続していられたのか、というのが一番の謎ではあるが。
深沢は探偵ではない。その名の通りの居候で、仕事らしい仕事はしていない。時折秋谷やその助手の仕事を手伝うことはあるが、それ以上の存在ではない。
深沢が秋谷の所に居候するようになったのは、『異能』の事件がきっかけだった。その事件によって家族も行く場所も失った深沢を匿ってくれたのが秋谷だったのだ。秋谷が探偵になった理由も『異能』絡みだと聞く。秋谷が『異能』と聞くと、仕事もそっちのけで興味を持つのはわかる。
わかるの、だが。
少しは自重して欲しいと深沢は溜息をつく。
『異能』というのはピンからキリまで、もちろん普通の人間と変わらないような『異能』も存在する。しかし、『異能』とわざわざ呼ばれるだけはあり、そのほとんどは普通の人間からしてみれば異常にして脅威だ。
そのような存在を追いかけて、痛い目に遭うのは深沢としても本意ではない。そして、自分を匿ってくれた、変わり者だが心優しい探偵である秋谷が痛い目に遭うようなことも、考えたくはなかった。
きっと、普段はいたって役立たずな居候の自分に与えられた役目は、そんな秋谷を同じ『異能』を知る者として、守っていくことなのだろう。
自分では全くもって力不足な気もするが、と苦笑しながら深沢は細い道を歩く。
吐く息は白く、冷たい風に溶けるようにして消えていく。この調子だと、降り始めるのもそう遅くないだろう。早めに買うものを買って帰ろう、と足を速める。
事務所のある路地を出て、大通りへと。今までの暗く静かな空間から、急に視界が開けて車が行きかう音が響き渡る。ただ、午後三時という中途半端な時間ということもあり、人通りは少ない。もう少し時間が遅ければ、下校途中の小学生の集団とすれ違うこともあったかもしれないが。
この前は、日本人離れした長身が目立つということもあり、小学生に集られてしまったな、と深沢は思い出して微かに苦笑する。その後、すぐにその母親たちが各々の子供を連れて逃げるように去っていってしまったけれど。
近頃この町も物騒だからだろうか、その時の母親たちの視線は怯えを帯び、ぴりぴりとした嫌な緊張感に満ちていた。
本当に、嫌な世の中になったものだと溜息一つ。
深沢はもはや子供ではないし、まだ子供を持っているわけでもないからよくはわからないが、子供を外で遊ばせることを渋る親もいるのだという。だからと言って家の中に篭っていてもよくないと唱えられていて、八方ふさがりもいいところだ。
せめて、自分がいる町くらいは、平和であってほしいと願う。怖いもの知らずで危険なものに惹かれてしまう物好きな所長、秋谷の目が輝かない程度には。
「 『ホワイトフェザー』……か」
歩きながら、深沢は呟いた。
深沢や秋谷のように、『異能』に直接関わらない限りその存在がはっきりと知覚されないのは、それが「一般の」人間からは隠されているからだ。そして、もちろんそれを隠している者も存在する。
そのような行動をする者たちに決まった名前はないらしく、秋谷や深沢は「組織」と呼んでいる。彼らは『異能』が人間とこの世界自体に悪い影響を及ぼさないためにそれらを監視し、また必要であればしかるべき対策を採る。深く、深くこの国に根付いた組織であるらしく、いくつかの『異能』事件が彼らによって隠蔽されてきたと深沢は記憶している。
それはそれで、不自然だとも思いながら。
誰かの手で作られた摂理や法則を守ろうと必死になり、そのために誰かの手で誰かを抑圧する。『異能』とて人間は人間ではないか、と思わなくもない。ただ、彼らが作った「現実」を享受している以上余計なことも言えないかと、落ちかかっていた分厚い眼鏡を持ち上げる。
『ホワイトフェザー』というおよそ人間らしくない名前も、おそらくはその組織とやらが勝手につけた暗号名なのだろう。一体、何を思ってそう呼んだのか、そう呼ばれる『異能』を知らない深沢はただ、想像するだけしかできない。
ホワイトフェザー。日本語で直訳すれば「白い羽」。思い浮かぶのは鳥の羽、天使の羽……しかし、確か臆病者という意味もあったはずだ。秋谷が噂を聞きつけるくらいの力を持った『異能』なのだろうが、それにしては似合わない名前だ。
念動力使いだと、言っていたか。
秋谷の話を思い返しながら、考える。小説や漫画ではよく見かける念動力……サイコキネシスだが、『異能』を何人か知っている深沢とて未だ実際にその使い手を見たことがない。たった一例を除いて、ではあるが。
能力と名前に関係があるのだろうか。それとも、性質や性格が名前に影響しているのだろうか。誰かがつけた記号でしかない名前ではあるが、何となくそんな事を考えながら、足を進める。
……その時。
深沢の目は、ありえないものを捉えていた。
車道の真ん中に、滲み出した真っ白な影。
先ほどまで何も無かった場所にあまりに唐突に現れたもの。当然驚いたのだろう車が急ブレーキを踏む、甲高い音が響き渡る。
クラクションと運転手の罵声に、影はそちらを向いたようだった。
白い、と思ったのはその影が病人の着るような白い服を身に纏っていたから。深沢ほどではないものの背の高い男で、顔は深沢からは見えない。顔を向ける方向もあるし、深沢の目が元々悪いということもある。
白い男はしばらくその場に立ち竦んでいたが、突然、ふらりと停まった車の前に一歩を踏み出した。
そして、次の瞬間。
一瞬前までそうであったように、男の姿は跡形もなく消えていた。
その間、三十秒も無かっただろう。車は依然停まったままで、きっと運転手は自分が見たものを信じられなかったのだろう。そして、深沢もただ自分の目を疑い、その場に立ち尽くすしかなかった。
冷たい風が、白い影が確かに存在したという痕跡すらもかき消すかのように、強く駆け抜けていった。
その日の午後四時頃、この近くで一人の女性が重傷を負って発見された。
深沢がそれを知ったのは夜、事務所で遅い夕食を取ろうとしている時のことだった。
遠雷と白昼夢