「今度は、怒らないんですね」
強くなる雨を薮睨みに見つめながら、深沢は表情も浮かべずに言った。
「怒る?」
「さっきは『冗談はよせ』って言ったじゃないですか」
「ああ」
そうだったか、と矢代はともすれば固まってしまいそうな思考を無理やり動かす。先ほどは確かにふざけたことを言う男だと怒りに似たものを覚えたが、今となっては冗談と思うこともできない。とてつもなく現実離れした、妄想以外の何でもないだろう話だったというのに。
「信じていますか?」
確認するように、深沢は窓の外から矢代に目を戻すが、そう言われてもどう返せばいいかわからなかった。深沢の目はあくまで暗く、しかし誠実な色を湛えているように見えて矢代の判断を惑わせる。
「信じて欲しいのか?」
結局、自分の混乱を誤魔化してそう問い返すことしか、できなかった。
まさかそう返されるとは思わなかったであろう深沢は言葉に詰まり、視線を空中にさまよわせる。やはり視線をさまよわせた先に何があるわけでもなかったが。
「そうですね、素直に信じられても不安になります」
「不安に?」
「きっと、俺はどこかでこれは夢だと言ってもらいたいのだと思います。一から十まで俺の荒唐無稽な妄想で、お前は狂っていて、そんな事実はないと言ってくれる人がいればいいなんて、わがままなことを考えていますよ」
寒気を覚えたのか、両腕で自分自身の身体を抱くようにして深沢は呟く。
「でも、俺はどうしても、これが現実だということが疑えません。俺は、この手で人を殺してしまった。その事実だけは覆せない。だから、これ以上誰かを殺す前に、どうか」
最後に吐き出された言葉は、懺悔に近かった。
だが、矢代は神父ではない。救いの言葉どころか、ちょっと気が利いた言葉すらも授けてやることができない不器用な男だ。
「本当に、殺したのはお前なのか?」
何よりも、まずピンと来ないのは、話や深沢自身というよりも、この男がD社研究所の連中を殺したという『事実』だった。
「間違いありません。でも、それを上手く説明できる自信はありません」
「わかるだけでいい。どちらにしろ聞かなければこちらも何も言えないしな」
そうですよね、と頷き、項垂れる深沢。矢代は何も言わず立ち上がるとポットの中の湯を確かめた。あと二人分くらいのコーヒーは作れそうだった。重苦しい沈黙から逃れようとするかのように、ぬるいコーヒーを飲み干して三杯目を注ぐ。
「……あの、俺もいいですか」
深沢も、いつの間に飲み終わっていたのか、おずおずと空のカップを差し出した。矢代は「ああ」と答えて熱いコーヒーを注いでやる。嗅ぎなれたほろ苦い香りが再び小さな部屋の中を満たし、ほんの少しだけ気が楽になった。
雨がアスファルトを叩く鈍い音がそれ以外の音をかき消しているのだろう、やけに静かだった。時折行きかう電車の音が横を通り過ぎるだけで。
「美味いか」
無意識に、そう問うていた。扉の外、時間と雨のせいで人通りの少ない道を何とはなしに見つめながら。
「はい」
一息の間の後、落ち着いた声が返す。数秒置いてから、深沢はぽつりと言った。
「続き、話してもいいですか?」
「構わない。聞かせてくれ」
黒い液体に息を吹きかけて冷まし、一口含んでその味を確かめてから、改めて深沢は口を開く。
「俺の記憶が途絶えた日から、どの位経ったのかは理解していません。今も、まだ。今俺がここにいるのも、あなたと喋っているのも、もしかしたら長い夢の延長線上なんじゃないかと不安になります」
熱いコーヒーカップを持ち、周囲の気温もそこまで低くはないはずだが、深沢の顔色は青く、凍えているかのようだった。
それも当然かとは思う。最低でも深沢が「経験した」出来事は、常人ならばすでに発狂していてもおかしくないものだ。
「でも、ある時。どの瞬間なのかはわかりませんが、悪夢の中で俺を呼ぶ声が聞こえました。名前ではなく、実験体としてつけられた番号ではありましたが……ついに、迎えが来たのだと思いました。俺は死にたかった。耐え難い苦痛と、人ではないモノになる恐怖に怯えるのは、もう嫌でした。だから、その声にすがろうと、手を伸ばして」
深沢はその時を再現するかのように右手で虚空を掴む。痩せた指先が空を切る。
