幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

行きて帰りし後始末(3)
 タブレットの上に指を走らせる。普段はキーボード操作ゆえに違和感はあるが、それでもいつもの手続きだ。
 潜航装置から延びるコードをいたるところに取り付けたヌイさんは、助手席のシートを倒して横になっている。一体どういう仕組みでこの何の変哲もないコードが肉体と意識とを切り離すのか、相変わらず謎に満ちてはいるが、今考えたところで仕方がない。
 画面に表示されるボタンを叩いて、分離シーケンスを開始。指定した座標――車の外、フロントガラスの向こう側に、ヌイさんの意識体を投射する。
 シーケンスは一瞬で終了した。気づけば、窓の外にはヌイさんが立っていた。長く伸ばした白髪交じりの黒髪を後ろで無造作に縛り、派手極まりないアロハシャツに、明らかにサイズが合っていないぶかぶかなズボン。いつものヌイさんだ。今もなお助手席に横たわっているヌイさんと、全く同じ姿をした意識体。
 意識体のヌイさんは、腕を回したり、足をぶらつかせたりしながら身体の動きを確認していたが、やがて開け放した窓から「よし、上出来」という声が聞こえてくる。俺は一旦タブレットから視線を離し、窓から身を乗り出してヌイさんに言う。
「行けそうっすか?」
「だいじょぶ。鞄取って」
 後部座席のやけに重たい鞄を取って、近寄ってきたヌイさんに渡す。意識体とは、本人のイメージに基づいて形作られるかりそめの肉体に過ぎない。ただ、今、一瞬だけ触れた指には、確かに人並みの温度があった。俺の気のせいかもしれないけれど。
 鞄を肩から掛けて、ヌイさんは常と何も変わらぬ調子でてきぱきと問いかけてくる。
「視覚と聴覚のトレース、確認できてる?」
「できてますね。めっちゃ俺映ってるし聞こえてます」
 タブレットにはコンソールのログと、ヌイさんの視界が映し出されている。つまり、タブレットを覗き込んでいる俺の姿が。潜航装置と結びつけられた意識体の視覚と聴覚は、こうして観測者に共有される。これこそが、『こちら側』の俺たちが『異界』の姿を知る最大の手段だ。
「ここを離れたらアタシにはもっちーの声は届かないんで、よろしく」
「つまり、いつも通りっすね」
 ひとたび『異界』に潜ってしまえば、『こちら側』からの指示は不可能。これは、ここにある潜航装置が小型化のために機能を限定しているから、ではなく、俺たちが普段使っている潜航装置がそもそもそういうものなのだ。
「通信機能って、そんなにつけるの難しいんです?」
「んー、つけらんなくはないと思うんだけど、更にラック二段分くらい必要になるかも」
「天井突き破りますね。二つ目のサーバーラック用意します?」
「あの研究室、如何せん狭いのよねぇ」
 どうも、ヌイさんなりに最低限必要な機能を選別した上での、現在の仕組みであるらしい。この辺り、実現可能かどうかを判断できるのは開発者のヌイさんだけなので、俺はどこまでもヌイさんの言葉を信じるしかないのだが。
「それじゃ、いってきまーす」
 散歩にでも出かけてくるような気軽さで、ヌイさんはふらりと歩き出す。尻尾のような黒髪を背中に揺らしながら、歪みゆく道を歩んでいく。
 しばらくは、運転席からフロントガラス越しにヌイさんの後ろ姿を眺めていたが、それが遠ざかっていくのを確認して、今度はタブレット端末に映し出された、ヌイさんの目を通した風景に視線を落とす。
 ヌイさんは真っ直ぐ前を見て歩き続けているようだった。車の中から見えている光景は、奇妙な空の色をはじめ、いくらか現実からかけ離れてはいるが、まだ『こちら側』の住宅街だとわかる。だが、ヌイさんが見据えている先は、もはや『こちら側』の風景とは似ても似つかないものだった。
 地面は波打ち、ひび割れたアスファルトから何とも形容しがたい、色も形も様々な不思議なオブジェが生えている。建造物は既にほとんどあるべき形を失っていて、有機的な何かに変容している。内側に何か血液のようなものが流れているのか、規則的に脈打つそれらは、酷く気色が悪い。俺は車の中からヌイさんの視界を見ているだけだが、ヌイさんは『こちら側』を侵食する『異界』の空気を肌で感じているに違いない。わずか、ヌイさんが息をつく音とともに。
「いやー、ほんと、派手にやっちゃったもんだわ」
 と言う声が、端末から聞こえてきた。
「聞いてる、もっちー? 一人だと寂しいから、ちょっと昔話でも聞いてってよ。聞き流してくれていいから」
