遠雷と白昼夢

遠雷と白昼夢/08:遠雷と白昼夢

「手前……っ!」
 深沢は扉の向こうに立つ男を見た瞬間、血相を変えて立ち上がった。椅子が高い音を立ててひっくり返るが、この場にいる誰も気に止めなかった。
 男は醜く太り、傘も差さずに、全身を濡らしながら嫌な笑顔を浮かべて立っていた。
 だが、それ以上に矢代をどきりとさせたのは、その太った男が着ている服が、灰色のスーツであったことだろう。
 夢の続き。
 そんな言葉が、矢代の脳裏をよぎった。
「申し訳ありません、彼を、引き取りに参りました」
 慇懃な口調で言い、薄くなり始めている頭を深々と下げる。その背後には、同じく灰色の服を身に纏った屈強な男が三人立っていた。三人とも、顔は違えど同じ雰囲気を纏っていて、個性が感じられない。
 獲物を狙う猫のように背を曲げ、深沢は吼える。
「ふざけんじゃねえ! 好き勝手なことほざくな!」
 限界まで細めた目は、矢代の見間違いでなければ漆黒から琥珀色に変じていた。
 何かが弾けるような音が響き、矢代は頭の上から足の先にかけて何かが走り抜けたような錯覚に身体を震わせる。次の瞬間には蛍光灯がふっと切れ、交番は奇妙な薄暗さに包まれる。
 もう、疑いようはない。
 これが深沢の『力』なのだ。
 太った男は張り付くような笑みを浮かべ、敵意を向ける深沢を舐めるように見た。深沢の伸びきった前髪は、どういう理屈かは知らないがゆらゆらと浮かび上がり、揺れていた。
「……困った方だ。ここでやり合うおつもりで?」
 歌うような響きで、男は言う。はっとして、深沢の形を持った敵意が弱まったのがわかる。
「そう、自分が危険であることは最低限自覚してくださいね」
 耳にねとつく声。聞いているだけで、気持ちが悪くなる。どんなに突拍子もない内容でも、それを聞かせるだけの説得力を持っていた深沢の声とは正反対だ。この声では、何を言われたって信じる気にはなれない。
 男は深沢の動きが止まったのを確認し、濁った目を矢代に向けた。今まで職業柄いろいろな人間を相手にしてきた矢代は、一目見ただけで大体相手がどのような人間なのか判断できるつもりではあったが。
 この男は、あらゆる意味でやばい。
 今までの経験で培ってきた勘がそう告げていた。
「彼、変なことを言っていませんでしたか? ちょっと妄想癖がありましてね。真に受けてはダメですよ」
 お前の方が、よっぽど虚言癖か何かありそうなものだがな。
 そう言おうとして、やめた。この男が何者なのかは知らないが、矢代のようなごく一般的な警察官一人、簡単に握りつぶすくらいの力を持った相手だということを察することができる。
 別にそんなことを恐れているわけではないが、それ以上にもし矢代に被害が及べば、深沢が黙ってはいないだろう。『力』と呼ぶそれが一体どんなものなのか、まだ矢代にはっきりと見えてはいなかったが、確かにそれが存在し、途方もない力であるのは感じられた。その『力』を振るわせるような事態にはしたくない。
 開いたままの扉から聞こえる、ざあざあという雨の音が、やけに遠い。時折差し込む雷光が、薄暗い交番に不吉な影を落としている。
「引き取る、というのはどういうことです?」
 意識しなくとも、言葉に棘が混ざる。それに気づいたのだろう、太った男は軽く笑顔を歪めて矢代に迫る。それがまた、いやに醜い。
「言葉通りですよ。実は彼、我々が運営する施設から逃げ出してしまいましてね」
 声を潜め何やら言葉を連ねてはいるが、それは矢代の耳を右から左へと通り過ぎるだけ。おそらく深沢を精神異常者か何かだと思わせてしまいたいのだろうが、そのために言葉を選ぶ姿はやたらと滑稽だ。
 男の言葉が一通り終わったところで、矢代は仕事柄よく使っている作り笑いを浮かべて言う。
