遠雷と白昼夢

遠雷と白昼夢/04:遠雷 ― 化物

 周囲の空気が、変わる。
 女は音程の外れた口笛を吹きながらその時を待った。周囲に立ち並ぶ建物の影に隠れている『何か』が自分の前に現れる、その瞬間を。
 待っている時間は、実際には十秒もかからなかったと思う。実際に数えたわけでは無いからよくわからないが。
「エリック・サティの『ジムノペディ』ですか」
「当たり」
 声を共に目の前の廃ビルの影から現れたのは、灰色のスーツに身を包んだ太った男。ぱっと見る限りではどこにでもいる冴えない中年サラリーマンにしか見えないが、目つきだけはやけに鋭い。
 また、視界に現れたこの男以外にも、まだ何人もの人間が影からじっと女を見つめているのは女にもはっきりとわかっていた。
「さて、いくら私が人気者だからって悪趣味だねえ、こんな人数で覗きなんて」
 女はにやにやとした笑顔を少しも緩めることもなく銀色のフレームを持つ眼鏡を人差し指で押し上げる。「仕方ないでしょう」と男も愛想笑いを浮かべる。
「こうでもしないと、見失ってしまいますからね。相手があなたなら尚更ですよ、アキヤ女史」
 一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、アキヤと呼ばれた女は声を上げて笑った。男の言葉がこの上なく面白かったらしいが、一体どの部分が女のツボに入ったのか言葉を放った本人である男には知る由もなく、ただ呆然と笑い転げるアキヤを見ることしかできない。
「ははっ、こりゃあ参った。私も随分買いかぶられたもんだね。で、結局何の用なのかな? 影で動いてるそちらさんが、わざわざここまでお出ましなんだ。きっと、私に何か忠告しに来たんでしょう?」
 ひとしきり笑った後……見れば笑いすぎで目の端には涙まで浮かんでいる……アキヤは再びにやにやと笑いながら男を見る。男は、自分がアキヤのペースにまんまと乗せられていると気づき額に浮いた汗を拭く。
「では、単刀直入に。もう、『あれ』を追うのは諦めてもらいませんかね」
 そこで、初めてアキヤは笑みこそ消さないまでも、眉をぴくりと動かした。
「ふむ。『あれ』なんて、モノじゃないんだからそんなこと言ったら可哀相じゃないかな?」
「では、何だというのです?」
 今度こそ、男もアキヤに対抗するようにその顔に嫌な笑顔を浮かべた。ただし、その笑みには、アキヤのような余裕はなかった。
 アキヤはちょっと考えるように空に目線を逃がした。その目の動きには、醜い目の前の男を見ていたくなかった、という心理も多分に含まれているように思える。
「何だというのです、ってもったいぶって言うけど、一体そちらはどんな答えをご所望なのかなあ。ま、聞かなくても何となくわかるけど」
「決まっているでしょう」
 アキヤの言葉を最後まで聞くこともなく、男のねとついた笑みが深くなる。もちろん、アキヤは段々と近づいてくる雷の音を聞きながら空を見上げていたため男の会心の笑みなんて見ていなかったし、実際に見たくもなかったが。
 
「 『あれ』は、化物ですよ」