深沢智哉。
新聞に小さく書かれていた文字は、確かにそんな名前だった。この男に関する詳細は何も紙面に表されてはいなかったが、社長である父の後継として教育を受け、D社の中でも高い位置に置かれていたという話は噂で聞いている。
元より、D社にまつわる噂は多い。いいものも、悪いものも。
「とにかく、話を聞かせてもらおうか。そこに座るといい」
矢代は深沢に椅子を勧めながら自分も椅子に座った。深沢は一瞬躊躇った後、椅子に腰掛ける。この椅子もやはり古いのか、ぎいと一つ鳴った。
本当ならば、すぐにでも上に連絡し引き渡してしまうべきなのかもしれないが、何となくこの男の様子が気になった。人を殺した人間というのがどんな表情をするものなのか、当たり前の「お巡りさん」でしかない矢代が知る由は無い。
だが、この男の纏っている雰囲気は、人殺しのそれとは違うような気がしたのだ。
あくまで、勘というやつだが。
「……話、ですか?」
深沢は、おずおずとした口調で問いかける。迷わず自首した割には、どうにも歯切れの悪い反応である。それこそ、何かに怯えているようにも見えた。
「何だ、今更怖気づいたのか?」
「いえ」
それだけ言って俯き、黙り込む。おそらく、この男も矢代がこうまで落ち着いて応対するとは思っていなかったのだろう。すぐに捕まるであろうということばかり考えて、この場でゆっくり説明を求められるなど、頭の隅にも上らなかったに違いない。
――捕まえてください、か。
矢代は思い、溜息を一つつく。わざわざ捕まって刑務所送りになりたい、などという物好きもこの世の中にはいるという。もしかするとこの男は行方不明の深沢を騙った虚言癖だか妄想癖だかを持った男なのかもしれない、とも思ったがすぐにそれは違うだろうと思い直す。
何しろ、目の前の男は、あまりに死んだD社社長に似すぎていた。特に、影を落とした目元などはそっくりだ。矢代がD社社長を見たことがあるのは紙面にある写真の上だけだったが、それにしても暗い表情をした男だと思っていた。
この男が深沢智哉であることに疑いはない。
だとしたら、一体この男は何をして、何を知っていて、何を迷っているのか。
このままでは埒が明かないと思い、矢代の方から口を開く。
「話せないようなことなのか?」
深沢は、俯いたまま首を小さく横に振る。その動きに力はなかった。
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
矢代が続きを促すと、深沢はゆっくりと顔を上げた。目を伏せたまま、矢代に、というよりは自分自身に向かって呟くように乾いた唇を動かす。
「誰も、信じちゃくれないとは思っています」
どういうことだ、と言おうとして矢代は口を噤む。
この事件がどうして怪事件と呼ばれるのか、もう一度考え直す。
果たしてこの男は、たった一人であれだけの人間を殺したのだろうか。しかも、あえて『感電死』などという奇妙な死因で。
どのように殺したのか。何故、そうする必要があったのか。
多分、それは矢代が考えたとしても絶対に届かない領域だ。答えは、目の前の男が持っているのだろう。それがどんな形だとしても。
『初めから世界なんて歪んでいるさ』
声と共に、何故かチェシャー・キャットの笑顔が脳裏に浮かんだ。何も知らない矢代を嘲笑うように。それを無理やり振り払って、矢代は初めて真っ直ぐに深沢を見た。
「構わない、聞かせてくれ」
深沢は虚を突かれたように目を丸くしたが、次の瞬間、今まで氷のように強張っていた表情が一瞬だけ崩れた。
それは、何故か安堵の表情に見えた。
矢代はその表情の意味を掴みきれずに呆然と深沢を見たが、黒い男は再び表情を暗く憂鬱なものに戻して口を開く。
「その前に、一つこちらから聞いていいですか」
「あ、ああ、何だ?」
深沢は空ろな目を虚空に泳がせて言う。
「……今日は何年の何月何日です?」
一体、何を聞いているのかと思った。しばらく深沢の言葉を頭の中で反芻してから、全く言葉通りの質問でしかないと理解する。
「何だ、今日は二〇〇二年の六月二十六日だが……それが、どうかしたのか?」
逆に問い返せば、深沢は表情をより陰鬱なものにして、小さく、蚊の鳴くような声で言った。
「なら、ことの始まりは二年くらい前になると思います」
それからの話は大体深沢自身の身の上話のようなものだった。
数年前まで海外に留学していた深沢は、大学を卒業してから、社長である父親の望みどおりD社の研究所に勤めることになった。そして、そう長い時間もかからず、開発班の中でもリーダー的な存在として指揮を取ることになる。周囲との軋轢は多かったが、それでも何とかやっていたという。