「それはご苦労様です。いや、私も突然彼が来たときには驚きましたが……なかなか、面白い話を聞かせていただきましたよ」
「ほう?」
「昨日起こったD社の大量変死事件の犯人だと言うので、詳しい話を聞かせていただきましたが」
 矢代がそう言った瞬間、男の目つきが変わった。粘着質な視線はそのままに、明らかな殺気が込められる。身体を走る寒気で総毛立つが、ここで目を逸らすわけにはいかない。
「笑えるような法螺話だったでしょう? 彼、いつもそうなのですよ」
「そうですね……正直、信じがたい話ではありました」
 深沢も、さすがに敵意を剥き出しにしないまでも、身構えるのがわかる。ここから先の、矢代の言葉次第で事態が大きく動く。
 正直に言うならば、矢代はここから先どうすべきなのか考えつかなかった。
 深沢の『物語』が妄想だとは思えなくなった今、この男に素直に深沢を引き渡すことはできない。だが、このまま深沢を渡さないと宣言しても、自分に何ができるというのだろう。この場を上手く脱する方法すらも思いつかない、無策な自分が恨めしい。
 表面上は笑顔を浮かべながら、心の中では焦りが募る。
 そういう時にだけ神頼みするのは、日本人の特徴だな。
 これも、古い友人が言っていたことだ。何故か今になってそいつの言葉ばかりを思い出す。確かに、これは神頼みもしたくなるような状況ではある。
 ――神頼みとは言わないが、もし、俺が奴ならこの場をどう捌く?
 夢も現実も、一つの輪。
 深沢の『物語』はまだ終わってはいないのだ。矢代をも巻き込んで、確かにこの瞬間も続いている。それは、今までそんなことを意識したことのない矢代より、間違いなくあの変人の得意とする論題ではないか。
 ――なあ、お前ならどう答える?
 半ば現実逃避にも近く、矢代は太った男からも深沢からも視線を逸らし、ドアの向こうの土砂降りの雨に向け……凍りついた。
 
 視線の先には、極彩色の猫。
 
「何を、聞いたのです?」
 男の言葉は、今度こそ耳にも入らなかった。ただ、あまりに都合のよい光景に、目を丸くするだけで。男は矢代の異変に気づいたらしく、視線を追って……息を飲んだ。
「っ……追いつかれましたか」
 その場にいる全員の視線が、ドアの外に向けられる。
 そこには、夕焼け色の傘を差して、一人の女が優雅に佇んでいた。蛍光オレンジのウインドブレイカーに、黄色の線で不細工なキャラクターが描かれた明るい紫のTシャツ。ジーンズはよれよれな上にあちこちが擦り切れ、裸足に便所で履くような木のサンダルを突っかけている。
 緊迫したこの空間には一番不似合いな女が、からんころんと足音を立てて近づいてきた。傘から覗く口元は、矢代がよく知る笑み。
「アキヤ」
 思わず、声が出てしまった。
 秋谷静。
 待盾駅近くに私立探偵兼よろず屋という怪しげな看板を掲げる変わり者。だが、その変わった趣向は今に始まったことではない。
 中学の途中から、高校、そして大学までを共に過ごした矢代は、それを一番よく知っていた。
 常ににやにやとした怪しげな笑顔で、普通に考えれば意味の通らない……しかし何故か納得させられてしまう……言葉を並べ立てて煙に巻き、その足取りは自由にして誰にも掴めない。
 そんな彼女を神出鬼没の化け猫、チェシャー・キャットに例えたのは、何も矢代だけではなかったはずだ。
「見いつけた」
 秋谷の歪んだ口から漏れたのは、それこそ猫を思わせる声。とは言っても、肥満男の猫なで声とは程遠い、自由気ままな、人に媚びない猫そのものを体現しているような声音。
 深沢は琥珀色の目を細めたまま呆然と闖入者を見つめていたが、やがて我に返って言った。
「……アキヤ、さん?」
 まさか、知っているのか?
