遠雷と白昼夢

遠雷と白昼夢/幕

 秋谷静が所長を勤める探偵事務所は、待盾駅から歩いて五分の位置に存在する古い二階建ての建物だ。相変わらず汚い建物だな、と矢代は襟元を緩めながら思う。
 今日は、よく晴れた日だった。梅雨は明けたのだろうか、何しろテレビをあまり見ないものだからよくわからないが、とにかく夏の青空が頭上一面に広がっていた。気持ちのいい色だとは思ったが、何しろ暑い。
 ちょうど今日非番だったからと散歩がてら外に出たのが間違いだった。
 矢代はこっそりと後悔する。日の光は容赦なく照り付け、髪の毛が焼けそうだ。帽子の一つでも被ってくれば良かったとこれまた一つ後悔が生まれる。
 しかし、手に提げた紙の箱を一瞥し、すぐに気を取り直すことにした。
 男一人で近くのケーキ屋に入ると考えるだけで気が滅入って、無数にあるケーキの種類なんてわかるはずもなく適当に買ってきてしまったが、店員からしたら浮き足立った何とも変な客だっただろう。ケーキなんて、矢代にとっては普段買うどころか食べる機会もないのだから当然といえば当然の反応ではあるが。
 そう、箱の中身はケーキなのだ。だから、こんなところでずっと突っ立っている時間もない。
 深沢が交番を訪れ、秋谷が連れ帰ってから数週間が経っていた。秋谷の警告どおり事務所には近づかずにいたが、どうやら裏でいろいろと動いていたらしい。
 結局、D社の研究者は『全員が死亡』。死の詳しい原因は不明のまま、迷宮入りということになった。そのまま、秋谷の言うとおり関係者を除いた「普通の人間」の記憶からは忘れられていく事件となるのだろう。
 裏で動いていたのがあの灰色スーツの連中なのか、D社の生き残りなのか、秋谷なのか、矢代は考えないことにしていた。
 秋谷たちと矢代では、生きている世界が違うのだ。同じ場所に立っていても、必ずほんの少し位相がずれているのだというのは秋谷の持論。
 確かに、見えている世界が人によって違うのは矢代も間違いないと思っているから、そういう観点から言えば秋谷の論はそう的外れでもないのだろう。
 さすがに今回の場合は、位相のずれと一くくりにしてしまうにはあまりにも違いすぎる世界を垣間見ることになったが、それを考えるのはあくまで秋谷の役目であり、矢代の役目ではない。それに、考えることを望まれてもいない。
 とにかく、秋谷はひとまず上手く乗り切ったのだろう。あの掴みどころのない化け猫がそう簡単にしくじるとは思えなかったから矢代もそれほど心配はしていなかった。
 秋谷のやり方を信じられるくらいには、長く付き合っているつもりだ。
 改めてすすけた看板を見上げる。そういえば、事務所の前は何度も横切っているが中に入るのは初めてだと気づく。
 何となく気恥ずかしくなって、咳払い一つ。誰が見ているわけでもないが、気分の問題である。
 あれから深沢がどうなったのか、矢代は知らない。元よりあの日しか言葉を交わしていない間柄であり、深沢があの後どのような答えを示したのかは、結局わからないままでいた。
 ただ、手にしたケーキが無駄にはならないという奇妙な確信だけはあった。
 何しろ、あの男ははっきりと言ったのだ。『また』と。
 その言葉を確かめるためにも、矢代はここにいる。
 
 二〇〇二年七月十一日。
 
 せっかくの誕生日なのだから、一人くらい、祝ってやる奴がいたっていいだろう。誕生日を迎えたのが、新たな門出を迎えた奴ならばなおさらだ。
 さて、一体、奴はどんな顔をするだろう?
 
 
 雲ひとつない青空の下、矢代は微かに笑みを浮かべて呼び出しのブザーを鳴らす。