幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

行きて帰りし後始末(1)
 ばりぼりばりぼり。助手席から聞こえてくる派手な音に、思わず溜息が出る。
「あの」
「なーに」
「人の車で遠慮なく菓子貪るのやめてくれません?」
「いいじゃないの、汚さないようには気ぃ遣ってるし。ひとついる?」
「いただきます」
 赤信号で停止したところで、スティック型のスナック菓子が差し出される。油で揚げたタイプのスナックを持ち込まなかったあたり、「気を遣っている」という言葉は嘘でもないらしい。かろうじて。
 受け取った菓子をぽりぽりと咀嚼しながら、助手席を見やる。すると、ヌイさんのぎょろりとした目とばっちり視線が合う。
「何よ」
「いや、何で俺、ヌイさんとドライブデートしてんのかなぁって」
「いきなり我に返らないでくれる? どうせ愛するカノジョは用事あったんでしょ、ならたまには仕事仲間のお願いにも付き合うもんよ」
 そりゃそうなんですけど、と二度目の溜息を吐く俺に、ヌイさんはにこりと笑いかけてくる。本人の中では精いっぱいの「かわいい笑顔」のつもりなのかもしれないが、どう見ても悪魔じみている。頬骨の張った輪郭に肉付きの悪い頬、その血色がよかった日を俺は知らない。低い鼻と薄い唇という平坦な顔の中で、双眸だけが妙に大きく、かつ、ぎらぎらと強い光を宿している。悪魔、そうでなきゃ飢えた獣。そんな、貧相かつ不気味なおっさんであるヌイさんは、もう一つスナック菓子を差し出してくる。
「それとも、何? あずみに頼んだ方がよかったかしら?」
 その口から放たれるのは、面構えにさっぱり似合わないベタベタな女言葉。声変わりを中途半端に経験したかのような高めの掠れ声が、更にぱっと見の印象を裏切っている。
 スナック菓子を今度は大きめに一口。ヌイさんに倣って大げさな音を立てて噛みしめながら。
「リーダーに頼むのは完全に命知らずっすよ」
 我らがプロジェクトリーダーの、見た目だけなら「クールビューティー」と言うべき凛とした姿を脳裏に描く。お世辞を抜きにしてとびきりの美女で、広い知識とよく回る頭を持つ切れ者で、俺たちのような奇人変人を束ねるリーダーシップも兼ね備える立派な人物だと思うが、あの人が車を無事故で運転できるかと問われれば、絶対に否と言い切れる。実際に乗ったことがなくても断言できる。そういう人だ。
「わかってて言ってんのよ。っつーかあいつが免許持ってるの未だに信じらんない」
「免許取るまでに何人轢き殺したんすかね」
「ねえ? 担当の教官がかわいそうだわ」
 もちろん「轢き殺した」というのは言葉の綾だが、そうであってもおかしくはない、と思わせるほどの鈍くささ。あの人がどうやって免許を取ったのかは当プロジェクトの七不思議の一つだ。
「っつーか、今更ですけど、ヌイさんは免許持ってないんすか」
「持ってたわよ、取り上げられたけど」
「あー……」
 確かに、ヌイさんはリーダーよりはよっぽど上手くやるだろうが、リーダーとは全く別の理由でハンドルを握らせたくない。取り上げられたのも、つまりそういうことだろう、きっと。
「信号、変わってるわよー」
 いつの間にか、進行方向の信号が変わっていたようだ。一旦ヌイさんから正面に意識を戻す。相変わらず横からはばりばりとヌイさんがスナック菓子を貪る音が聞こえてくるが、この際気にしないことにした。本人が「気を遣っている」と言った以上は食べかすをまき散らすような真似もしないだろう、と信じて。
 ヌイさんは俺の同僚というか、プロジェクトに参画した時期では二、三年ほど先輩に当たる|技術担当者《エンジニア》だ。ただ、この業界の研究では俺の方が断然経歴が長いこともあり、先輩というよりは年上の同僚、というのがヌイさんに対する俺の認識。ヌイさんから俺に対する認識もそう変わらないだろう。
 口が裂けても友人とは言い難い、単なる仕事仲間。ただ、共にいてそれなりに心地いい、適切な距離を保った関係、と言うのが正しいか。彼女にまつわる話を蛇蝎のごとく嫌って聞いてくれない以外は、とても気安く話しやすい同僚。ヌイさんとは、そういう人だ。
 ただ、いくら話しやすいからといって、お互いに全てを曝け出すような関係でもないのは、そうで。
「で、これからどこに何しに行く気なんすか。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないすか?」
 俺は、ヌイさんがわざわざ休日に呼び出してきた理由を、何一つ知らないままここにいる。
 次の休日に車を出してくれない? と声をかけてきたヌイさんは、言葉こそ軽い調子だったが、やけにシリアスな目をしていた。普段から研究所に住み込んでいるヌイさんが、自ら敷地の外に足を運ぼうとするのは珍しい。大概のことなら研究所で十分、と常日頃から豪語しているヌイさんだから、余計にそう思うのかもしれない。