 もちろん、俺が返事したところでヌイさんには届かない。だから、黙ってヌイさんの視界をタブレット越しに見つめる。ヌイさんはいつしか足を止めて、おそらく『こちら側』ではそれなりに背の高いマンションか何かであったのだろう、奇怪な塔を見上げていた。どうやらここが目的地である、かつてヌイさんが住んでいた家のようだ。
 ヌイさんの視界を通しても、人の気配はどこにもない。ただ、蠢くものの気配はそこかしこにある。それは本来あるべきものが歪んでいる最中なのか、それとも何らかの意思を持つ「何か」がそこにいるのか。俺には判断がつかないまま、ヌイさんはもはや建造物とは言えないそれに向けて一歩を踏み出す。
「アタシ、昔っから恋って言葉が嫌いなの」
 突然、何を言い出したのかと思った。もしヌイさんがここにいれば、間違いなく聞き返していたところだ。いや、確かにヌイさんの肉体はここに残されているが。
「惚れた腫れたなんて、馬鹿馬鹿しいと思ってたのよ。なんつーか、あれよ、美しくないなって。人が正気でなくなるとこを見せられても、滑稽ではあるけど気持ちいいものじゃあない」
 話し出しは唐突に過ぎるが、言っていることそれ自体は、「ヌイさんらしい」と思った。ヌイさんは基本的にどのような話でも愉快そうに聞いてくれるが、俺ののろけ話だけは絶対に聞きたがらない。曰く「面白くない」から。それは、単なる僻みか何かだとばかり思っていたが――。
「この世はあまりにも楽しいことに満ちてるのに、ただ一人に狂って視野を狭めるなんて馬鹿のすることだわ」
 ヌイさんの言葉は、恋に恋してる最中の俺に向けるにしちゃ辛辣に過ぎる。だが、俺への言葉というわけじゃない、ということは、次の言葉ですぐにわかった。
「……って、思ってたのよ。アレと出会うまでは」
 その「馬鹿」という言葉は、まぎれもなく。
「恋って落ちるものってほんとなのね! 嫌んなっちゃう! アタシだけは絶対にそんなことないって思ってたのに!」
 ――ヌイさん自身に向けた、言葉なのだ。
 ヌイさんはやかましく喋りながらも歩き続ける。かつて建造物であったそれに足を踏み入れれば、生物の内臓のようなぬめぬめとした空間がヌイさんを迎える。それでもヌイさんは迷うことなく、階段らしき段差に足をかける。それも、イソギンチャクの触手を思わせる何かに覆われていて、俺なら絶対に躊躇って足を止めるところだったが、ヌイさんは迷わずそれらを踏みつけて上ってゆく。
「アレと出会ってから、アタシはもうアレのことしか考えられなくなってた。どうすればアレを振り向かせられるのか。どうすればものにできるのか。すごーい、恋する乙女みたいだわ!」
 本当に乙女ならよかったのだが、ヌイさんは残念ながら貧相で不気味なおっさんである。いや、当時は「おっさん」ではなかったのかもしれないが、少なくとも乙女であったことは一度もないはずだ。
「で、しゃらくさい駆け引きは向いてないから、率直に告白したわけよ。振られたらまあその時だな、って思ってた」
 だが、現実は想像の斜め上どころか別次元だった、とヌイさんは笑う。
「ねえ、信じられる? そいつが、『異界』からの来訪者だった、なんて! そりゃ恋にも落ちるってもんよ、『この世の楽しみ』以上のものを見つけちゃったんだから」
 地球の男に飽きたところよ、という懐かしのフレーズが頭をよぎる。いや、ヌイさんの言葉では相手が男かどうかすらはっきりしないし、『異界』の存在に『こちら側』でいう性別という概念があるのかも定かではないのだが。
「結果として、振られた……、のかしら? 今でもよくわかんない。アレは、いつの間にかいなくなってたから。アタシをめちゃくちゃにした、という事実だけを残して、ね」
 めちゃくちゃ、というのは相当オブラートに包んだ表現で、実際にはヌイさんが人並みに生きられなくなる程度の「何か」が執り行われた。ヌイさんの人格をことごとく凌辱し破壊する、狂気に満ちた、冒涜的な、何かが。
「ふざけんじゃないわよ、好き勝手やるだけやってトンズラとかありえなーい!」
 と、威勢の良い声とともにヌイさんの小さな握り拳が振り上げられる。窓一つないのに不思議とぼんやり明るい、ぬめぬめと脈打つ天井に向けて。けれど、その拳はすぐに力なく落ちて、指がほどける。
「――ってのは、単なる建前で。結局のところ、アタシはアレを諦めきれなかった。恨んでないって言ったら嘘になるけど、もう一度会いたいって気持ちの方が断然大きくてさ」
 だから、アレを探しに行こうと、思った。
「アレから貰った知識があれば、行けるって思った。どこにでも行けるって、確信があった。いくらでもアイデアは浮かんだ。それがアタシのアイデアなのか、アレのアイデアなのかはわからない。今となっちゃ、そこに明確な区別はないんだと思ってる」
