遠雷と白昼夢

遠雷と白昼夢/05:白昼夢 ― 悪夢

「冗談はよせ」
 矢代は呆れを通り越して、怒りに近い感情が湧いてくるのを感じていた。
 超能力?
 そんなもの、テレビの中だけで十分だ。本来こんな場で放たれるような言葉ではない。妄想もはなはだしい。
 ここまで来て、自分はからかわれていたのだと気づく。よく似たようなことをやってくる古い友人の顔が思い出されるが、あの女とてここまで性質は悪くない。
「超能力だって? そんなの漫画でも使い古されている……」
 俯き背中を丸めている深沢に向かって言いかけた言葉は、途中で尻すぼみになる。
 ぱちりという、ともすれば聞き逃してしまうくらい小さな、しかし確かに不吉な音が聞こえたのだ。その音と共に、瞬間的に天井の蛍光灯がちらつき部屋が薄暗くなる。近頃新しいものに取り替えたばかりだというのに。
 それは言葉通り一瞬のことで、直後には何事もなかったかのように蛍光灯が光を灯したが。
「信じてくださらなくても構いません。俺だって、信じたくない」
 目を閉じて、悲痛な表情で深沢は首を横に振る。どうやら俯いていたからか、今の異変には気づいていないようだった。
 矢代は呆然と目を見開いて深沢を見つめた。この男が、冗談ではなく本気でそんなことを言い出したのだとすれば、今の現象が意味することも理解できないことはない。
 理解したくないことではある。
 あまりに馬鹿げた可能性だ。
 それでも、聞かずにはいられなかった。
「いや……悪い。続きを、聞かせてくれないか」
「え?」
 顔を上げた深沢は、意外そうな声を上げる。沈んだ色を湛える瞳が細められ、こちらを射るように見つめてきて矢代はぞっとする。先ほど半ば反射的に「冗談はよせ」と口走ってしまったが、その目を見る限り、どうにも嘘をついているとは思えなかった。
「冗談じゃないのなら、続きを聞かせてくれ」
 急に前言を撤回した矢代に驚く深沢だったが、それで覚悟は決まったのだろう。もう一口コーヒーを飲んでから、目を細めたままゆっくりと語り始めた。
「俺も初めは冗談だと思いましたが、チームの連中は本気でした。父ももちろん本気でした。俺が『E企画実行部』に移るまでそこでどのような研究が行われていたのか、詳しくは知りませんが、俺は動物に対する投薬実験から参加しました」
 矢代ではない、遥か遠くの虚空を見る深沢。そこに何かがあるのかと疑いたくなるが、あるとすれば深沢の脳裏に浮かんだその場所の風景だろう。
 おそらくは、機材が立ち並んだ白い研究室なのだろう。矢代が見たことあるのは、御兜研究所の白い箱を思わせる建物の外観だけだったが。
「数年にわたる研究によって開発された『生物の潜在能力を引き出す』薬だったそうですが、それが事実だったかどうか俺にはわかりません。ただ、投薬されたマウスは狂ったように暴れだし、泡を吹いて死んでいくのが大多数。そうではない少数のマウスは身体が肥大化し、この世ならざる生物のような姿になって、結局身体の変質に耐え切れずそのまま死んでいきました」
 放たれる言葉だけでその様子を想像することは難しい。ただでさえ現実離れしすぎていて、わけのわからない話なのだから当たり前だが、ひとまず矢代の頭の中に浮かんだのは映画で描かれるような、蠢く赤黒い肉塊だった。
「中には、投薬の翌日に人間の子供くらいの大きさになって俺たちに襲い掛かってきたマウスもいましたね。もう、マウスと呼べる形ではありませんでした。牙と爪を持った、肉の塊。でも、そいつも、すぐに動かなくなりました」
 感情を込めず淡々と喋っているように見えて、深沢の声は微かに震えていた。
「チームの連中は、それを当たり前のように、むしろ楽しみながら見ていました。でも、俺は耐えられなかった。眠れば必ず悪夢を見るようになり、食事も喉を通らなくなって、何度も、父にこれは何のための研究かと問いただしました」
「何と、言われたんだ?」
「 『この研究はこれから生きる人間にとって必要になるものだ』と。『成果が出さえすれば、余計な犠牲は必要ない』とも言っていました。一度このチームに入ってしまった俺は、狂気の研究を告発することもできずに、父の言葉を信じて、成果を出そうと実験を繰り返すことになりました」
 そこまで言って、深沢は少しだけ表情を崩した。口端を小さく歪めるだけの、見方によっては無表情の延長線上としか思えないくらいに微かな変化だったが、矢代にはそれが『嘲笑』に見えた。おそらく、彼なりの自嘲の笑みなのだろう。
「……今思えば間抜けですよ。でも、その時は俺にとって『E企画実行部』だけが俺の世界だった。そこから抜けることなんて、考えることもできなかった。思考まで麻痺していたのかもしれない。自分でも気づかないうちに、狂った世界が段々と当たり前になっていたんです」