ぽつりぽつりとした断片的な情報だけだが、矢代はこの男が予想以上に若いことを知った。おそらく、三十路にも達していないだろう。
いくら父親が社長だといえ、このご時勢だ。それだけで自分も確実に立場を得ることができるわけではないのだから、その歳で研究所の中でも高い位置を維持していたとなると、この男自身相当のやり手だったのだろう。それは軋轢だって多くなる。
いくつか問い詰めたい部分もあったが、矢代はひとまず深沢が語るに任せることにした。時折手元のノートに鉛筆を走らせながら、深沢の口から放たれる一字一句を逃さないように耳をそばだてる。
深沢は淡々と淀みなく、理路整然と言葉を紡ぎ続ける。
「仕事のことばかり考える毎日でしたが、ある日、突然父に呼び出されました。父は俺に部署変更を言い渡したのですが、そこは俺の知らない部署でした」
「知らない?」
「 『E企画実行部』。名前を聞いてもよくわからなかったのですが、特に異論もなくその部署に異動しました。それが、ちょうど今から二年前のことです」
そこまで一気に言ってから、深沢は少々苦しげに息をつく。それは、再び見せた迷いの表情とも取れた。矢代は、冷めたコーヒーに口をつけようとしてカップを取り上げたが、すぐに下ろして深沢に問う。
「コーヒー、淹れるか?」
話の腰を折る形になったが、深沢は気を害した様子もなく、無表情に矢代を見た。しばし考えてから、小さく頷いて「お願いします」とだけ言った。その声がかすれていたところから見るに、最低でも喉が渇いているのは間違いないだろう。
「インスタントでいいよな」
「構いません」
その答えを最後まで聞く前に椅子を立ち、先ほどと同じ手順でコーヒーを淹れる。本来この交番では二人以上の人間が常時いることが望ましいとされているのだから、カップが二個以上あるのは当然だ。
今、この場に矢代しかいないのは偶然のようなものだ。運がいいのか悪いのかは、今のところ矢代には判断しかねるが。
自分の分も新しく淹れなおし、熱いコーヒーの入ったカップを深沢の前に置く。
「砂糖とミルクは要るか?」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
深沢はカップを受け取って初めてはにかむように硬く微笑んだ。殺人犯を自称する男と向き合ってコーヒーブレイクとは我ながら何とも気楽なものだと矢代は苦笑する。緊張感というものがどうにも薄い。
深沢も、どうやら矢代が自分を客人として扱うのが不思議なようで、複雑な表情を浮かべて矢代とカップの中を交互に見つめていた。
そう、矢代とてどうして深沢に対してこのような扱いをするのか自分でもわからなかった。ただ、虚空を見つめて淡々と自分のことを語る深沢の姿を見て、敬意に似た感情を覚えたのは確かだった。
「ゆっくり話してくれて構わないからな。話しにくい話だろう」
話しにくいのだ、ということくらいは矢代とて理解できる。どう話しにくいのかは、察することもできなかったが。
深沢は「はい」と小さく呟いてから、コーヒーカップに口をつける。音も立てずに一口含み、インスタント特有の安っぽい味でも確かめているかのように目を閉じる。
矢代は、これ以上声をかけることも出来ずに黙り込んだ。壁にかけられた時計の針の音が、やけに大きく聞こえる気がする。見れば、午後二時を少し回ったところだった。
しばらくの沈黙の後、ぽつりと深沢が呟いた。
「熱いコーヒーなんて、ずっと飲んでいませんでした」
「どういうことだ?」
「あの日から、コーヒーなんて飲めなかった……二年前の、あの日から。俺が『E企画実行部』に移ったときから、俺の世界がおかしくなりました。いや、元からおかしかった。ただ、俺が今まで気づいていなかっただけで」
世界?
やけに大仰な言葉に眉を寄せたが、深沢のカップを握る手に、力が入ったのに気づく。辛そうに眉を寄せて、震えそうになる身体を無理やり抑えこんでいるようにも見えた。
「信じていただけないと思いますが、D社は……いや、父は、狂気の研究に取り付かれていたのです」
突拍子もない言葉が耳に飛び込み、矢代は思わず問い返してしまった。
「狂気の研究?」
だが、それだけならばまだ良かった。
次に深沢の口から放たれたのは、
「人工的に『超能力者』を開発するという、いかれた研究チーム。それが『E企画実行部』の正体でした」
という、それこそ耳を疑いたくなるような言葉だったのだから。
遠雷と白昼夢