「けれども、その声は俺を死なせてはくれませんでした。目を開けると、まず目に入ったのは真っ白な天井と真っ白な壁。二度と見たくないと思っていた、研究所の部屋だとわかりました。ただ、一つだけいつもと違ったのは、俺がはっきりとそれを理解できたことでした」
当たり前のような口ぶりで言うものだから、矢代は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
この男はどのくらい夢と現実の狭間を行き来していたのだろう。どちらも悪夢と苦痛に支配されていることは変わりなかったであろう。もしかすると、その間の記憶が曖昧なのは無意識の自衛手段だったのかもしれない。心まで完全に、人とは違うものに染めないための。
それが深沢にとっては、ただ苦痛を引き伸ばすだけだったとしても。
「ベッドの上で、身体を硬いベルトか何かで固定されて、俺は腕を動かすこともできませんでした。何故そんな状態だったのかはわかりません。その間に何があったかなんて、思い出せないし思い出したくもない」
辛いのなら、語らなければいい。思い出さなければいいというのに。
矢代は自分で話を促しておきながら、後悔していた。深沢のカップを持つ手は震え、今にも取り落としてしまいそうだった。それでも、一言一言、言葉を放つ。
「次に気づいたのは、俺の横に見覚えのない女が立っていたこと。俺を呼んだのは、この女でした。白衣を着ているから『実行部』の研究者だとわかりましたが、『実行部』の顔は全部覚えていたつもりですから、俺が実験体にされた後に『実行部』に加わった研究者だろうと、意味のないことを考えました」
今までとは違い、現実から離れ、夢を回想しているような語調。先ほども言っていたとおり、喋っている深沢自身よくわかっていないのだろう。これが、夢なのか現実なのか。
「また投薬か何かだろうか、と呆けた頭で思っていると、女は突然俺の身体を固定しているベルトを外しはじめました。何をする気なのか、と問おうとしても声は出ないし、息苦しさに咳き込みました。長い間喋っていなかったせいで、喋るという機能を身体が忘れていたのです」
言いながら、深沢は自分の喉に触れる。よく見れば、季節はずれの黒いハイネックに覆われていた首筋に、小さな痕が残っている。細い針を何度も刺したような、痛々しい痕。
「でも、その女は俺の言いたいことを察したのでしょう。微かに笑って、一言だけ言いました」
一瞬の間を置いて。
喉に触れていた指先が下がり胸を押さえ。
「 『逃げたくない?』と」
息が、詰まる。
矢代は「飲まれている」、と感じた。深沢の、淡々としていながら「鬼気迫る」と言っても間違いではない言葉に。今は矢代の顔を映しこんでいるこの目が映していたのだろう、深淵よりなお深い、見たことのない……そしてこれからもまず見ることはないだろう狂気の世界に。
「何故、その女はそんなことを?」
「俺もそう思いました。でも、その女は俺が問わずとも説明してくれましたよ。彼女は、かねてから『実行部』の研究に疑問を覚えていたと。この研究は狂っていて、続けるべきものではないと熱弁していました」
それならば、その女は深沢と同じことを考えていたのか、と思う。狂っていると気づいても思い続けるのは難しく、言葉にすること、実行することはそれ以上に難しいと目の前の男自身が証明していたが。
「彼女は、俺に向かって手を差し伸べて、言いました。『ずっと奴らの好きにはさせておけない』と。『だから、逃げよう』と……」
胸を押さえた指に、力が篭る。黒い服を掴んだ手が震えていた。
「俺は、何も考えずに……ただ、俺を苦痛と狂気から救ってくれると信じて、手を伸ばしました。彼女の手は、暖かくて柔らかかった。人間の、手でした」
手が震えているのは、救われた喜びからか。それとも。
「彼女は、俺の手を取って、走り出しました。俺も全力で走りました。もしかすると、走っていたことすらも夢だったのかもしれませんが」
落ち着いて考えてみれば、実験体として長らく自らの足で立つこともなかった深沢が、走れる状態にあるとは思えない。それでも矢代は何も問わずに次の言葉を待った。その時には、そんな些細な疑問など浮かぶはずもなく。
「ドアを開ければ白く長い廊下が続いていて、いくつもの扉をくぐりました。しかし、すぐに俺たちは囲まれてしまいました。白衣の、目をぎらつかせた研究者どもに」
