幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

檻と鳥籠
 《森の塔》とは、国の中心を担う統治機関《鳥の塔》が荒野の各所に築いた研究施設の名称だ。
 緑を失ったこの世界に、もう一度かつての色を取り戻すために、《鳥の塔》とよく似た白磁の塔にはこの国有数の頭脳が集められ、日々、環境改善のための研究が行われている、らしい。
 けれど、クーノ・ラングハインは、それがどこからどこまで事実なのかを知らない。
 《森の塔》第三番に配属された兵隊のクーノにとって、研究員たちが集う研究区画は許可なしに立ち入ることのできない場所であり、彼らの実情も白い壁に隠されたままだ。
 だから、そこで何が行われているのかも、クーノが知ることはない。
 知る必要も、ない。
「なあ、クーノ?」
 知る必要なんて、ないはずなのに。
「なーに無視してくれちゃってんの? なあ、少しくらい相手してくれたっていいだろ? 別に何が減るわけでもねえんだしさあ」
 背にした硝子越しに聞こえてくる馴れ馴れしい声に、眉を顰める。振り返らずに、必要以上のことを言葉にすることもなく、真っ直ぐに閉ざされた扉を見つめて、交代の時間が来るのを待つ。目を逸らし、耳を塞ぎ、口を噤む。それが、《森の塔》第三番地下監獄に配属された兵士に必要な行動だった。
 だから、クーノもぐっと唇を噛んでやり過ごそうと試みる。硝子張りの牢から響く、ざらついた猫なで声はなおも続く。
「最近、どいつもこいつもだんまりで、俺様まで喋り方忘れちゃいそうなんだよ。あ、忘れるなんて能力、俺様にはなかったじゃん、ねえ? あっはは、俺様としたことが意味のねえことを悩んじまったぜ」
 耳を塞ごう。大丈夫、この罪人の言葉に、何一つ意味などない。
「意味がない。無意味。ああ、嫌んなるよ。俺様がこうやってぐだぐだ喋ってる間にも、時間はただただ過ぎてんじゃねえか。今何時だっけ? 今は二十時五十八分二十七秒です。あー、ここの時計、ちょいとずれてんだけど、早く直してくれねえかな。何か気持ち悪ぃんだよ」
 聞こえない、聞こえない。言い聞かせて、呼吸を整えて。無視を続けていれば、いつしか男も飽きて思索に入ることは、ここ一ヶ月の監視で理解している。今日もいつもと同じように聞き流しているだけで、
「ああ、今ごろ、鳥籠のお姫様は、何をしてるんだろうな?」
 突然意識に飛び込んできた言葉に、息が、喉の奥で詰まる。
「今日も一人きりでお人形遊びかな。それとも、カラスマ先生の歴史の授業中かねえ。かわいそうになあ、俺様たちのエゴに振り回されて、永遠に鳥籠の中から出ることも許されない。ただ、俺たちの望む『未来』とやらのために生きて死んでいく運命ってな」
 振り向いてはならない。そうは思うのに、世間話でもするかのように物語る声の主を睨みつけて、叫びだしたい衝動に駆られる。
 耐えるんだ。クーノは拳を握り締めて、僕は何も知らない。そう、彼女のことだって、何も、何も。
「そうそう、お前さんもこの前お姫様を見たんだってな。お姫様、かわいかっただろ?」
 胸が跳ねる。どうして、この男がそれを知っている? 思わず硝子の壁から飛びのき、罪人の姿を直視してしまう。
 すると、奥の壁を背に座り込んでいた拘束服の男が、重たげに顔を上げた。
「やっとこっちを見てくれたなあ、クーノ・ラングハイン?」
 にぃ、と。髭に覆われた口元が、笑みを形作る。
 背筋に走る悪寒、それでも、一度目を合わせてしまえば、逸らすことなどできない。
 永久に溶けない氷の色を湛えた瞳。その奥に渦巻く、刃を思わせる鋭い光。こちらの心を突き刺してかき回す、狂気。
 いつの間にかからからになっていた喉に唾を流し込んで、かろうじて言葉を放つ。
「何故、それを」
「そのくらい、俺様にはまるっとお見通しだぜ? お前さん、恋する男の目だもの」
「じょ、冗談を……っ」
「うん、冗談。部屋の前でお前とイヴァンが話してるのが聞こえただけ。はっは、本気にしたのか? 少しでも、冗談じゃないって思っちまったんじゃねえのか? いやあ、若いっていいなあ、俺様もまだまだジジイって歳じゃねえけどさ、いつだって恋心なんてえもんは脆く儚いもんでなあ」
 そのまま、クーノの動揺を置き去りにして訥々と恋やら愛やらの話をし始める男を、微かに唇を噛んで見据える。
「……どこまで、知っている?」