 矢代が思っている間もなく、秋谷は先客を気にする風でもなく無造作に傘を畳んで傘立てに突き刺した。
「いやあ、雨だねえ。雨。やんなっちゃうよ、本当」
 文脈を綺麗さっぱり無視した、マイペースな独り言。一触即発と思われていた空気が、一気に和らぐ。気が抜けてしまったとも言う。
「あ、ごめんねトモヤくん。せっかく傘二つ持ってきたんだけど、一本どこかに置いてきちゃってね」
 微笑を絶やさぬ秋谷は、深沢に向かって言った。深沢は戸惑いを隠せず「いや、その」と口ごもるばかり。灰色の連中も顔を見合わせながら、秋谷の一挙一動から目が離せずにいた。
 周囲をかき回し、自分のペースに引き込むのは秋谷の十八番だ。
「お前は一体何しに来たんだ、アキヤ」
 矢代も今までの緊張感を一瞬忘れて素で話しかけてしまった。秋谷はそこでやっと矢代の存在に気づいたかのように眼鏡の下の目を瞬かせ、笑みを深くする。
「何だ、今日はヤシロが当番だったんだ。トモヤくん、運いいね。こいつ、私の友達だからさ」
「腐れ縁と言ってくれ、この化け猫」
「化け猫なんて酷いなあ。私は生まれも育ちも東京の下町っ子でござい」
 前後関係完全無視の、ともすれば電波系とも思われかねない台詞回し。しかも、秋谷は矢代の記憶さえ正しければ出身は福島だったはずである。何だかんだで、この場一番の虚言癖はこの女かもしれない。これも今に始まったことではないが。
「まあ、とにかく」
 自分から引っかき回しておいて、秋谷は狭い交番の中を見渡した。緊張感のかけらもない言動をしておきながら、秋谷には独特な威圧感がある。灰色の男たちも、何も言えずにただ秋谷の言葉を待つことしかできない。
「トモヤくんは一応うちの居候ってことだから、連れて帰っていいかな」
 そうなのか?
 思って深沢を見れば、深沢も複雑な表情で秋谷を見ていた。どうやら同意の上というわけではないらしい。
「待て、アキヤ。彼はD社怪死事件の関係者じゃ」
「本当にそれを証明できるかい、ヤシロ」
「……っ」
 そう。自分は最後まで信じてしまっているが、深沢の『物語』は普通に考えればただの夢物語に過ぎない。まともな神経を持っている人間ならば、まず信じることはないだろう。
「それに、上はあの事件を丸ごと潰そうとしてるんだよね。超能力者の犯罪どころか、超能力者の存在だって認めたくないんだからね。そうでしょ? 政府の暗部さん方」
 あっさりと、秋谷は言い切った。今度こそ、灰色の男たちの間の緊張が最高潮に達する。だが、それ以上に矢代は混乱していた。
 事件を潰す? 政府の暗部?
 何処まで『物語』は発展していこうとしているのだろう。それこそ、矢代の考えの及ばないところまで、世界は広がってしまっている。
 深沢は目が覚めたと言っていたけれど、夢は全く終わる様子を見せてはいないのだ。
「だから、D社を潰して、トモヤくんを処分しようって話なんだと思うよ。悪趣味なやり方は、このオッサンがたの趣味だろうけどね」
 秋谷の言葉は傍から見る限りでは意味深だったが、すぐに矢代も秋谷が何を言わんとしているのか理解する。
 この女も、全てを知っているのだ。
「お前、全部聞いたのか」
「うん、昨日偶然家の前ふらふらしてたトモヤくんを捕まえて、全部聞いたのさ。そうじゃなかったらこんなお上相手にした厄介ごとには首突っ込まないよ」
 ひらひらと手を振って、秋谷。矢代は呆れを越えて、とてつもない疲労感を覚えていた。
「好きでやっているようにしか見えないがな」
「それを言っちゃいやだねえ」
 秋谷は年甲斐もなくくねくねと身体をくねらせる。そこに嫌味もなければ色気もない辺りが秋谷の秋谷たる所以なのだろう。
「やはり、あなたに関わるなという上の命令には理解しかねますな」
 今まで無視され続けていた、肥満男のねとついた声が響く。はっとして見れば、男の手には一丁の銃。いや、男の背後に控えていた灰色の三人も、各々銃を構えていた。その銃口は、深沢と秋谷、そして矢代に向けられていた。
 背中に走るのは、寒気を通り越して痛覚に近い。