それはそうだ。
反逆者と重要な実験体をみすみす逃がすような真似は、もし矢代が同じ立場だったとすれば許すはずもない。同じ立場、という状況があるとは思えなかったが。
「前からも、後ろからも白衣の腕が迫ってきて、乱暴に俺と彼女に襲い掛かって……もみくちゃになりながら俺の肩を誰かが強く引いた、その瞬間、目の前が真っ白になりました」
息をつき、天井を見あげ、深沢は言う。
「……身体中の血液が逆流するようで、熱くて、苦しくて、でも、何よりも俺は逃げたかった。遠くへ、苦しみも痛みもない、遠い場所へ。誰も邪魔するなと強く、強く願った」
今この瞬間も、深沢の息は苦しげだった。喘ぐように、絶え絶えの息を吐きながら、胸元を握り締めて。
「願った瞬間に、俺の中で何かが壊れて、弾けて……実際に、何かが弾けたのです」
「……?」
「視界が戻ったときには、俺の肩に手をかけていた白衣の男が、白目を剥いて倒れていました。一目で、死んでいるとわかりました。その瞬間は何が起こったのかわからなかったけれど、白衣の連中たちの反応を見て、すぐに理解できました」
わかりますか、とばかりに深沢は少しだけ目を戻して矢代を見た。
信じたくはないが、頭の中に浮かんでいた考えは、深沢の示す答えと全く同じものだった。
「俺は、皮肉にも『成功作』だったのですよ。あの、ガラスを割ったり、火を起こしたりしたマウスと同じように……人に本来あるはずもない『力』を手に入れてしまった」
深沢は、胸を押さえていた手を放し、擦り剥けて血が滲む両の手のひらを見つめた。眉を寄せ、苦痛を耐えるような表情で。
「でも、この時はそんなことどうでもよかった。ここから逃げることしか考えられずに、俺は必死に願った。ただ願うだけで『力』が邪魔な白衣をなぎ払うのがわかりました。あまりにもあっけなくて、現実味なんてあるはずもなく、こんなに簡単に人は殺せてしまうのかと、面白いとすら思ったのを覚えています」
俯いたまま、唸るように続ける。
「我に返ったときには、その場に立っていたのは俺と、俺を連れ出した女だけでした。廊下には、積み重なるように白衣の死体が転がっていて……それを見て、やっと何を犯してしまったのか、自覚しました」
苦痛の正体は、恐怖なのだろう。両の手をじっと見つめるその表情からは、果てしない絶望にも似た感情を読み取ることができる。
「足の力が抜けて、とても寒くて、一瞬前まで感じていた熱が嘘のようで。俺は、何より自分が恐ろしかった」
望まぬまま永遠とも思える悪夢の中に陥り、目が覚めたと思えばそれ以上の絶望が待ち構えていたというのか。
「夢なら覚めろと叫んでも、覚めるはずもありません。俺にとってはこれが現実で、逃げようにも、どうやって俺自身から逃げることができるのか、わかるはずもなくて……俺は、がむしゃらに走り出していました。女の声が後ろから聞こえた気もしたけれど、もう、何も考えられませんでした。怖くて、怖くて、ただそれだけだったのです」
『結局、全ては輪のようなものだ』
今日になって何度思い返したか知らない友人の言葉を思い出す。彼女は夢も現実も一つに繋がっているのだ、という独特の持論を持っていた。
正確なことを言えばそんな一言では片付けられる論ではないらしいのだが、矢代はただの戯言だと思って聞き流していたと思い起こす。
彼女自身、夢とも現実ともつかない、矢代には到底理解不能な言動を繰り返す掴みどころのない奴ではあった。この男との会話を通して無意識に思い出されるのは、多分存在自体が現実離れしすぎた奴だったからだろう。
――もし、そいつがこの男の話を聞いていたら、何と言うか。
不謹慎にも、そんなことを考えた。
「走っている間にも、何度も白衣の連中が襲ってきて、俺は殺したくなかったのに、捕まりたくないと考えるだけで『力』が溢れ出る。止まってくれと願っても無駄でした。立ち止まることもできずに、邪魔な白衣の連中を殺しながら走り続けました」
殺す、という単語も、この男が口にするとやけに浮ついたものに聞こえる。脳裏に浮かぶのは、真っ白な、終わりのない道を駆け抜ける黒い影。その光景を矢代が実際に知っているわけではないが、深沢の言葉はそれを想像させるには十分すぎた。
