by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:18:17〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <4122文字> 編集
「……できすぎだ」
ぽつり、とアレクシアが漏らす。それに対して、私は「それはそうだよ」と言うことしかできない。
「私は君から聞いた話から、推測だけを積み重ねたに過ぎない。もちろん、もっと説得力のある論も出せるのかもしれない。私にそれができなかった、というだけで。何せ私は警察でもなければ探偵でもなく、ましてや魔法使いでもない」
言ってしまえば、ただの犯罪者だ。二度とこの塔から出ることはない、程度の。
「けれど、ひとつだけ、これだけは確かだと言えることがある」
そう、そんな私から見ても明白に立ち現れた、この出来事の本来の姿。アレクシアはまだ気づいていないのか、不服そうな表情をこちらに向けているけれど……。
「まだ、この出来事には議論の余地が十二分にある、ということだよ」
「あ……っ!」
難しい顔をしていたアレクシアが、ぱっと顔をあげる。
「姉さんが犯人である可能性が限りなく低いことは示した通り。そして、アントニア嬢が思わぬ関わり方をしている可能性も。オーブリー卿がただの被害者ではない可能性も」
「そう、か。確かにそうだ」
私の突飛な推理は、あくまで物事を考える足がかりに過ぎない。何せこの一連の出来事に結論を出すのは私ではなく、この事件に関わった人々と、それを解き明かそうと試みたアレクシア当人だ。
「あとは君次第さ、アレクシア。君ひとりで難しいようなら、私が友に一筆書いてもいい。都合のよいことに、私の友は警察官だからね」
「いや。……大丈夫だ、叔父さま。ありがとう」
アレクシアは背筋を伸ばして笑ってみせる。その晴れやかな笑顔が、なんとも眩しく感じられる。それは、私からは遠く離れた、もはや誰からも向けられないと思っていたものであったから。
その上で、アレクシアは私の顔を鉄格子越しに覗き込むようにしながら言うのだ。
「叔父さま、何か礼はできないだろうか。わたしにできることなどたかが知れているが」
礼、だなんて。おかしくなってしまって、少しばかり笑ってしまう。怪訝な顔をするアレクシアに、私はゆるりとかぶりを振った。
「礼などいらないよ。君がここに来てくれて、話をしてくれただけで、十分さ。このような言い方をしてよいものかはわからないけれど、久方ぶりに快い時間だった」
語られた出来事そのものは凄惨なもので、アレクシアにとっても決して「快い」などという言葉で片付けられるものではないのはわかる。それでも、私にとって、久方ぶりに彼以外の人間と言葉を交わせたのは、それこそ奇跡のような巡り合わせであったのだ。
きっと、友以外の誰一人として、この場に訪れることはないと思っていたから。
そのまま、ゆっくりと、朽ち果てていくだけであると思っていたから。
「頼ってくれてありがとう、アレクシア。どうか、一連の出来事が君にとって良き結末を迎えますように」
今更贖罪などと言うつもりはない。ただ、今ここで私と向き合っている彼女が、少しでも幸福に感じられるような結末を迎えてくれるように、願う。そのために、背中を押す手伝いをできたなら、この上なく喜ばしいことだと――思う。
アレクシアは青い目をぱちぱちさせて私を見た。それから「叔父さまは不思議な人だな」という感想を述べた。
「そうかな? 特別なことを言ったつもりはないけれど」
「叔父さまは、世間から自分がどう見られているのかをもう少し自覚した方がいいと思うぞ?」
「なるほど、それは一理ある」
決してわかっていないわけではないのだ、世間にとって私というものがどういう存在であるのか。そして、その評価が決して誤ったものでないということも。
その一方で、今、目の前にいるそのひとに「悲しまないでほしい」と願うことくらいはする。それだけの話。
本当に、ただ、それだけの話なのだ。
それだけの。
アレクシアは何を思ったのだろう、じっと私を見つめていたけれど……、そこに、不意に声が割り込んでくる。
「時間だ」
鋼のように響いたのは、私の背後に立っていた刑務官の声だった。
はっとしたような顔をしたアレクシアは、それから音もなく立ち上がる。雨避けの外套の裾が、鉄格子の向こう側で揺れる。
「では、わたしはこれで。ごきげんよう、叔父さま」
「アレクシアも、どうか元気で」
立ち上がりながら軽く頭を下げると、アレクシアは猫のような笑みを浮かべて言った。
「次までは、わたしの名前を忘れないでくれたまえよ?」
――次?