 その問いに、男は言葉を止めた。気持ちよく喋っていたところに割り込まれた不快を眉間に滲ませながらも、親切にも答えを返してきた。
「だから、何も知らねえっての。お前があのお姫様を知っている、ってとこまでだ。俺様がここから出られないのは、お前さんが一番よく知ってるだろ? 情報網から完全に隔絶されてることもな」
 そう、そのはずなのだ。
 それでも、この男ならば、クーノや上層部の考えを遥かに超えたやり方で、この何もかもから隔絶された硝子の檻から、知りたいことを知り、やりたいことを実行に移すことも不可能ではない。そう思わせるだけの「功績」がこの罪人にはあった。
 改めて、男を見る。伸びっぱなしの黒い髪に、顎を覆う髭。体つきだけ見れば貧相な子供のかたちをしていながら、ぎらぎらと輝く目には、子供の無垢さとはかけ離れた混沌を凍らせている。
 男と自分がいる側の「世界」とを隔てる硝子に手を触れ、その冷たさを思う。
 あの日出会った少女もまた、クーノとは隔たった場所にいた。冷たい鋼の扉の向こう、外界と完全に隔絶された、鳥籠に。
 目の前の男のように罪を犯したわけでもないというのに、つくられた世界にひとりきり。楽園の真ん中で、柔らかなドレスの裾を翻す影が、閉じた瞼の裏に、ちらつく。
 
 
《森の塔》第三番、最高層。
 本来、研究者の中でも、ごく一部の人間のみが立ち入ることの許される空間である――そう、クーノは聞かされている。
 ならば、何故自分はここにいるのか。その問いに、クーノ自身は答えることができずにいた。昔から時々あるのだ、ふと気づくと、全く見覚えの無い場所に立っているということが。毎週一回かかっている医者には、夢遊病の一種ではないかと言われているが、詳しいことはまだ何もわからないままだ。
 だから、その時も得体は知れないが「いつものこと」ではあった。
 場所が、異常であっただけで。
「……どうやって入り込んだんだ、僕……」
 壁に掲げられた階数の表示を眺めて、思わず独りごちる。上層に至るためには、いくつものセキュリティを越える必要があるはずなのだ。下っ端兵隊のクーノが入り込む隙間など、どこにも無いと思われるのだが。それとも、実はセキュリティが厳しいというのは表向きでのことで、案外抜け道もあるのかもしれない。
 とにかく、自分がここにいてはならない存在だ、ということだけははっきりしていた。慌てて下に向かう階段を探していると、不意に、声が聞こえた。
「おや、兵隊さんがこんなところで何をしているんだい?」
 穏やかな、男の声に、びくんと肩を震わせて振り向く。見れば、そこにはほとんど白髪になった金髪を撫で付けた、白衣の男が立っていた。襟を飾るピンは、男が上層に位置する研究者であることを示していた。
 慌てて敬礼し、己の名と所属を明かす。そして「何故ここにいるのかわからない」ことをしどろもどろに説明すると、男はくつくつと愉快そうに笑う。
「なるほど、面白い現象だな。少し調整の仕方は考えるべきかもしれないが」
「……?」
 首を傾げていると、男はぽんぽんとクーノの肩を叩く。
「まあ、折角ここまで来たんだ、見学でもしていかないか? この部屋は特に面白いと思うよ」
 いつの間にか、目の前には大きな扉があった。分厚い金属製の扉にはいくつもの装置が取り付けられていて、巨大な金庫のようにも見えた。
 白衣の男はクーノを導き、扉の前に立たせる。
「さあ、そこのパネルに手を当てて」
 導かれるままに、手を当てる。すると、扉は音もなく開いた。
 そして、クーノは、目を丸くした。
 まず、感じたのは風の香りだった。今まで嗅いだことのない、さわやかな香りが鼻孔をくすぐる。それから一拍置いて、やっと、目に映る光景を頭で理解した。
 扉の向こうに広がっていたのは、一面の緑だった。緑の芝生、咲き乱れる鮮やかな色の花、そして芝生の上にぽつぽつと植えられた木々。そのどれもが、今や地球から失われたはずのものであった。
「ここ、は……?」
 研究員の男を振り返ってみると、男は鷹揚に笑って、ドーム状の天井を仰ぐ。
「鳥籠さ」
「とり、かご……?」
 クーノも、男につられるように、天井を見上げる。そこには、架空の空が描かれていた。この世界から失われて久しい、青空が。
「そう。この国の未来を創るための楽園、もしくは」
 言葉を切って、男はクーノに視線を戻した。紫苑の瞳は、鏡のようにクーノの丸い目を映し込んでいる。
「とある少女の牢獄さ」
 牢獄? と、男に問い返そうとした刹那。
「誰?」