 当然ながら頼まれた時点で目的を問いはしたが、上手く誤魔化されてしまったのだ。ひとたびヌイさんのペースに乗せられればそこから逃れるのは至難の業で、あれよという間に今日この日に車を出すことを了承させられてしまったのだった。もちろんこれは、「ヌイさんならそうそう悪いようにはしないだろう」という信頼あってのものだが。この人はちょっと頭はおかしいが、自他にとって極端に不利益になることは嫌うから。
 だから、今度こそ教えてもらえると思ったのだが――。
「着けばわかるわ」
 と、つれないものだ。
「でも、何かあるような場所じゃねっすよね、行先」
 ヌイさんがカーナビに打ち込んだ住所と、住所から割り出された目的地の地図を見る限り、単なる住宅街だ。周辺に目立った施設があるようにも見えないし、ヌイさんが何を思ってその場所を指定しているのか、全く想像がつかない。
「後ろに積んだのも何だか教えてもらえてないし。秘密主義は嫌われますぜ」
「だって、口で説明するより見てもらった方が早いんだもの。どうせ、あと十分足らずでわかるんだし」
 確かに、カーナビの音声と現在位置とを照らし合わせれば、目的地まではそう遠くない。
 車間距離と速度が問題ないことを確かめて、一瞬だけヌイさんに視線をやる。窓に肘をついた姿勢で真っ直ぐに前を見ているヌイさんの横顔は、いつになく険しい。こんな顔をしているヌイさんを見るのは、リーダーがヌイさんの作った装置の電源ケーブルに足を引っかけてあわや大惨事となりかけた時以来かもしれない。あの人、ろくなことしないな。
「ちゃんと前見なさいよ、危ないわね」
 ヌイさんは依然として前を見たままだったが、こちらの視線には気づいていたらしく、呆れた調子で言う。
「カノジョと一緒ならともかく、こんな頭のおかしいおっさんと事故死するのは嫌でしょ、あんたも」
「嫌っすねえ」
 というか、彼女と事故死するのだって当然嫌だ。嫌さの質が違う。
 視線を前に戻して運転を続ける。カーナビはしばらく直進を指示しているのだが、何とはなしに様子がおかしくなってきた。
「この先、通行止め……?」
 カーナビの示す道は、更に真っ直ぐ続いている。目的地まで、もう少し距離があるはずだ。だが、「通行止め」という看板を見つけて、そこから少し走ったところで、ブレーキを踏むことになる。
 目につく色で書かれた「通行止め」と「危険、立ち入り禁止」の看板。そして、道路を塞ぐようにバリケードが設置されている。立ち入り禁止の理由を見る限り、バリケードの先のエリアが地盤沈下により侵入不可ということで、これは別の道を通ったとしても無駄だろう。
「ヌイさん、」
 言いかけたところで、ばたん、と音がした。見れば、ヌイさんが助手席から降りて扉を閉めたところだった。そして、つかつかとバリケードの方に向かっていったかと思うと、突然バリケードをむんずと掴んで引きずり始めた。
「ちょっ、何してんすかヌイさん!?」
 慌てて車を降りれば、ヌイさんがきょとんとした顔を向けてくる。
「邪魔だからどかしてんのよ。もっちーも手伝ってくれる? 思ったより重くてさあ」
 確かにバリケードは大きく、重さもかなりのものだろう。下手な女性より小柄かつ華奢なヌイさん一人で運ぶのは至難だ。
 しかし、手伝え、と言われても。
「この先立ち入り禁止だって書いてあるじゃねっすか。もしかして、文字も読めなくなりました?」
「もっちーったら、随分皮肉が上手くなったわね」
 いや、ヌイさんの場合は本当に文字が読めていないことがあるから。そういう時はまず静かな場所で休ませないといけないのだが、どうやらこの反応を見るに、わかってやっているらしい。
「アタシ、この先に用があんのよ」
「でも、絶対危険でしょ」
 これだけ大げさにバリケードで封じられているし、地盤沈下という封鎖理由も物々しい。正直なところ、ヌイさんが行きたいと言うのは自由だが、俺を巻き込むのはやめてほしい。
 俺が渋っているのを察してか、ヌイさんは一体どこの通販ショップで仕入れたのか、ぶかぶかの派手なスニーカー履きの足でこちらに歩み寄ると、腰に手を当ててこちらを見上げてくる。
「ここから先が『異界』だと言っても?」
「……は?」
「地盤沈下ってのは表向きの理由。この先には、『異界』の入口がある」
 ――『異界』。
 |此岸《しがん》に対する|彼岸《ひがん》、数多の神話で語られる天国や地獄、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。つまり「ここではないどこか」を十把一絡げにした雑極まりない呼称、それが『異界』だ。