 今度こそ、全てが凍りつくような錯覚に襲われる。
 全ては、夢なのか、現実なのか。
「そんな単純に考えないほうがいいんじゃないかなあ」
 秋谷は、両手を上げながら誰にともなく言う。
「世の中ゼロかイチかで出来てるわけじゃないんだしさ。もうちょっとファジーに行かない?」
 それは、現実にとっての「異物」である深沢を処分しようとしている灰色の男たちに向けられた言葉なのか。それとも、夢と現実が曖昧になっていることに不安を覚える矢代に対する言葉なのか、どうにも判断しかねた。
「ふん、戯言を。どちらにしろ、余計なことを知りすぎたな、泥棒猫が」
 おそらく、この場で自分たちが殺されたとしても、「お上」が上手く処分してしまうのだろう。漠然と、今死んだとしても、自分はきっと何故殺されたのかわからないままだろうなと考える。
 死ぬ覚悟などできているはずもない。
 だが、死ぬという実感がまるで欠けていた。
 その欠けたものを埋め合わせるように、秋谷は薄く微笑んで言葉を紡ぐ。
「でも、君は撃てないよ」
「何を……っ」
 肥満男は、視線を移動させて息を飲んだ。
 今まで言葉を放たなかった深沢が、微かに唇を歪めていた。その周囲に纏うのは、青白い光に似た何か。薄暗い部屋の中で、青白く浮かび上がる深沢の姿が、やけに神秘的だった。
 そして矢代は、ここに来て初めて深沢の『力』が何であったのかを理解した。机の上にあった紙が浮かび上がる、その様子を見て学校でやった実験を思い出す。
 『電気』だ。
 蛍光灯が切れたのも、弾けるような音も、全ては深沢が操る『電気』によるもの。湿った空気が帯電し、羽音のような嫌な音を立てる。D社研究員の死因が『感電死』であったこともこれならば頷ける。
「君の指が引き金を引くのが早いか、トモヤくんの『力』が早いか、勝負する気はある?」
 楽しげに、秋谷は笑う。
 超常能力に理論というものがあるのかどうかは怪しいが、引き金を引くという動作が、思っただけで人を殺せる能力に速さで敵うとは思わない。銃を構えたまま、灰色の男たちはじりと一歩下がる。
「フカザワくん、あなたは、『力』を使うことを望むのですか、この場所で……」
 微かな期待を込めて、太った男が低い声を絞り出す。しかし、深沢は琥珀の……ただし暗さだけはそのままの瞳を細め、きっぱりと言い切った。
「もし、二人を殺そうというのなら、辞さない」
 何度裏切られようとも、何度絶望をその瞳に焼き付けようとも、深沢は折れてはいなかった。どこまでも愚直に、自らが憎む『力』を使ってでも矢代と秋谷を守ろうという決意が滲む。
 それは、今度こそ信じさせて欲しい、というひたむきな願いだったのかもしれない。
 行き場のない怒りや悲しみとは違う思いが、静かに輝く青白い光の中に現れていた。その剣幕に気圧されたのか、男は言葉に詰まる。
「さあ、どうする?」
 秋谷の声はあくまでこの状況を楽しんでいるように思えて、矢代は灰色の男たち以上にぞっとした。この女の思考は、誰にも読めない。
 苦渋を醜い顔に滲ませて、肥満男が唸った。
「……女史、あなたはどうするつもりです?」
「いや、私はトモヤくんさえ預かれればそれで構わないんだけどね。だからさ、こうしない?」
 マニキュアも塗っていない人差し指を立てて、秋谷は言う。
「トモヤくんとそこのお巡りのことは見逃してくれないかな。その代わり、私もこれ以上は首を突っ込まない」
「それは……」
「飲めないっていうんなら、トモヤくんが好きにやってくれるでしょ。あんたらのこと、いい加減気に食わないみたいだし」
 汗が、男の額から染み出る。あくまで秋谷の口調は軽かったが、この瞬間に仕事と自分の命が天秤にかかったのだ。まともな人間ならば後者を取るだろうが、ただでさえ、前提がまともではない。
 迷いは、震えた声に現れていた。
「わかっているのですか、女史。その男は、狂気が生んだ化物です。狂気は狂気を呼ぶ。望まぬ混乱を引き寄せる存在ですよ」
「でも、トモヤくんは狂ってなんかいないよ」