「本当に、どこに逃げるつもりだったのか、今でもわからない。けれども、走っているうちに段々と、怒りがこみ上げてきました。何故、自分は必死に走らないとならない? 俺が一体何をした? そう思って、ふと立ち止まって後ろを振り向くと、俺が今まで殺した研究員たちの死に顔が目に入って」
何となく、おかしくなって、笑いました。
と、深淵から響くような低い声で告げた。
「悪いのは、俺じゃない。俺をこんなことにしたお前らだろうって思いましたよ。そう思ったら、本当に笑えてきて、同時に何に怒っているのかもわかりました。俺は、自分でもおかしいくらい冷静に、白衣の死体を見つめていました」
行き場のない感情は心の奥深くに閉じ込めて、空虚に笑っていたのだろう。冷静というのは嘘だ。本人も気づいていないだろうが、それはただ――
心を、殺しただけ。
「殺してやろう。そう、この狂った白衣の連中を全員殺して、俺も死のう。決意をした瞬間に、随分楽になりました。元より寝ても覚めても悪夢であることに変わらないのなら、この狂った世界全部、自分も含めてぶち壊してやればすっきりするだろうと本気で考えました」
開き直った瞬間に、この男に残されていた心は死んでしまったのだ。
「立ち止まっている俺に、やっと女が追いついてきて、『大丈夫か』と怯えた目で聞いてきました。俺は『大丈夫だ』と言って、笑いかけてやりましたよ。全部ぶち壊すとは言っても、この女だけは助けなければいけないと、心に決めていました」
事実、目の前にいる深沢も、空っぽな笑みを浮かべていた。
「彼女は、昔の俺をそのまま映した鏡でした。狂っていると気づいていながら、無力。俺は無力を自覚せずに、望まぬまま戻れないところまで進んでしまったけれど、今、彼女ならきっと戻れる、俺が戻れなかった場所に届くと信じたかった」
その後は、迷いはなかっただろう。迷う心すらも、殺してしまったから。その先に待っているのは……いや、何も待ってはいなかったのだろう。最低でも、深沢の描いたシナリオでは。
「俺は、今度は自分から彼女の手を取って、走り出しました。もう、殺すことには恐怖も躊躇いもなかった。むしろ、恐怖に染まった研究員の顔を見て、愉快だとすら思いましたよ。自分たちが作った化物に牙を剥かれるなんて、思ってもいなかったのでしょうね」
救いようもない、矛盾した思考回路。
一番、この悪夢のような狂気の世界から抜け出したいと願っていた深沢が、狂った世界の快楽に酔いしれる。
それこそが、自分自身を恐れていた『化物』へと変化させる最後の引き金だったことを、深沢自身も頭の片隅では理解していたのだろう。
全てが歪みきった、悲しい『化物』に堕ちてでも、深沢は救いを求めたのだ。自分の鏡をそこから解き放ち、自分を含めた悪夢の世界を破壊することで。
「俺は、一つの場所を目指していました。そこにいるという、自信がありましたから。長い長い廊下を走り抜けた先、大きな扉を蹴り開けて、俺はそいつと対峙しました」
悪夢の主。
「白い大きな部屋の奥には、俺が思ったとおり、父が待っていました」
目の前の男と同じ瞳をした、『物語』の始まり。
「父は、俺の姿を見て驚いていましたよ。何で驚いたのかなんて知ったこっちゃないですが」
確かに矢代はわからないし、深沢ならばなおさら、理解できないだろう。実の息子を実験台に、夢物語の延長線上のような研究を続けていた男の考えなど。
「でも、驚いていたのは一瞬で、次の瞬間には怯えきって俺に許しを請うてきましたよ。俺自身でも忘れかけていた俺の名前を呼んで、縋り付くように……今更何を言っているのかと、俺の方が情けなくなりました。何も言わないでいると、今度は俺に背を向けて逃げ出そうとしたけれど、腰が抜けて床に這いつくばって。哀れなもんですよ」
立ちはだかったはずの研究員を殺しつくし、空虚で壊れた笑みを浮かべその場に立つ黒い影を見れば、恐怖しないはずはない。それが、自分の狂気によって作られた存在だったとしても。
それが、自分とよく似た目をしていればなおさらではないかと矢代は邪推する。
「 『許してくれ』 『そんなつもりではなかった』と、何度も何度も、繰り返していました。そんなつもりでないのなら、どんなつもりだった? 手前のせいで化物になった俺を目の前に、どうしてそんなこと言えんだよ……!」