 歪んだ世界への適応、か。
 誰かが言っていた気がする。人間は環境に適応する能力を持っているが、適応するのは良い方向にも悪い方向にも同じであると。
 そんなことを言うのは一人だったか、と矢代はふと思うも、流れるように続く深沢の物語に耳を傾けることに精一杯でその疑問は頭の中を横切っただけで終わった。
「それから、どのくらい経ったか。ある日、投薬した一匹のマウスが触れてもいないガラス壁を割ってみせました」
 一瞬考えた後、矢代は頭の中に浮かんだ言葉を口にした。
「念動力ってやつか?」
 深沢は首肯する。
 念動力。英語ではサイコキネシス、と言うのだったか。手を触れずに、自分が思うだけで物を動かしたり壊したりする能力のことを指すと矢代は記憶している。大きな声では言えないが、こういうものに興味があった時期もあるのだ。
「……そのマウスは数日で死にましたが、その後も、マウスでの実験では何度か念動力やその発展である念動発火などの能力を発現させるものが出てきました。能力の発現率は五分といったところですが、当初のように形の定まらない化物を作るようなことは無くなりました」
 ――それが、本当に成功と言えるかどうか、俺にはわかりませんけどね。
 そう付け加えて深沢は一度沈黙した。
 「人工的に超能力者を作る」と言っても一体実験に使われたのがどのような成分の薬なのか、実験が実際にはどのように行われたのか、それについては深沢も詳しいことを語ろうとはしなかったし、語られても矢代には理解できなかっただろう。
 だから、深沢の口から出るのは深沢自身が見た事実のみ。
 全てが深沢の想像力が生んだ妄想かもしれない、という可能性は捨て切れなかったが、いつしか矢代はこの黒い男の『物語』に引き込まれていた。
 頭の中でこの先の記憶を言葉にまとめていたのだろうか、しばし口を噤んでいた深沢が、改めて話し出す。
「父は、次の実験段階に移せと指示しました。指示に従って、様々な動物に投薬しその結果を確かめました。他の動物もマウスと同じように初めは失敗の連続で、ホラーゲームに出てくるモンスターさながらの化物が生まれてしまったこともありました。それでも、少しずつ『成果』は出ていました」
 成果、という言葉に奇妙な響きがあったのは、そこに深沢の迷いがあったからだろう。それでも何とか冷静に、自分に出来る限り客観的であろうとするのが矢代にもはっきりと伝わる。せめて矢代には、信じてもらえなくとも自分が見た限りのことを聞いてもらいたいと思っているのだろう。
「最終的には、何かしらの能力を持つ実験体を、ほぼ八割の確率で作ることができるようになりました。もちろん、副作用としてその実験体は何かしらの原因で長く生きることはできませんでしたが、成功率は格段に上がりました。父も、この結果に満足したのでしょう、自ら研究所に訪れました」
 しかし、どんなに客観的であろうとしても、自然と放たれる声は暗くなる。この先にある一つの結論に向かっていることへの暗示か。矢代は知らず自分が強く手を握っていたことに気づいた。
「そして、父は言いました」
 その先は、誰だって、わかる。
 思わず耳を塞ぎたくなった。しかし、深い闇の底から見つめているような深沢の目がそれを許してはくれなかった。
 唇が、決定的な言葉を吐き出す。
 
「人間を使った投薬実験を行うと」
 
 背中に冷たい汗が流れる。自分のことでもないのに、戦慄を抑えられない。何もかもが法螺かもしれないというのに、耳の奥に響く声は脳髄を麻痺させるような錯覚を伴う。
 深沢も一瞬躊躇ってから言う。
「正直、そうなることは俺にだって想像はついていました。ただ……」
 ぐっと。
 ぼろぼろの手を握り締める。割れた爪がただれた皮膚に食い込むくらい強く。
「もう、限界でした。これ以上進んでしまったら、俺も、きっとこの実験の中で死んでいったマウスたちと一緒、いや、それ以上の化物になってしまう。いや、もしかすると、とっくにそうなっていたのかもしれない。血も涙もない、全てを実験という名の下に作り変えながら笑う化物に。でも、手遅れだとはわかっていても、俺は我慢ならなかった」
 この男がここで立ち止まれたというのは、奇跡に近いだろう。いくら狂った世界とはいえ、先ほど深沢自身が言ったとおり一度そこに入り込んでしまえばそれが「当たり前」の場所なのだから。
 崩れかけていながらも一欠け残った倫理観と、元より抱いていた度重なる実験に対する不安がそうさせたのか。
「それで……言ったのか?」
 矢代は、続きを促すように言った。しかし深沢はすぐに言葉を続けることはなく、目を閉じて唇を噛んだ。握った手から、微かに血が滲むのがわかる。