 秋谷は断言した。
「それは話を聞いた私も、ヤシロも断言できることなんじゃないかな。お上に洗脳されたあんたらよりよっぽど真面目に人間やってるよ。ま、これは所詮主観だけど、さ」
 その言葉には深沢も驚いたらしく、一瞬『力』を弱め呆然と秋谷を見ることしかできなかった。
 だが、確かに深沢は狂ってなどいない。一度は全てを手放しながらも、今また人間であろうとしたこの男が、狂っているはずなどない。
「あなたはいつもそう言って我々を煙に巻く」
 憎々しげに吐き捨てる、灰色の男。
「しかし、世界がゆっくりと歪んでいることは否定できないでしょう。一部の人間は己から一線を越えようとしています。もちろんそれは一部に過ぎず、ほとんどの人間は気づいていない。我々は、その現実の一線を守る最後の砦で」
「ははっ、面白いこと言うねえ」
 秋谷は、あっさり男の言葉を笑い飛ばした。いや、秋谷でなくとも笑い飛ばすだろう。男の言葉は、めちゃくちゃな基盤の上に成り立っている、理屈も何もない空っぽな言葉。くだらない修飾符に満たされた、意味のない言葉の羅列でしかない。
「でも、そう言ってるあんたらもすでに現実離れしすぎてるんだ。とっくに、一線を越えてるって気づいてる?」
 そう、この灰色の男たちの存在が、すでに矢代にとっては非日常。普通に認識できる現実ではないのだ。
 同じ非日常ならば、深沢の『物語』の方がよほど共感に値する。
「それに、元より世界なんて歪んでるよ。少し視点を変えれば、見えるものは全部変わってくる。現実も夢も、境は元より曖昧でしょ。そんな掴みどころのないものを論じるなんて馬鹿げてると思うけど?」
 秋谷は首を傾げて灰色の男たちに同意を求めるような目をしたが、男たちは応じようとはしなかった。秋谷の言葉を認めることは自らの行動理念を否定することになる。元より、秋谷の言葉など戯言程度にしか聞いていないだろう。
 秋谷が男たちの言葉を戯言としか思っていないように。
「意見の相違ですか」
「いや、あんたらが馬鹿なだけ」
「……っ、手厳しいことで」
 肥満男の張り付いた笑みが、微かに引きつった。対して、秋谷の笑みを崩すことは、誰にもできなかった。
「まあ、水掛け論はよそうか。さて、どうする?」
 綺麗な三日月形に開いた口から放たれる、再びの勧告。
 秋谷には、深沢のような『力』などあるはずもない。それは矢代が一番よく知っていることだった。それこそ雲を掴むような言動だけが武器であること以外、矢代と少しも変わらない現実の住人でしかない。
 だというのに、何故ここまで相手を圧倒できるのだろう。
 沈黙。薄暗い空間に流れるのは張り詰めたような緊張感。バケツをひっくり返したような雨の音だけが耳をつき、矢代は息を飲む。
 どのくらい、全員が言葉を失っていただろう。
 雷が近くに落ち、光が陰影を浮かび上がらせたのを契機に、太った男が、ゆっくりと口を開く。
「わかりました。今回は退きましょう」
 声が放たれた瞬間、止まっていた時間が動き出す。今までの息苦しさが嘘のようだ。
「ただし、約束は守っていただきますよ。ここであったこと、この男の存在、我々の存在、全てはなかったことに」
「もちろん。私も痛い目に遭うのは嫌だし、探偵ってのは信頼が大切だものね」
 秋谷は重々しい男の言葉とは裏腹に軽い口調で承諾した。信頼、という点で甚だ疑問が残る女だが、それ以前に一体どこが探偵なのか、と問いたくなるものだ。流石にそんな茶々を入れるようなタイミングではなかったため自重するが。
 行くぞ、という太った男の声に従い、灰色の男たちは銃をしまい一人ずつ交番を後にする。最後まで残っていた太った男は、深沢を一瞥して呻くように言った。
「これ以上生き延びたとしても、待っているのは現実からの拒絶ですよ、フカザワくん」
「帰れ。二度と来るな」
 深沢は男の空虚な言葉を突っぱねた。男は舌打ちを響かせ、そのまま雨の中に消えていった。乱暴に扉が閉まり、雨の音が遠ざかる。