初めて、深沢は声を荒げた。俯き、その表情を矢代に見せないままではあったが、声には絶望と怒りと、行き場のない悲しみが満ちていた。
「許す、許さないという問題じゃない。俺は、どうしようもなかった。猫なで声で命乞いする情けない父を見ていたら、怒りを通り越して乾いた笑いしか出なかった」
自分でも、何故笑っているかわからなかっただろう。人は、本来笑いなど出る筈もない、意味もない時にも笑ってしまうものである。
「俺は、何も考えずに一歩、前に踏み出した。でも、それだけで父は殺されるとでも思ったんでしょう。『来るな』と……大声で叫んだんです」
――それは。
「俺は、ついにおかしくなったんだと思いましたよ。元からおかしかったんでしょうけど、でも、その時には」
深沢にとっては、決定的過ぎる、拒絶。
「一から十まで手前が作ったモノだろう? 俺は、望む望まないに関わらず、今までずっと手前のために生きてきたんだろう? なのに、今になって『来るな』だと? ふざけるのも大概にしろと……頭の中ではひたすら責め立てていたのに、何故か」
深沢自身も気づいていなかった、最後の人としての感情。
「寂しくて、悲しくて、たまらなかった」
どこかで感じ、信じていた、人との繋がりが完全に断ち切られた瞬間だった。
ははっ、と乾いた声で笑って、深沢は矢代に向き直る。
「我に返ったときには、俺は、一瞬前まで父だった死体を見下ろしてましたよ。もう、何も感じなかったけれど……」
どこにも、戻れない。
それこそ、本物の『化物』になってしまった。
そう言って、笑う。
最後に残されていた人間としての関わりをはねつけられ、自らの手で完全に断ち切って。人間と呼べる部分を亡くしてしまったそれは、人の形をして笑っていた。今も、目の前で。
「全ては終わった。もう、俺には行く場所なんてない……だから、最後に残った彼女を逃がしてやらなくては、と思って振り向いたところで、俺は気づきました」
雨の音が交番を包む中、その中に微かに違う音が混じったような気がした。
「俺の背に、銃口が当てられていたことに」
何か巨大なものが近づいてくるような嫌な感覚と共に、深沢の声がトーンダウンする。何故唐突にそういう話になるかわからなかった矢代は目を丸くするが、すぐに深沢が解説を始める。
「銃を構えていたのは、例の彼女でした。俺は、一体どういうことかと思って彼女に問いましたよ。そうしたら、何て言ったと思います?」
薄っぺらな笑顔を浮かべながら、
「 『ごめんなさい、利用させてもらいました』と。謝っているのに、笑顔まで浮かべているんですよ。これには、さすがに参りましたね」
静かに、不条理を語る。
「彼女は要するにスパイだったようです。俺の知らない大きな組織の幹部か何かで、D社の『実行部』を探っていた。この、悪魔のような研究を、潰すために」
深沢の前には、どこにも、救いはないというのか。最後の希望だった自分の鏡ですら、紛い物に過ぎなかったというのか。
「ただ、D社は大きすぎた。だから、それを潰すため、そして『実行部』の成果を測るため、唯一の『成功作』である俺を利用して、D社を潰させようとした」
ならば、深沢が走り続けた理由は、何だったというのか?
「その時には、部屋の中に見たこともない灰色のスーツを着た連中がなだれ込んできて、俺に銃口を向けていました。そいつらは、口々に言いましたよ。D社は、父は、人間を作りかえるという夢に取り付かれた狂信者だと。俺は、狂信ゆえに生まれた化物で、本来は存在すべきモノではないとか、何とか」
間違ってはいないのだろう。
決して、言われていることは間違っていない。深沢を含めた全ては悪夢の産物であり、初めから終わりまでその悪夢を信じた者たちの悲劇だ。
だが、この結末が示しているものは。
「要するに俺は、D社から与えられた力でD社を滅ぼして、そしてこの場所で、殺される。そういうシナリオだったのですよ、初めから」
自分が意識することもない、巨大すぎる存在から伸びた糸が、全てを動かしていたというのか。深沢が絶望の中で心を壊していくのも、自らの手で決着をつけようとしたことすらも、シナリオの内だったというのか?