 不意に、声が、降ってきた。
 はっとして声の聞こえてきた方向を見ると、赤い名前も知らない実をつけた樹の上に、一人の少女が座っていた。
 柔らかそうな、ふわふわと波打つ茶色の髪を、頭の上の方で二つ結びにしている。着ているものはレースをふんだんにあしらった、柔らかそうなドレスだけれど、樹に登るときに引っ掛けたのか、ところどころがほつれ、裂けてしまっている。
 けれど、それよりも、クーノの目を引いたのはその少女の額。茶色い前髪に隠されかけているが、そこには白い滑らかな石が嵌めこまれていた。一体、あれは何なのだろう、と思いながらも、少女がじっとこちらを見つめているのに気づいて慌てて名乗る。
「ぼ、僕は、クーノ。クーノ・ラングハイン。君は……」
「クーノ」
 ぽつり、と。少女は呟く。ただ、名前を呼んだだけだというのに、その声は、激しくクーノの鼓膜を……否、脳を揺さぶる。共鳴する音色、身体の内側が震える感覚に、クーノは口を半開きにして、呆然と少女を見つめていることしかできない。
「クーノ。素敵な名前」
 そんなクーノを見下ろしていた少女は、不意に枝から離れた。ふわり、とスカートが広がって、次の瞬間には音もなく、小さな体が芝生の上に降り立っていた。依然呆然としたままのクーノの目の前まで歩み寄ってきた少女は、にこりと微笑んだ。額の白い石が、蛋白石めいて虹色に煌く。
「クーノは、新しい話し相手さん? みんなは、何も言ってなかったけど」
「話し、相手……?」
「最近、毎日おんなじお話とお勉強ばっかりで、飽きちゃってたの。クーノは、どんな話を聞かせてくれるの?」
 全く、要領の得ない少女の質問。助けを求めるように研究員の男を振り向いた、が。
「あれ……?」
 男の姿は忽然と消えていた。
 クーノは、少女に向き直って問いを投げかける。
「さっきの人は?」
「え、さっきの人? 誰のこと?」
「白衣で、白髪交じりの金髪で……紫の、目の」
「だあれ、それ?」
 きょとんと目を丸くして、少女は小首をかしげる。まさか、一緒にいたのだから、気づいていないはずもないだろうに。ざわざわと、嫌な感覚が首筋の辺りを撫でる。
 一刻も早く、この場から離れるべきだ。理由もないけれど、ほとんど確信に近い警告が心身を支配し始めた、その時だった。
 きゅっ、とクーノの手を少女が握り締めた。柔らかい、温かな手。少女を見れば、少女はどこまでも無邪気に笑っていた。
「大丈夫だね、クーノは、あったかいね」
 そう言って、壊れやすい、大切なものを握るように、両手でクーノの手を握り締める。
「みんな、すぐ冷たくなっちゃうから。あったかくて、よかった」
 その言葉の意味をクーノが理解する前に、少女の唇がそっと開かれる。
 そこから漏れ出したのは、歌。
 柔らかなメロディ・ラインは、クーノの知っているものだ。そう、《鳥の塔》が定期的に募集しているキャンペーン・ガール……《歌姫》がよく歌っている歌だ。陳腐なメロディに、陳腐な歌詞。しかし、それを歌い上げる《歌姫》たちの声は、いやに聞くものの胸を突く。
 そして。
 この少女の声は、今、《歌姫》として大々的に知られている少女の声とそっくりだった。顔も姿も、全く似ていないというのに。
 クーノの存在を確かめるように、少女はクーノの指先に指を絡ませて。高らかに、愛の歌を歌いあげていく。その丁寧で伸びやかな歌声は、クーノの耳からするりと心の底にまで入り込んでいき……。
 ――さみしい。
 ふっと、一つの単語を、胸の奥に灯す。
 少女は微笑んでこそいたけれど、今にも泣き出しそうにも見えた。
 ――さみしい。
 ――さみしいよ。
 歌は、人と共にいる温かさ、共に歩む幸せを歌っているというのに。歌詞とは裏腹に、胸の中に浮かんでは消えていく、「さみしい」という言葉。声にならない少女の思いが、旋律を通して、驚くほど鮮明に流れ込んでくる。
 気づけば、クーノも少女の手を強く握り返していた。少女の手に、己のもう片方の手を重ねて、少女の体温を感じていた。さみしい、と叫ぶ少女の苦しみが、少しでも癒されるようにと祈って。
 それと同時に、「さみしい」という叫びに共鳴した自分の孤独が、そうすることで、少しだけ埋められるように。
 少女は、急に強く手を握られて、「ひゃっ」と驚きの声を上げて歌を止めた。それでクーノも我に返り、「ご、ごめん」と手を離そうとしたが、少女は首を小さく横に振って、今度ははにかむように、でも心からの喜びをはしばみ色の目に浮かべて、微笑んだ。