 残った秋谷と深沢、そして矢代は言葉なく閉ざされた扉を見つめていた。その表情は三者三様ではあったが。
 まだ、夢を見ているようだ。矢代は頭を軽く振って笑顔を崩さぬ秋谷を見る。こんな状態にあってもなお、秋谷は矢代が記憶している秋谷のままでいた。
「……アキヤ、これは一体どういうことだ? 説明してくれ」
 酷い疲労を覚えながらも、何とかその言葉だけは搾り出した。
 このまま何も言わずにいれば、それこそ何もわからないまま終わってしまうだろう。自分の理解を超えた世界を垣間見てしまった今、聞かずにはいられなかった。最低でも、秋谷ならば自分が望む回答を示してくれると信じて。
 すると、秋谷は細めた目をほんの少しだけ歪めて言った。
「説明した方がいい?」
 それは、一つの勧告であった。
 聞けば、このひと時の夢に過ぎない出来事が、矢代の現実に流れ込むだろうという。
 これは秋谷自身の口癖を借りた現実味の薄い表現ではあったが、今はその現実味のない言葉を誰よりもよく理解できる自信がある。
 そして、秋谷が説明することを望んでいないことも、わかった。
 だから、躊躇いはあったけれど。
 矢代は首を横に振る。
「いや、やっぱり止めておく。これ以上の厄介ごとは勘弁して欲しいしな」
「大丈夫、聞かないでおいてくれれば、ヤシロがちょっと後味悪いだけで終わるから心配しなくていいよ」
 正直、聞かないことを後悔しないわけでもない。自分だけが蚊帳の外なのは気に食わないが、これは秋谷なりの不器用な気遣いなのだろう。
 何もかもをゼロとイチで処理できるはずはないけれど、そう思っていた方が楽なことは多い。夢は夢、現実は現実として考えていれば、この世の中は遥かに楽に生きられる。
 かつてそう言ったのも、間違いなく秋谷だったのだから。
「でも、その前に」
 秋谷は、矢代から深沢の方に目を映す。深沢は複雑な表情で秋谷と矢代を交互に見た。元の漆黒に戻った目は、不安の色を湛えていた。
 確かに、まだ夢は終わっていないのだ。矢代の夢はここ、秋谷に全てを任せた地点で終わるだろうが、深沢の夢はここから先、ずっと終わることはないだろう。
 『力』を得て、深淵を垣間見、罪を重ね、最早戻れないところまで来てしまったこの男が、これからどのような道に進むのかは誰にもわからなかった。
「君はどうしたい? トモヤくん」
 残酷な問いだ。
 深沢とて、自分がどこに立たされているのか自身でもよく理解できていないはずだ。ただ、もう今まで生きていたとおりには生きることができないということがわかっているだけで。
 多分。
 深沢がここにやってきたのは、その判断を誰かに委ねたかったのだろう。自らの罪を何者かに裁いてもらいたかったのだ。それが偶然そこにいた矢代に向けられただけという話であり、委ねられた矢代は何ら答えを示してやることはできなかった。
「君の手で終わらせるのは勝手だよ。私も止めない。まあ私らには何も言う権利はないからね」
 しかし、秋谷は裁きを求めることすらも許さない。笑顔で、拒絶する。
 元より誰かが裁けるはずもない。深沢の『物語』は、深沢以外の誰も、同調は可能だとしても決して全てを理解することはできない。
「俺は……」
 深沢は迷っていた。
 一度は死を覚悟し笑っていただろうこの男は、ここに来てもう一度決断を突きつけられた。しかも、それは夢の只中、絶望の淵ではなく、現実をあと一歩のところで見つめながら、決して踏み込めないという場所で。
「難しく考えるのは止そうね」
 深沢の混乱を受け止め、秋谷は穏やかに微笑み続ける。いつもならば化け猫としかいえない微笑も、今回ばかりは慈母か何かのように、見えなくもなかった。
「君が罪人なのは確かだよ。でも、きっと君が罪人であることすら誰も理解してない。最後には、皆忘れ去るだろうね。君の罪も、君自身のことも」
 忘れられない者も中にはいるだろう。この事件で殺された人間と深いつながりがあった人間ならば、一生この事件を忘れることはないのだろう。