人を馬鹿にしているのにもほどがある。
聞いている矢代ですら怒りを覚えるのだ。深沢は、笑いながら、目に光を宿す。その光が意味するのは、絶望でありながら、身を焼き尽くす、熱い炎。
「踊らされて、俺はあれだけの人を殺した。父も、この手にかけた。それが、全部俺の知らない奴らの手の上の出来事だった。だから、初めは、あれだけ死にたいと願っていたけれど」
最後に一つ、許されるのならば、誰だってこう思う。
「こいつらにだけは殺されるわけにいかないと、心に決めました」
はたりと、耳に聞こえる全ての音が止んだ気がした。
それが錯覚だったのかどうかはわからない。どちらにしろ、今や矢代は完全に深沢と同調していた。もちろん、何もかもを理解できるわけではない。苦痛の一部すらも感じられるわけではなかったが、『物語』の全てが虚構だとは到底思えなかった。
「俺は、女を突き飛ばし、灰色の連中をなぎ倒しながら走り出しました。何度も銃声が聞こえましたが、当たることはありませんでした。長い長い廊下を走り抜けて、外を目指して、足が折れそうになるまで駆けて。それでも立ち止まらなかったのは、多分『力』のおかげでした。皮肉なことにこの時ばかりは、父に感謝しましたよ」
今度こそ、自分だけの結末に向かって、走る。誰の手の上でもなく、どんなに悲惨な結末が待とうとも迷うことはなく。
もしかすると、そうやって走ること自体も全て何者かの計算の内だったのだろうかもしれないが、そう考えるのは酷だろうか。
もちろん、この瞬間の深沢がそんなことを考えていたはずもない。
「逃げてどうしようかなんて、考えていませんでした。行く場所はないと思ったばかりなのに……ただ、こいつらにだけは捕まるわけにいかない。こいつらの目の届かない、研究所の外、遠くに。どこまでも、行ける限り遠くに行かなくてはと、それだけを考えて走りました」
実際に傷つけられたわけではなかったとしても、限界だったはずだ。意識は混濁を極め、身体だって満足に動いたはずはない。いつどうなるかもわからない『力』を抱えて、孤独に走り続けるのは、何よりも辛かったはずだ。
それでも走り続けられたのは、全てに裏切られた瞬間、同時に何かを取り戻したからだろう。一度は捨てようと決意したはずの、人としての証明……何もかもを失い、最後に残された己の生命。
まるでパンドラの箱だ。現実という名の蓋を開け、見たのは悪夢以上の苦痛と絶望。決して受け入れられるはずのない、壊れた世界が溢れ出る。
「走って、走り続けて、どこまで走ったかもわからなくなって、気づいたら目の前に光が見えたんです。俺は、何とか光に追いつこうと思って、必死に最後の一歩を踏み出して……そうしたら、視界が開けて」
しかし、最後に残っているのは、必ず小さく輝いている希望だ。
深沢にとって、その希望は。
「空が、見えたんです。雲の切れ間から、青い空が……」
雨の多い六月の、つかの間の晴れ間。
この男は、どの位空を見ていなかったのだろうか。研究所という名前の箱の中、夢と現を彷徨った深沢に、青い空はどのように映ったのだろう。
「温かい風は、微かに雨の匂いがして……俺は、気づけば膝をついて、空に向かって叫んでいました」
空は、どこまでも遠い。喉を震わせた叫びを、そのまま吸い込んでしまうくらいに。
「俺は、戻ってきたんだと思いました。やっと、夢から覚めることができたのです」
だからこそ、その遠い空が、深沢にとって変わることのない本来の『現実』だったのだろう。時間が止まったかのような危うい白い箱ではなく、刻々と移り変わりながらも決して揺らぐことのない空。
矢代は実際に深沢が見た空を見上げたわけではないが、ふと煤けた天井を見上げてそこに空を思い描く。
深沢も、同じように天井を見上げながら、静かな声で言った。
「でも、目は覚めたけれど、俺はもう戻れないのだとも思いました」
深沢の『物語』は、終わってはいないのだ。
「もう一度、立ち上がって。研究所が見えなくなるまで必死に走りながら、どうすればいいのか、ひたすら考えました」
望まぬ『力』を持ち、許されぬ罪を犯した男の、末路。
矢代は、深沢の今までの話を全て受け止めた上で、重々しく告げた。
「それで、ここに来たのか」
「はい。俺は、あまりに大きな罪を犯しました。だから、俺を捕まえてください」
その一言から始まった長い『物語』は、同じ一言で幕を閉じ……
瞬間、入り口の扉がゆっくりと開いた。
雨の音が蘇る。
雷は、近い。
遠雷と白昼夢