 俺がヌイさんの頭の中を知るのは不可能だ。ただ、過去にヌイさん本人から聞いた話によると「常にここではないどっかに繋がってる感じ」とのことで、もしかすると今まさに、どこか遠くにいるヌイさん曰くの「アレ」と頭の中身を共有しているのかもしれない。
「でも、さっきも言った通り、アタシはまともじゃなかった。今もだけど、今以上に。だから、こんなことになっちゃったわけだしね」
 言いながら、ヌイさんはぐるりと視線を巡らせる。もはや建物の構造そのもの以外に『こちら側』の痕跡がひとつも残っていない、『異界』に蝕まれた世界。ヌイさんは言ったはずだ、これが自分のやらかしなのだ、と。
「アタシは、仕事の存在も忘れて、潜航装置のプロトタイプを作ってた。体は動かなくなってくるし、何もかもが億劫になってくるし、それでも、体と頭が動く限り開発をしてた。こいつが完成すれば、アレに会えるって疑ってなかった。……あずみがうちに来たのは、その頃」
 |水上《みなかみ》あずみ。俺たちのリーダーであり、ヌイさんを見出して、プロジェクトに招いた最大の功労者。
 きっと当時から背筋を凛と伸ばしていたのだろうあの人は、ヌイさんのかつての同僚から「様子のおかしい」ヌイさんの話を聞きつけてやってきたのだという。その時のヌイさんの惨状を、俺は具体的に想像することはできないし、想像したくもない。『異界』の存在に惹かれて人間を辞めかける奴ってのは、いつだって見られたもんじゃないことを――俺は、俺自身の体感としてよく知っている。
「アタシの頭がおかしいってことを、あずみがわからなかったはずはない。でも、あいつ、本気でアタシの話を聞いてた。疑わなかった。それどころか、他でもないアタシの知識と技術が必要なんだって、口説いてきた」
 そこで、やっとヌイさんは手を止めたのだという。「アレ」と再会するためだけにあったヌイさんの時間を、少しだけなら我らがリーダーに貸してもよいかもしれない、と思ったのだという。ヌイさんは明言しなかったが、それはきっとリーダーへの恩義であり、借りを返す行為でもあるのだろう。本気で向き合って、自分の目を覚まさせてくれた、リーダーへの。何だかんだ律儀なひとなのだ、ヌイさんは。
 かくしてヌイさんは、リーダーから差し出しされた手を握ることで、『こちら側』にアンカーを打った。『異界』に引きずり込まれないように。今はまだ、向こうに行くにはちょっと早いのだ、と言って。
「そこで手を止めてなかったら、多分、アタシはとっくに『こちら側』にはいなかった」
 ――そして、それでよかったのかどうかは、今のアタシにもわからない。
 ヌイさんはぽつりと言った。
 事実として、ヌイさんは今ここにいて、まだ「アレ」とは再会できていない。どれだけ恋焦がれようとも、いくつもの世界に隔てられていては、背中どころかその影を掴むことすら難しい。それで諦めきれるならよかったのだろうが、ヌイさんは、間違いなく、困難であるからこそ燃えてしまうタイプのひとだ。
 つまるところ、ヌイさんが俺ののろけ話を嫌うのは、やっぱり単なる僻みなのだ。「単なる」と言うべきシンプルさでありながら、あまりにも根が深い、僻み。もはやどこにいるのかもわからない人を思い続けるヌイさんにとって、他人ののろけ話というのは苦痛でしかないのだろう。
 とはいえ、まだヌイさんの恋と挑戦は終わっていない。今この瞬間は、まだ、リーダーへの「貸し」――もしくは「借りを返す」日々が続いているから、一旦手を止めているだけで。なんなら、プロジェクトへの参加と潜航装置の作成、日々の『異界』の観測だって、「アレ」を目指すための足掛かりとして考えているに違いない。
「あずみに連れられて、アタシはここを離れた。まずは療養が必要だったから。……ただ、プロトタイプを野放しにしちゃったのは失敗だった。プロトタイプっつっても理論的には完璧だった。問題は、今の潜航装置のように、『異界』に意識体だけを送り込むシステムではなくて、無差別に『異界』の扉を開くシステムだったこと」
 とはいえ、ヌイさんにとってはそれで十分だったのだろう。少なくとも、かつての、我を失っていたヌイさんにとっては。
「結果として、アタシがプロジェクトに加わったときには、もう、ここは人の住める場所じゃなくなってた」
 唯一制御できるヌイさんを失った潜航装置のプロトタイプは、『異界』への扉を開き続けた。常に『異界』と接触していれば、そこもまた『異界』へと変質していく。それは、この世ならざる知識と接触し続けて不可逆的に変化してしまったヌイさん自身とよく似ている。