「ありがとう、クーノ」
 他愛の無い言葉、けれどそれが、クーノの胸に不思議と染みる。ありがとう、クーノ。そんな優しい言葉、誰に投げかけられたことがあっただろう。こんなちいさな、けれど確かな温もりを感じたのは、いつのことだっただろう。
 さみしい。それを自覚したのは、いつのことだっただろう。
 そこまで考えたところで、ふと、まだ大切なことを聞いていないことに、気づいた。
「そう、そうだ。君の名前、まだ、聞かせてもらってない」
 聞いてないの? と少女は不思議そうに首を傾げたけれど、すぐに小さく頷いて、赤い唇を開く。
「わたしは――」
 だが、少女の声は突然鳴り響いた警報音に遮られた。それと同時に、割れた声が部屋中に響き渡る。
『緊急事態、緊急事態! 侵入者発見!』
 侵入者。
 その物騒な言葉に、クーノは自分の立場を思い出す。少女は不思議そうに空を見上げ、なおもクーノの手を握り締めていたけれど。
 その間にも、どこかに設置されているのであろう拡声器から、研究員と思しき男女の切羽詰った声が、放たれる。
『侵入者だと? 一体どうやって!』
『早く排除しないと、《歌姫》への干渉が……!』
 
 
「二十一時ジャスト」
 突然、クーノの思考を、声が貫いた。途端に、頭の中に浮かんでいたイメージは、ぱっと虚空に霧散する。
「交代の時間だぜ、クーノちゃん」
 顔を上げれば、檻の奥に座り込んだままの罪人が、黄ばんだ歯をむき出しにしてニヤニヤ笑っている。目を逸らして時計を見ると、二十時五十九分四十七秒。どちらが正しいのかなんて知ったことではないが、交代の時間なのは間違いなかった。
 そういえば、あの後、自分はどうなったのだったか。思い出そうとしても、記憶は何故か白い霞に包まれてしまう。
 とにかく、まだ、交代の相手は来てくれないのか。閉ざされたままの扉に視線を向けたその時。
「そうだ、一つだけ」
 囁きの声が、小さな部屋に響き渡る。
「お姫様のことは、とっとと忘れろ。お前が見たのは夢、幻、お前が関わっていい世界の話じゃねえ」
 クーノは、もはや監視者に課せられた「目を逸らし、耳を塞ぎ、口を噤む」の大前提をすっかり忘れて、男を見る。
 男は、笑顔を消して、クーノを見上げていた。髪の間から覗く瞳の青さが、クーノの脳裏に焼きつきそうなほどに、真っ直ぐ。
「俺は、忘れられなかった。忘れられなかったから、今、ここにいる」
 こつこつ、と。男は拘束服越しに、後ろ手に己が背にしている壁を叩く。己が封じ込められている、小さな檻を示す。
「忘れなかったことに後悔はねえ。頭ん中弄くられて、アイツの存在を無かったことにするくらいなら、アイツを殺した連中皆殺しにして、俺一人がアイツを覚えていればいい。今だって、そう思ってる」
 男が指す「アイツ」が誰を指しているのか、クーノは知らない。クーノは、この罪人がどのような罪を犯したのかは知っていても、その動機は知らなかったから。
 そして、男もまた、詳細を語る気などさらさらなかったのだろう。ふ、と。力なく微笑んで、言葉を続ける。
「だが、お前まで、同じ道を辿ることはねえよ、クーノ。早く引き返せ、俺みたいに取り返しがつかなくなる前に」
 どこからどこまでが冗談で、どこからどこまで狂気かもわからない男の言葉だ。取り合うのも馬鹿げている。そう、脳裏の冷静な部分が呟くけれど、それ以上に、男の言葉に引きずられて頭の中に浮かぶ少女のイメージが、クーノの心を揺り動かして止まない。
「……でも」
 さみしい。
 さみしいよ。
 リフレインする歌、少女の、心からの言葉。
「でも、あの子は」
「忠告はしたからな、クーノ」
 男の声は、いつになく静かで、厳しかった。
 こつこつ、と。遠くから足音が聞こえてくる。交代の兵隊がやってこようとしていた。途端に男は顔から力を抜き、箍の外れた表情に戻る。
「そうだ、なあクーノ。お前、アイスクリームは好き? 俺様、チョコミントのアイスが食べたいなあ。今度こっそり持ってきてくれよ。え、無理? そう言わねえでさあ。なめらかで冷たくてあまーいやつだ、頼むよ」
 気づけば、また、いつも通りの意味の無い言葉の羅列が始まっていた。
 果たして、それが本当に「無意味」なのかはわからないまま――クーノは、いやにぼんやりとした心持ちで、交代の兵隊を迎えた。

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