 そんなもの夢物語だろう、と言われれば、肩を竦めざるを得ない。しかし、古くから人が『異界』に迷い込む「神隠し」と呼ばれる現象は存在しているし、逆に『異界』からの来訪者とされる神や悪魔、妖怪といった存在も語り継がれている。つまり『異界』が|存在しない《、、、、、》と言い切ることは、誰にもできやしないのだ。無いということを証明するのは、いつだってあることを証明するより難しい。
 なおかつ、俺たちは、『異界』が現実に存在すると知っている。
 この国は、実は一般的な国民の目には触れない形で『異界』の研究をしている。『異界』の存在を知る国の上層部は、数多の『異界』のデータを取得することで『異界』の有用性を確かめようとしているのだ。その、ちょっとした国家機密といえる異界研究プロジェクトの一員が、ヌイさんであり、俺であるわけだが。
「マジすか」
「マジよマジ、大マジ」
 その言い方で信じてもらえるとでも思っているのか、と溜息が止まらない。だが、ヌイさんが「マジ」というなら、それは絶対にマジなのもわかってしまう。この人は、冗談を言うことはあっても決して嘘をつかない。
「じゃあ、このバリケードは、『神隠し』防止ってことすか」
 俺たちは「神隠し」を『こちら側』から『異界』へ迷い込む現象と定義している。人為的に『異界』への道筋を作るのは難しいが、偶発的に『異界』が『こちら側』と接続することはそれなりによくある現象で、そのタイミングで『異界』に迷い込み、戻ってこられなくなる人間は相当数存在すると言われる。
 そう、俺の親父も――、と、浮かびかかったイメージを頭の一振りで打ち払っていると、ヌイさんが「そうよ」とバリケードの向こう側に視線を投げかける。
「お上も、『異界』への扉をどうにかするのは難しいからって、今まで物理的な人除けで何とかしてたの。まー、無理に侵入して神隠しに遭ったら、そりゃ自己責任だしね?」
 ヌイさんの言う「お上」とはもちろん俺らの上司、つまり『異界』の存在を知る国のお偉方だ。国民を混乱させないために、という理由で『異界』の実在を隠蔽するわりにそのやり方が杜撰であることは俺らの間では周知の事実。目の前のバリケードだって、その一つ。確かに一定の効果はあるだろう、俺みたいな真面目で善良な一般国民に向けては。ただ、好奇心やら何やらに負けて入り込む連中の責任までは取ってくれない。自己責任とは便利な言葉だが、まさか別の世界に迷いこんで帰ってこられなくなる、なんて誰が想像するのだろう。
 まあ、その辺りは俺が考えることではなく、お偉方がどうにかすることだ。俺たちの仕事はあくまで『異界』を観測してデータを取り、解析することで、それ以上でも以下でもない。
 だから、目下俺が向き合うべきは、今この場における話。
「……ヌイさん、この先で、何しようとしてるんです?」
 猛烈に嫌な予感がする。
 その「嫌な予感」を裏付けるように、ヌイさんは、にこりと――悪魔めいた笑みを浮かべる。
「お上の悩みを解決しようって言ってんのよ」
 それは、つまり。
 この先で発生しているという『異界』への入口を閉ざす、ということ。
「できるんすか、そんなん」
 少なくとも俺は聞いたことがない。『こちら側』から『異界』への突入口を探り当てるのはヌイさんの十八番だが、恒常的に存在する『異界』への入口を閉じる方法というのは、今まで聞いたことがない。『こちら側』と『異界』の接続は基本的には不安定で、俺たちの実験においては無理やりこじ開けても勝手に閉じるものであるから意識したことがない、ということでもあるが。
 ヌイさんはバリケードに寄りかかって、小さな手を振る。
「試算では七割くらい。机上の計算なんてあてにならないけど」
 どうやって、には言及しないし、仔細を説明されたとして俺には理解できないことは、お互いによく知っている。ヌイさんの思考回路は、ちょっと理解の及ばない範囲にあるから。その「理解の及ばなさ」こそがヌイさんをプロジェクトの精鋭たらしめているのも事実で、俺はそこに口を挟むべきではない。
「でも、仮にできるとして、ヌイさんに何の得があるんすか」
「何一つ得はしないけど、起こしたことに対する責任はあるのよ。何せこうなったの、アタシのせいだからさ」
「はぁ?」
「ってわけで、どかすの、手伝ってくれる?」
 話が戻ってきた。「それ以上の話はバリケードをどかしてから」とヌイさんの目が語っている。
 俺は、ここで引き返すこともできたはずだ。
 ここで嫌だと言えば、ヌイさんは絶対に強制しなかっただろうし、嫌な顔もしなかっただろう。無理強いをするくらいなら自分が退く、その程度には話のわかる人だ。
 しかし、気づけば自分からバリケードに手をかけていた。
 結局のところ、俺は好奇心に勝てなかった。
 このバリケードの先に『異界』があると聞かされて。その原因がヌイさんにあると聞かされて。この先に何があるのか、ヌイさんが何をしたのか、知りたいと思ってしまったのだ。

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