問い直す暇もなく、アレクシアは外套を翻して背を向ける。終始無言で控えていた老従者が私に向かって深々と一礼するのを、軽い会釈で受け止める。
当たり前のようにやってきた当たり前でなかった少女は、今も、当たり前のように帰っていこうとしていく。
「アレクシア」
思わず。本当に思わず、声をかけてしまった。アレクシアがゆっくりとこちらを振り返る。その顔に浮かんでいたのが変わらぬ笑顔で、内心ほっとする。
本当に「次」なんてものがあるのかはわからない。あったとして、何が変わるわけでもない。私は息が尽きるまでここにいて、アレクシアは外からやってきて、去っていく。それだけの話。
それだけの話、なのに、何故だろうか。
「……|また《、、》。何か困ったことがあれば、話し相手になるよ」
なんて、言ってしまったのは。
アレクシアは驚いたように目を開いて、それから……、にっと白い歯を見せて笑った。
「ありがとう、叔父さま。存分に頼らせてもらうよ」
それでは、と。短い言葉を残して、今度こそアレクシアは老従者を引き連れて面会室から姿を消した。誰もいなくなった鉄格子の向こうで、ぽつりと椅子だけが存在を主張していた。
「行くぞ」
刑務官の声が背後から響く。
アレクシアが座っていた椅子は、もちろん何も語らなくて。だから、私もそれに背を向け、手枷と足枷の鎖の音を聞きながら、来た道を、ゆっくりと戻っていく。
私のために用意された独房は、常と何一つ変わらない。
――そのはずだった。
「……静かになってしまったな」
天高く開いた窓からは、雨の音だけが聞こえてくる。
寝台の隅に腰掛けて、瞼を閉じる。完全な闇に閉ざされた世界で、さあさあと音がする。いつものことだ。あまりにもいつものこと。慣れきってしまったはずの、雨の日。
けれど、いやに静かに感じられるのは、きっと、常に無い訪問者の声が今もなお頭の中に響いているからだろう。
アレクシア・エピデンドラム。
存在していることも知らなかった、私の姪。
決して喧しい声ではなく、ただ、鈍色の雨を貫くような凛と響く声音が頭から離れないままでいる。私のことを「叔父さま」と呼ぶ声。気丈にも背筋を伸ばして、決して自らにも無関係でない凄惨な出来事を、できる限り客観的に話そうとしていた姿。
賢い娘であったと思う。かつての私と似た世界に生きていながら、まるで違う存在であったと、思う。
「あー……」
自分の声を確かめるためだけに声を出して、そのまま寝台に倒れこむ。慣れきった硬い感触を背中と後頭部で受けながら、うっすらと右の瞼を開けて暗い天井を見上げる。
本当にアレクシアは「また」来るのだろうか。私に「次」はあるのだろうか。そんなことを考えかけて、やめる。全てはアレクシア次第で、場合によってはアレクシアが望んだとしても周囲が許すはずもなくて、要するにこれが最初で最後であっても全くおかしくないのだ。
ただ。
『次までは、わたしの名前を忘れないでくれたまえよ?』
――忘れられるはずもない、と思う。
友以外に初めて「私」を訪ねてきた娘。私の罪を知りながら、それを責め立てるでもない者を初めて見た、と言ってもいい。責められて当然のことをしてきたのだから、いっそ居心地が悪かったとも言える。
なのに、その居心地の悪さもすぐに忘れた。本当は忘れてはいけないものだとわかっていながら、アレクシアと話しているひと時だけは、自身が罪を償うために息をしている身であることを意識していなかったのだと思い出す。
それが正しいとは思わない。思わないけれど、そういうひと時がもたらされることもあるのだと、初めて知った。仮にこれが最初で最後であったとしても、忘れることなどできやしないと思う。
どうか、アレクシアの行く道に祝福あれと願う。せめて、彼女の直面した出来事が、彼女の望むような形で終息してくれればよい。そこに、私の荒唐無稽な説明が少しでも足しになるのならば、それは喜ばしいことだと思う。
とはいえ、その終息の形を私が知ることはないのだろう。次にアレクシアが来るときまでは。