「お上にはめっちゃ怒られたし、今も睨まれてる。お上の許可が無いと研究所を離れられないのは、実のところこれが大きな理由でね。アタシがこういうことを『できる』ってこと、よーく知ってるのよ、あいつら」
 確かに、ばかすか『異界』への扉を開く能力なんて、あまりにも危険に過ぎる。それこそ災害をまき散らすのと同義、というのは、原型も留めぬほどに歪み切ったこの土地を見ているだけでもわかる。
 それでもヌイさんが限定的にでも自由を許されているのは、ひとえに「替えが利かない」の一言に尽きるのだろう。お偉方がヌイさんの危険性ともたらす利益とを天秤にかけ、かろうじて後者が勝った。それだけの話。もしかすると、それもリーダーがヌイさんの有用性をカードに交渉を試みた結果なのかもしれないが。あの人は本当に理想的なリーダーなのだ。一部の致命的な欠点を除けば。
「ともあれ、この失敗はアタシの心残りであり続けたってわけ。でも、一度開き切っちゃった『異界』への扉を閉ざすのは難しくてさ。いくつかアイデアはあったけど、形にするのも時間がかかった」
 仕事も忙しかったしね、と言うヌイさんだが、そこに関しては首を傾げざるを得ない。俺はヌイさんが日々レトロゲーのRTAを配信していることも知っているし、やたら解説が上手いことも知っている。もちろん、それがヌイさんの息抜きとして必要な行為なのはわかるので、責める気にはなれないが。
 そして、このタイミングでヌイさんが動いたのは納得ができる。今、俺たちのプロジェクトは凪の時期にある。それまでの異界潜航サンプルがいなくなってしまったから。観測結果の分析、仕分けなど仕事はいくらでもあるが、次のサンプルが選定されるまで、潜航装置を利用した『潜航』は行われないのだ。
 だから、今がチャンスだと思ったのだろう。ヌイさんはあえて言葉にしなかったが、極端な話――、自分に何かがあっても、そこまで深刻な影響をもたらさないタイミングだとして。
 思わず、タブレットを握る手に力が籠る。ヌイさんが、このまま戻ってこられなくなる可能性を考えていないはずもない。現在プロジェクトで採用している潜航手順を踏むことでリスクを減らそうとはしているが、それでも、判断を誤れば意識体は簡単に傷つき、死に至る。今まで確認されたことはないが、『異界』に完全に取り込まれて肉体とのリンクが切れることだって、可能性としてゼロとは言えない。
 今、ヌイさんの命綱は俺の手に握られている。その事実を改めて認識して、自然と手のひらに汗がにじむ。
 リーダーはずっとこんな重圧を背負っていたのか。相手は使い捨てを想定された異界潜航サンプルとはいえ、それでも「人間」であって。
 一人の命を手に握らされるなんて、いいことじゃない。それだけは、はっきりとわかった。
「安心なさいな」
 そんな、届くはずもない俺の思いに気づいたのか、否か。ヌイさんは軽やかに笑う。
「まだ『こちら側』での仕事は終わってない。だからあんたに命綱を頼んだのよ、もっちー。あんたなら、確実に引き上げてくれるだろうから」
 本当に、卑怯なひとだ。
 俺がヌイさんの言葉に流されるのを知っていて、俺がいざってときに断れないのを知っていて、|わざと《、、、》俺に頼んだに違いないのだ。だって、こんなの、リーダーにだって荷が重い。車の運転ができるかどうかなんてちゃちな理由じゃない――いや、ヌイさんは案外、ほんとに車が運転できるかどうかで判断してたかもしれないが。リーダーの運転、信じられないもんな。
 それでも、他のメンバーの誰でもなく俺に頼んだのは、そういうことだと、わかってしまう。
「後で、飯のひとつやふたつ奢ってくださいよ」
 届かないとわかっていても、語り掛けずにはいられなかった。俺はめちゃくちゃ食べるんだ、ヌイさんの財布の中身を空っぽにしてやる。どうせヌイさんが金を使うところなんてほとんどないのだし、経済を回すのだから悪い話じゃないだろう。きっと。
「あーめっちゃ何か言われてそう。後で聞くわ。そのためにもきちんとケリをつける。アタシだって、タダ働きは好きじゃないんだけど」
 ヌイさんは言いながら、足を止める。そこにあったのは、扉だった。この場合は言葉通りの扉。内臓めいた気色悪い風景の中で、不自然なまでのマンションの扉。違和感しかない金属製のドアノブに、ヌイさんは迷うことなく手をかけて、
「後始末くらいは、していかないとね」
 ――開け放つ。

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