 だが、現実的に考えれば、それ以外のほとんどの人間は、半年あれば全てを忘れてしまう。秋谷が論じているのは、そういう『ほとんどの人間』が構築している世界の話だ。
 非情だが、人間というのは自分が生きることだけに必死なのかもしれない。それこそ秋谷でもあるまいし、と思いつつもそんなことを考えた。
「だから、君は思ったとおりにすればいい。時間は元には戻らないし、殺した人は生き返らないし、君が『力』を持ってるっていう事実も覆せない」
 覆い隠すことのない言葉は、それだけで深沢の胸をえぐっていただろうが、それが秋谷のやり方だ。言いたいことを、言いたいだけ言う。それが戯言であっても、真実であっても……いや、秋谷にとってはそれすらも境が曖昧なのかもしれない。
「君が今までどおりに生きるのは不可能だってことは言っておくけどさ、もしもできる限り今までどおりに近く生きたいっていうんだったら、私は喜んで協力したいところだね」
 試すように、秋谷は眼鏡の下の瞳を深沢に向ける。深沢はまだ、答えを探しあぐねているようだった。何を選んだとしても、全てが最良の選択ということにはならないだろう。
 それならば。
「すぐに答えを出す必要はないんじゃないのか」
 思わず、口に出していた。秋谷と深沢の視線が一気にこちらに向けられ、矢代は居心地悪そうに肩をすくめた。
「いや、俺が口出しすることじゃないけどさ、難しく考えるなって言っても、簡単な問題じゃないと思う。重要なことなんだ、ゆっくり考えさせてもいいんじゃないのか」
 甘いだろうか、とも考えたが、それでも構わないと思った。何しろ、深沢は長い間走り続けすぎた。今くらい立ち止まっていてもよいだろう。答えなど、その後でも、いつでも構わないのではないか。
 秋谷は、もしかすると矢代のその言葉を待っていたのかもしれない。笑みをこの上なく深めて深沢に向ける。
「まあ、そりゃあそうだね。ってなわけで、答えが出るまでは待っててあげるからさ、それまではうちに居候してればいい」
「だが、俺は」
 「だが」という言葉の中には、秋谷に対する遠慮以上に、自分が、自分の『力』が秋谷や秋谷の生きる現実を脅かすのではないかという恐怖が含まれていた。秋谷も鋭くそれを察して言葉を続ける。
「厄介ごとには慣れてるの、見ててわかったでしょ。大丈夫、お姉さんに任せなさい。それに」
 戯言を語る秋谷ではあるが、その中に致命的な嘘はない。
「君は、大丈夫だよ。ここが強いから」
 秋谷は細い指を伸ばして、深沢の胸にそっと触れた。
「私も超能力の仕組みってやつはよくわからないけど、あの灰色の馬鹿を前に『力』を使わなかったのは上出来。君が思っている以上に、『力』は君に従順だよ」
 秋谷の言う通りなのだろう。いつでも、深沢は怒りに任せてあの灰色の男たちを殺せたはずなのだ。研究所から脱出するときのように、いとも簡単に人を殺せるだけの力を持っていながら、振るうことはなかった。
「最終的に君が何を選ぶのか、私にもわからないけど、何を選んだって大して変わらないさね。選んだ道を最終的によかったって思えるように自分を持っていくのが一番大切」
 綺麗事かもしれないが、矢代もそれはそうだと思った。難しいことではあるが、きっと全てはそういう風にできているのだ。いくつもの選択を経て、最後に何を思うのかは、誰も知らない。
「選ぶのは君だよ。選んだ後の手助けくらいはしてあげるけどね」
 深沢は、静かに秋谷の言葉を聞いていたが、やがて苦笑を浮かべて言った。
「……何故、わざわざ俺のことをそんなに構うのです?」
 まず、疑問に思うだろう。何か秋谷にも思うところがあるのかと疑いたくもなる。いくつもの思惑に翻弄された深沢ならば当然だろう。
「決まってるじゃないか。君を見たからだよ。見ちゃったら放っておけないのさ。君だってダンボールに入った猫とか見つけたら拾っちゃうタイプじゃない?」
 しかし、深沢の考えに反して、当たり前のように、秋谷は言い切った。
「私は生まれながらのお人よしなのさ。以上」