だから私にできることは、今日という日の記憶を忘れないように日々を過ごすことだけだ。
そう、今日も私にとっての「終点」で、時間だけが過ぎていく。
贖罪の時は、終わることはない。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:18:06〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <3673文字> 編集
「……何だって?」
張り詰めていたアレクシアの唇から、間の抜けた声が漏れた。
「いや、私がさっきからずっと気にしているのは、姉さんが、もしくはアントニア嬢がオーブリー卿を殺せたか、ということなんだ」
一体私が何を言い出したのかわからないのだろうアレクシアは、唇を尖らせて眉根を寄せる。
「事実として、オーブリー伯父上は死んでいるが」
「もちろん、そこを疑っているわけじゃない。ただ、どう考えても『難しい』ことだけははっきりしているんだ。……見てもらえればわかるかな? 立ってみてごらん」
アレクシアに立つよう促しながら、自分も立ち上がる。鎖の音と共に「おい」という刑務官の鋭い声が飛んできたから、ちらりとそちらを見て笑いかける。
「ここからは一歩も動かないよ」
言い置いて、鉄格子を間に挟んでアレクシアと向き合う。立ち上がったアレクシアは想像よりもずっと小さくて、私の胸の辺りに顔が来ている。そして、それこそが、私の仮定を裏付けてくれている。
「アレクシア、アントニアは君とよく似た双子なのかな?」
「……あ、ああ」
アレクシアは私が何を言い出したのかすぐには察せられなかったのか、一拍遅れて頷いた。それでも構うまい、私は手枷で繋がれた不自由な手で目の前に鉄格子を指す。
「では、仮にこの場に鉄格子はなく、君の手に一振りの短剣が握られていたとしよう」
私に人並みの想像力がないことは周知の事実で、だからこそここにいると言っても過言ではないと思うのだけれども、一方でこういう「事実に基づいた想像」に関しては人並み程度だと自負している。だから、アレクシアに問うてみるのだ。
「なら、君はこの状態から、私を刺し殺せると思うかい? 『真正面から』『心臓を一突きで』、だ」
アレクシアははっとした様子で、私と自分の手元とを見比べた。
「無理だな。心臓を狙うには、高すぎる」
「そう。記憶が正しければ、オーブリー卿の身長は私と同じか、少し高いくらいだったはずだ」
横幅で言うならオーブリー卿の方が圧倒的に大きいのだが、それはそれとして。
「正面から向き合った状態で心臓を一突きにするには、君の、つまりアントニアの身長では不可能だよ」
アレクシアは立ちつくしたまま不思議そうに目を瞬かせている。随分迂遠な話の仕方をしているから、まだ話の行き着く先が見えていないのだと思う。
「では、伯父上が倒れている状態からはどうなんだ?」
「うん、それも考えたんだけどね。それなら、死体がうつ伏せであった理由がわからないんだ。わざわざ仰向けで殺したものをうつ伏せにさせるかな?」
アレクシアはうーんと唸る。仮にそこに何らかの理由が見出せるなら話は変わってくるのだが、私はあくまでアレクシアから聞いた話だけで推理を組み立てている。だから、私はそこに「理由はなかった」と考えるのみ。
「それにね、アレクシア。君は知らないかもしれないけど、『心臓を一突き』にするというのは重労働なんだよ。まず、心臓の位置を把握している必要がある。そこを一直線に刺し貫くための膂力も要る。人はそう簡単に殺せるものではないよ」
「叔父さまが言うと含蓄があるな」
ああ、確かにそうかもしれない。ここに至るまでに私は数多くの人を葬ってきたし、それに。
「私は結局、刃では誰も殺せなかったからね」
「笑っていいのかどうか悩ましいな、そこは」
我が姪に困った顔をさせてしまったことは、素直に申し訳なく思う。どうも私の冗談は冗談になっていないとよく友にも諫められるのだ。