「もちろん父に言いました。この実験は狂っていると。これ以上、協力することはできないと。いくらこの研究が未来のためという大義名分を掲げていたとしても、これは人の道を外れていると」
 ふ、と。
 深沢の口から、息が漏れる。見れば、深沢は笑っていた。口端を深く歪め、顔の筋肉を緩めて、力なく。だが、その目を見る限り本気で笑っているとは到底思えなかった。
 それは、自分の理解を超える深淵を覗き込んでしまった者特有の、虚無。
「本当に馬鹿なんです、俺はね」
 血が滲むほど力を入れていた手を開いて、額を押さえる仕草。自然と歪んだ笑みになってしまう顔を隠しているようにも見えた。
「俺一人が言ってもどうにもならないと薄々気づいていながらも、言ってしまったんですよ。結果なんて、わかりきったものなのに」
 ああ、そういうことなのか。
 深沢が笑っている理由がやっと矢代にも理解できた。
「父がそれで止まるはずもない。それどころか、俺を罵倒しましたよ。自分の理想を理解しない無能だってね。俺は狂人の考えなんて、理解したくもないですが」
 元よりこの話は頭の悪い、ありがちな作り話の世界をそのまま延長したようなもの。ならば、その先に待っている結果だって使い古された物語に決まっているではないか。
 それがあまりにおかしくて。そして、笑っていないと心が壊れてしまいそうで、深沢は笑っているのだ。
 ただただ、空虚に。
「でも、それだけで終わるはずないですよね」
 乾いた笑いが、漏れる。決して間違ってはいなかっただろうが、何より馬鹿正直すぎた自分を笑う。
 誰もが予想するであろう結末を前にして。
「父ははっきりと言いましたよ。俺みたいな無能でも、役に立つ道はあるってね。俺の考えなんて関係ない。父の目的のために、俺は最後まで利用される羽目になったんですよ」
 狂っている。
 確かに思うも、それを口にすることは出来なかった。
 狂っているのは深沢が語る『物語』なのか、それとも『物語』を語る深沢自身なのか、矢代は次第にわからなくなり始めていた。
「俺は必死に逃げようとしましたが、逃げ道も作っておかなかった馬鹿に救いの手なんてあるはずもない。あっけなく捕まって、それから先は」
 先は。
 言葉もなかった。
 深沢はわざとらしく明るい声を出した。痛々しい、歪んだ笑顔で。
「笑えますよね、俺が実験体の第一号ですよ?」
 笑えるわけがない。もちろん、言っている深沢自身もよくわかっているのだろう。矢代の返事も待たず、緩慢に言葉を紡ぐ。
「あれから先は、夢の中にいるようでした。自分は眠っているのか、起きているのか。いくつもの腕が俺を引き裂くような夢や、無数の蟲が身体の中を蠢いているような夢を、繰り返し、繰り返し」
 静かに放たれる声も、段々と夢を見ているような、浮ついた響きを伴い始める。
「悪夢だけで十分だっていうのに、度重なる投薬と実験の苦痛だけが俺を現実に引き戻すんです。そんな毎日が永遠に続くのだと絶望しました。でも、やがて記憶も曖昧になって、ほんの少し気が楽になって。最後に覚えていたのは、二〇〇〇年の七月十一日という日付だけでした」
 提示されたのは、やけに具体的な日付。矢代は疑問を素直に口にした。
「何故、そんな日付を?」
「俺の誕生日だったんです。もちろん誕生日なんて、誰も祝ってくれませんでしたが。とにかく、それ以降の記憶はなくて」
 ぽつり、と。
 外から音が聞こえて矢代ははっと我に返る。外を見れば、黒い雲から大粒の雨が落ちてきたところだった。深沢も、矢代の視線を追うようにして窓の外を見た。
「雨ですね」
 存外はっきりとした口調で深沢は言った。泣きはじめた空を見上げるさりげない仕草は、一瞬前までの『物語』が一時の白昼夢であったのではないかと錯覚させる。
 それでも、現実は現実だ。どんなに否定しようとしても、覆すことはできない。
 矢代が自分の耳で聞いてしまった『物語』はぐるぐると頭の中で回り続けている。唾を一つ飲んで、自分の口の中がからからに乾いていることに気づいた。動揺しているのを悟られないように、ぬるくなったコーヒーを口に含む。
「大丈夫なのか? 傘、持っていないだろう?」
 親切のつもりで……もう一つには話から意識を逸らすつもりで……問うたが、深沢は質問の意味がわからない、とばかりにきょとんとした表情で首を傾げてみせる。そして、次の瞬間合点がいったらしく目を伏せて、苦笑する。
「当然ですよ。帰る場所もありませんし、元々捕まる気で来たんですから」
 そうだった。何惚けたことを聞いてしまったのだろう。
 この男が来た目的すらも忘れて、今まで自分は何を聞いていたというのか。長い『物語』を聞いてしまった今となっては、机の上に置かれた新聞は最早何も語らない薄っぺらな紙束でしかなかった。
 遠くで、雷が落ちる。