 あまりにあっけない言葉に、深沢は呆気に取られて……そして、笑った。今度こそ、心から。何故笑っているかもわからない空虚な笑いを経て、やっとここに来て本来の笑顔を取り戻した。
 秋谷の否応なくチェシャー・キャットを思わせる笑みとは違い、少しだけはにかむような、それでいて穏やかな微笑みが、何ともこの男らしいと思う。
「面白い人ですね」
「よく言われる」
 秋谷もにやにやと笑いながら軽く返した。空気が、和らぐのがわかった。それは何より深沢が何の衒いもなく笑みを見せたからだろう。ふと、矢代も自分が微笑んでいることに気づかされた。
 深沢は、微笑みを浮かべたまま、言った。
「アキヤさん、少し、答えは保留させてください」
 まだ微かな躊躇いこそ残っていたが、はっきりと。そこには、ある種の決意が込められているように見えた。ただ、その先にある答えはまだ矢代にはわからない。
「了解。まあ期待せずに待ってるよ」
 秋谷はあっさりと承諾し、「それじゃあ長居も悪いし、そろそろ行きますか」と言って矢代に意味ありげな表情を見せる。
「お邪魔しました。ま、せいぜいお仕事頑張ってね」
「ああ、お前が来ると余計な気を使うからもう来ないでくれ」
「うわあ、お友達に向かって酷いなあ。私だって頑張ってるつもりなんだよ?」
 頬を膨らまし、唇を突き出す秋谷。子供かお前は、と言ってやりたくもなるが、おどけた表情の中にすぐに埋没してしまう。どうしてこの女とここまで長い付き合いになってしまったのかは覚えがないものの、一緒にいると余計に疲れるのだけは確かだった。
 いい加減、『友人』というのは怪しいかもしれない。
「あ、壊れた蛍光灯代くらいはそっち持ちでいいかな。後で飯くらいはおごるからさ」
「はいはい、いいからとっとと行った行った」
 しっしっ、と手を振って秋谷を追い払うしぐさをする。秋谷は「酷いなあ、もう」とぶつぶつ言いながらも深沢に目配せする。深沢は、矢代に向かって深々と頭を下げた。
「……その、いろいろと、ありがとうございました」
「俺は何もしていないさ」
 事実、あの灰色の男が来たときも、何もできなかった。都合よく秋谷が追いついてこなかったら、どうなっていたのかなど考えたくもない。
 それでも、深沢は笑って、言った。
「話を最後まで聞いていただけただけで、十分です。それに、コーヒー、美味かったです」
 たかがどこにでもあるインスタントコーヒーで、そこまで感謝されると逆に気恥ずかしい。それを隠すために、少々冗談交じりに秋谷を指して言う。
「今度はそこの女に頼んでもっと高いコーヒーでも飲ませてもらえ」
「はい、そうします」
 冗談のつもりだったが、深沢は真面目に頷いてしまった。秋谷が横でちょっぴり嫌な顔をしていたが、気にしないことにした。いい気味だ。
「それじゃあ、またな」
 何も考えずに矢代は手を振って言った。
 深沢も、軽く手を振り返して、
「ええ、また」
 と返した。
 笑顔で。
 
 
 一本しかない傘に大人二人は窮屈そうだなと思いつつ、矢代はドアの前で二人を見送った。オレンジ色の傘の下で、黒い影と極彩色の女は何か言葉を交わしていたが、雨のせいもあって矢代まで言葉が届くことはなかった。
 二人が見えなくなるまで見送って、矢代は交番の中に戻る。
 交番は依然薄暗かったが、埃っぽい乱雑な部屋の中を見て、自分はやっと戻ってきたのだと実感できた。いつもと同じ空間のはずなのに、異様に静かに感じられたのは今までの出来事があまりにも理解を超えたものだったからだろう。
 まだ、深沢の『物語』は頭の中で反芻され続けている。多分、これからも忘れることはできないだろう。
 溜息交じりに扉を閉めて……ふと、考える。
 深沢は答えを保留したと言っていたけれど、もしかすると、既に答えは出ていたのではないだろうか。
 段々と遠ざかっていく雷の音を聞きながら、もう一度外を見る。矢代にとって夢物語の住人である二人の姿はとっくに見えなくなっていたが。
 机の上に置かれた、空のコーヒーカップだけが夢と現実を繋いでいた。