幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

薄闇に沈めば
 この町は、今日も情報に満ちている。
 
 ハイスクールからの帰り道、彼はふと顔を上げた。
 別に何があったというわけでもなく、ただ自然に空を見上げる。正確には薄暗い空を貫くように聳える白磁の塔……裾の町、そして終末の国の中心である『鳥の塔』を。
 塔の壁面には巨大なテレヴィジョンがいくつも取り付けられ、ある画面では無機質な壁を背景にキャスターが今日の出来事を早口に語る。違う画面では、けばけばしい色の光に包まれて、最近流行の芸人が下らない芸を披露している。もう一つの画面では……と、全てを見ていてはきりが無い。
 天気予報でもうすぐ雨が降るということを確認し、足を早める。
 この町に降る雨には、軽い毒性がある。別に浴びたところで人体に大きな影響を及ぼすことは無いというのが塔の発表だが、それでも気分のいいものではない。傘を家に忘れてきてしまっただけに、尚更だ。
 道を折れ、光と音とで町のありとあらゆる情報を伝えるテレヴィジョンに背を向ける。国の象徴となる新たな《歌姫》候補を探している、という声を聞くともなしに聞きながら、家への道を急いだ。
 歩きなれた道を行き、家の玄関が見えてきたところで、重たい色の空から落ちてきた灰色の雨がぽつりと地面に点を描く。鞄を傘代わりにして屋根の下に駆け込み、キィを照合して扉の内側に滑り込んだ。
 扉の外よりも少しだけ濃さを増した薄闇が辺りを満たし、肌寒さに小さく震えた。
 家の中に人の気配は無い。父も母も働きに出ているこの家ではいつものことだ。幼い頃は毎日のようにペットが欲しいと言っていたが、父も母も自分もいない昼間はペットが寂しい思いをするだろう、と諭されて止めたのであった。
 外の世界を満たす騒がしさとは嘘のように静まり返った家の中で、彼はまず電気と暖房をつけて薄闇と肌寒さを追い払う。鞄を投げ出して楽な格好に着替え、それから今日の夕飯の支度を始める。とりあえず、冷蔵庫を覗き込んで今日作るものを決めた。明日にはスクールの帰りに色々と仕入れなければ、とも思いながら。
 火を起こし、料理をしているうちに暖房も効いてきて部屋が暖まってきた。片手に鍋の取っ手を握ったまま部屋の壁にかけられたテレヴィジョンをつけると、何とも物騒なニュースが耳に入ってきた。
『……外周北四区に脱走した殺人犯が逃げ込んだという……無差別の犯行……被害者は……』
 外周北四区、というとここからそう遠くは無いな、とぼんやり思う。とはいえ、ここは外周に近いといえ、塔の目が届く内周の一区画。内周と外周に明確な壁があるわけでもないけれど、治安はまるで違う。
 それを差別だとか塔の怠慢だとか、考えてたことがなかったわけでもないけれど……そんな「社会」と「道徳」の授業は、エレメンタリスクールに通ったことのある誰もが経験することだ……正直、今でも実感の湧かない話ではある。
 内周に生まれ育ち、内周でも中の中くらいのハイスクールに通い、家に帰ってきたら食事を作って、帰ってきた親と共に食事をして、寝て、起きてを繰り返す。それだけの毎日を繰り返す自分にとって、外周の出来事というのは見えない壁の向こうの話のようで……内周の連中が自分も含めてそんな意識だから内周と外周の関係が一向に改善しないのかもしれない、とは、思った。
 思ったところで、結局何も変わらないのだけど。
 人殺しの話、行方不明の話、まあいつものことだが何とも暗いニュースばかりだと思いながら、炒めものを皿の上に載せて、保存用のシートをかける。なるべくならば、親が帰ってきてから食べたい。遅くなるようならばいつも通り連絡が来るだろうし、とりあえず明日の予習でも済ませておこうと思って――
 ふと気づけば、つけっ放しだったテレヴィジョンが午前零時を告げていた。テーブルに突っ伏して、眠ってしまっていた、らしい。目をこすって顔を上げると、シートがかかったままの皿がテーブルの上にある。
 ぼんやりとした頭を振って部屋を見渡してみるけれど、全てが眠ってしまった時のままだ。父の気配も、母の姿も無い。メール・ボックスに自分宛の連絡が無いか問い合わせてみるも、あるのは行き着けの店からのダイレクト・メールだけだ。
 ……仕事が忙しいのだろうか?
 両親にはよくあることで、彼らは仕事がいっぱいいっぱいになると三日間くらいは連絡を全くよこさずに帰ってこないことがある。流石にそのくらいになると心配になって彼から連絡をつけて全くもって無事であることを確認するのだが。
 とりあえず、両親にメールだけ投げて、夕食にしては遅すぎる食事を採って。明日の授業が初っ端からテストであったことを思い出し、慌てて布団の中に潜った。ふつり、ふつりと浮かんでは消える、思考にも似た何かがあったような気がするが……目を閉じてしばらくすると、それも消えて意識は完全に闇の中に落ちていった。
 
