遠雷と白昼夢

遠雷と白昼夢/06:遠雷 ― チェシャ猫

 絶え間なく鳴り響く雷は、段々とこちらに近づいてきているように思えた。ぽつり、ぽつりとアスファルトの上に雨粒が落ちる。
「化物、ねえ」
 アキヤは空を見上げたまま肩を竦める。
「私にはそうは見えないけど」
 すると、灰色の男は目を細め、アキヤの無知を嘲るかのように言う。
「あなたは『あれ』の恐ろしさを知らないのですよ」
「いや、あの事件は私だってよく知ってるし本人からもきちんと聞いたよ。でも、別に化物って称するほど危ない子じゃないと思うけどなあ」
 言いながら、アキヤは桜色の傘を差す。奇妙な服装と余計にかみ合わないピンクの花が薄暗い路地裏に映える。
 大きな雨粒が、傘の上を転がり地面に落ちた。
 あくまで飄々と振舞い、自らのペースを崩そうとしないアキヤに苛立ち始めたのだろう、灰色の男はぎり、と歯を鳴らしてみせた。
「怖くはないのですか? 『あれ』の力は人の道を外れ、世界のバランスを崩しかねないところまで進んでいる。わかりますね?」
 いやに大げさな台詞回しに呼応するかのごとく、周囲の気配が動いたのがわかった。アキヤの返答次第では姿を現していない他の連中も動き出すだろう。どう動くのかは、やはりアキヤの返答次第。
 それでもアキヤは笑みを浮かべることをやめなかった。傘の下から三日月形の口元が覗く。
「わからないよ。それよりも、私はそちらさんの方がよっぽど怖いけどね」
 殺気が一気に膨らんだが、男は片手を挙げることで制する。しかし、男とてこれ以上アキヤに好きに言わせておくわけにはいかなかった。眉の端はぴくぴくと震え、我慢の限界が近いことを現している。
「どういうことです?」
「だから、さ。『世界のバランス』とか大層なことを言ってるけど、あんたらはこんな大きな世界のどこがニュートラルなのか見えているのかい?」
 からん。
 本格的に降り始めた雨の音をも貫くサンダルの音を鳴らし、笑顔のアキヤは一歩歩み寄る。
 何故か、奇妙な圧迫感を覚えて男は息を飲む。次の瞬間、自分が無意識に一歩下がっていたことに気づいて唖然とする。
「……私にはわからないよ。わからなくて当然だよ。世界なんて一つの目で見渡せるような小さいもんじゃない」
 からん。
 もう一歩、音を立ててアキヤは近づく。
「だから、アンタらの考え方はちょいとおかしいんじゃないかと思うよ。それじゃあ、あんたらが大嫌いなD社の連中と、何にも変わらないと思うんだけど」
「黙れ! あの狂信者どもと一緒にするな!」
 ついに、男が叫んだ。
「言わせておけば、薄汚い探偵の分際で……」
 一触即発。
 アキヤも多少笑みを歪めて傘を肩にかけ、いつでも動けるように身構えたが、そこに割って入ったのは携帯電話の味気ない電子音だった。
 もちろんアキヤのものではない。アキヤの着信音は常にサティの『ヴェクサシオン』なのだから。趣味が悪いというのはよく言われるが。
 男はスーツのポケットから電話を取り出し、通話ボタンを押して苛立った声で「何だ、今忙しいんだ」と受話器の向こうに声を投げかける。
 だが、次の瞬間男の表情が変わった。醜くぶよぶよした頬が緩む。
「ほう、そうか。見つけたか。すぐに向かう」
 アキヤも、男の言葉が何を意味しているのか察し息を飲む。男のぎょろりとした目がアキヤを睨む。
「さて、あなたと喋っている時間も終わりですよ」
「そうみたいだねえ」
 溜息混じりにアキヤは落ちてきた長い前髪をかきあげ、傘を持ち上げて素早く周囲を見渡した。男は構わずアキヤに背を向けて笑う。
「まあ、あなたとの付き合いも今日までですね。いろいろと感謝しますよ、女史」
「付き合いたくて付き合っていたわけじゃないけどね」
「好きに言ってください。後は彼らに任せますよ。それでは」
 言って、最後にアキヤの表情を見てやろうと男が振り返ったのが悪かった。
 アキヤは、迷うことなく手にしていた傘を男に向かって放り出したのだ。視界がふわりと桜色に染まり、男は一瞬何が起こったのか判断できなかった。ばっと手を振って傘を払い落としたときには、そこにいたはずのアキヤの姿は消えていた。
「くそっ、どこに……」
 雨の音にまぎれてからんころんという音が遠ざかる。見ればアキヤは初め男が現れた路地を曲がって走り去るところだった。「追え」という声を放つまでもなく男の手下であろう灰色の男たちがアキヤを追って路地を折れるが、曲がったところでアキヤの姿は忽然と消えていた。雨に濡れる細い道が伸びているばかり。
 チェシャー・キャット。
 現れては消える神出鬼没の怪猫の名が脳裏を掠める。
 男は厄介な存在を逃がしてしまった不甲斐なさにもう一度歯噛みするも、落ち着いて考えれば、あの女は煙に巻いて逃げるという一点においては誰にも負けないが、それだけだ。男は気を取り直して声を飛ばす。
「構うな。『あれ』を捕えることに専念しろ」
「 『あれ』はどこに?」
 手下の一人が問う。男はにやりと笑って言った。
「待盾駅の方向に向かったのを目撃している。目立つ外見だ、すぐに見つかる」
 わらわらと灰色の男たちが移動する中で、残された桜色の傘だけが、足跡すら残さないアキヤが確かにそこにいたという、唯一の証だった。