 翌朝、目覚めを告げるベルで目を覚ます。
 そして、己の部屋を一歩出た瞬間に、まだ両親が帰ってきていないことを、理解した。投げたメールの返信もなく、両親からのコールもない。
 家の中は十分に暖かいというのに、不意に襲ってきた肌寒さに小さく震えて……それを忘れようと朝食の準備を始める。いつもの通りに、何処までも、いつもの通りに。
 そう、今日は、帰りに食材を調達しなくてはならなかったのだ。忘れないようにしなければ。忘れない、ように。
 食事を採り、スクールに向かう準備を終えて。出掛けに、試しに父親に連絡を試みる。もしかすると仕事の邪魔かもしれないが、その時はその時だ。連絡先の一覧を広げて、コール。目を閉じて、コールの音を数えて……結局、父親がコールに応えることは無かった。母親にコールを試みても、全く同じ。
 ひやり、と。背筋に何か冷たいものが走る。
 いや、どうということはない。今日には何事も無かったかのように、帰ってくる。きっと、きっと。自分自身に言い聞かせて、扉を開けて駆け出した。何もかもを振り切るように走る彼を、白磁の塔にかかった無数の画面が見下ろしていた。
 天気予報は、今日も夕方から雨だと言っていたけれど。
 彼の耳に、そんな言葉は聞こえていなかった。
 
 連絡先指定。目を閉じる。コール。
 一回、二回、三回……二十回。
 何度目だ、これで何度目になった。
 苛立ちよりも、ただ、ただ、薄い闇のように纏わりつく冷たい感覚に震えながら、コールの音を数える。一度切って、また繋げようと試みて、それをどのくらい繰り返しただろう。
 ――あれから、一週間。一週間だ。
 彼は自室の机の上に突っ伏した姿勢のまま、ただ、ただ、コールを続ける。
 一週間の間、もちろん何もしなかったわけではない。スクールの担任に事情を話し、警察にも届けた。
 そこで、初めて気づかされたことがある。
 自分は、両親の仕事場の連絡先も、それどころか父と母がそれぞれ何処で何の仕事をしていたのかも知らなかったのだという、事実。
 一体、今まで自分は何を見ていたというのだろう。何もかもをわかったつもりにしておいて、いつものことを当たり前だと思い込んでいた。だが、その「いつも」が崩れた瞬間に、自分がどれだけ曖昧な日常に立っていたのかを、思い知らされて。
 警察は両親を捜索すると約束してくれたけれど、期待はほとんど出来そうになかった。話をしているうちに彼らの態度が投げやりなものに変わったことくらい、気づいていたから。行方不明者なんて、毎日のように出ているのだ……そう、話を聞いた警察官の一人がこぼしたのを、聞いた。
 警察にとっては、両親など「不特定多数の行方不明者のうちの一人」でしかなかった。当然だ、今までの自分だったら、同じことを言っていただろうから。何もかもが新聞の文面の、もしくはテレヴィジョンの向こうの出来事。自分の手の届かない出来事など、架空と何も変わらない。変わらないからこそ、誰も気に留めない。
 コール中もつけっぱなしの小型テレヴィジョンが、裾の町での失踪者のことをちらりと語ったような気がしたが、話はすぐに塔の『歌姫』の話に移ってしまった。
 ああ、そうだ。誰も自分が本当に望んでいることを、教えてはくれない。自分以外の誰も、それを知りたいとも思っていないのだから――
 その時、コールの音がふつりと止み、通信が確立した。
 ばっと顔を上げて、その向こうにいる「誰か」に向かって声を投げかけようとして……
『――このナンバーは、存在しないものとなっております――』
 耳の奥に響く機械的な声に、今度こそ、ただただ愕然とするしかなかった。
 薄闇の中に溺れるような感覚と共に、彼は天井を仰ぐ。
 そこに、求めるものはない。求めるものは、何処にも無くて……
 
 
 それから、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎて……両親は、まだ、帰ってこない。
 
 仕事へ向かう道すがら、彼はふと顔を上げた。
 別に何があったというわけでもなく、ただ自然に空を見上げる。正確には薄暗い空を貫くように聳える白磁の塔……裾の町、そして終末の国の中心である『鳥の塔』を。
 塔の壁面には巨大なテレヴィジョンがいくつも取り付けられ、ある画面では無機質な壁を背景にキャスターが今日の出来事を早口に語る。違う画面では、けばけばしい色の光に包まれて、最近流行の芸人が下らない芸を披露している。もう一つの画面では……と、全てを見ていてはきりが無い、とわかっていても、彼は道の真ん中に立ち止まってじっとテレヴィジョンを見つめ続ける。
 垂れ流される絵と音、そのどれもが、彼の両親については一言も語らない。そんなもの、はじめから無かったのだといわんばかりに、ニュースキャスターは彼の知らない何処かの誰かの事件を語り続けるばかり。
 そう、この町は今日も情報に満ちている。
 けれど、本当に知りたい「真実」は何一つ与えてはくれない。
 だから――
「どうしたの、辰織? 変なとこで立ち止まらないでよ」
 声をかけられて、はっと我に返る。テレヴィジョンを見ていたはずの視界は、いつの間にか紫苑に染まっていた。紫苑色の双眸が、彼の瞳をまじまじと覗き込んでいたのだ。
 彼は「うわっ」と思わず一歩下がってしまいながら、慌てて声を上げる。
「わ、悪い。ぼーっとしてた」
「もう、そんなんじゃ特ダネが逃げちゃうよ。早く、早く!」
 腕を引かれて、彼はたたらを踏むように一歩を踏み出す。その手の中には新品の写真機。同じように写真機を携えた女は、金色の髪を靡かせて笑う。
 ……何もかも、何もかも。まだ、彼にはわからない。
 だが、わからないままにしておくのは、もう終わりにしよう。真実は誰かに与えられるものではない、己で掴み取るものだ。
 その思いを確かめて、写真機を強く、握り締める。
「ああ……今、行く」
 
 ――安島辰織、十八歳。
 彼が語るべき「物語」が今、薄闇の中で、幕を開ける。

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