アレクシアはしばし私の言葉を吟味するように視線を宙に彷徨わせていたが、ふと睨むような目つきで私を見た。
「つまり。叔父さまは、アントニアには犯行ができない、と言っているのか? あれだけアントニアを疑うようなことを言いながら」
「アントニアが嘘をついている可能性があれば、それこそ事件前からの綿密な計画の下に何らかの仕掛けが使われた、とでも考えたかもしれないけれど。彼女の意識が曖昧な状態であったことを君が保証する以上、これはどこまでも突発的な出来事で、その状態でオーブリー卿を殺すことは、アントニアにはまず不可能だったと思っているよ」
「じゃあ、母さまには?」
「姉さんにも同じ理由で不可能だよ。確かに君より背は高かったと記憶しているけれど、それでもオーブリー卿を正面から相手取れるかというと、私はまず疑問に思うね。というより、私でもオーブリー卿を正面から相手取りたくはない」
アレクシアはどうしても私の言わんとしていることがわからないのか、大げさに首を傾げてみせる。どうも悪い癖なのだ、結論から話せばいいものを、長々と話を引き伸ばしてしまう。……ただ、話を終わらせるのが惜しかっただけなのかもしれない、と気づいたのは、それこそ『|雨の塔《レイニータワー》』に入ってからだったけれど。
とはいえ、話はいつかは必ず終わるもので、この話も終わりに近づいているのは間違いない。アレクシアは私を真っ直ぐに見据えて問いかけてくる。
「では、誰がオーブリー伯父さまを?」
「私が仮定する限り、これは不運な事故だよ。もしくは、オーブリー卿の身から出た錆」
「……どういう、ことだ?」
私は椅子に座りなおす。呆然とした顔のアレクシアが私に合わせてすとんと椅子に腰を落とすのを確認して、口を開く。
「誰にも犯行が難しいなら、それは不運な事故でしか起こりえない。だから、偶然に、オーブリー卿の胸に短剣が刺さって、それが原因で亡くなったんだ」
アレクシアは露骨に「納得できない」という顔をするし、それはそうだろうとも思う。今まで殺人事件だと思っていた話が急に現実味のない「運」などというものに左右される出来事だと言われたのだから。私も、アレクシアの話す前提さえなければ、殺人事件として話をでっち上げてもよかったのだ。
けれど、アレクシアの話す前提と私の知識とを全て加味するならば、これは「不運な事故」と仮定するしかない。
「不運な事故というなら、その短剣はどうやってオーブリー伯父上に刺さったっていうんだ? まさか宙を飛んでなんてことはあるまいな」
「そこまで非現実的なことを言う気はないよ。その短剣は、アントニア嬢の手の中にあったのだと思っている」
呆れ半分、苛立ち半分だったアレクシアの表情が一気に強張る。そう、これは「事故」だとは言ったけれど、アントニアが無関係だと言ったつもりはない。私の話はここからが本題なのだ。
「整理して話そうか。まず、事件前に既にアントニアは部屋にいたのだと思っている。……アレクシア、それ以前のアントニア嬢の様子におかしなところはなかったかな?」
質問の形をしてはいるが、これはほとんど確認だ。私の知識から来る想定が正しいということの、確認。
「眠気が酷くて少し休む……、と言って席を立ったところまでは覚えている」
「だろうね」
「叔父さまには、心当たりがあるのか」
「おそらく、それはオーブリー卿の仕業だよ。オーブリー卿には、……そうだな、君には少々言いづらいのだけど、酔うと理性の箍が外れてしまうのか、厄介な癖のようなものがあってね」
当時のことは積極的に思い出したくはなかったのだが、ことここに至ればそれが鍵になってくるのだから仕方ない。生々しい感覚をできる限り意識の外に追いやりながら言葉を選ぶ。
「おそらく表沙汰にはされていないだろうけれど、彼には君のような年頃の少年少女にちょっかいを出したくなる、というか……」
「それは、言葉通りというよりも、もっと醜悪な意味があると思えばいいだろうか?」
「そう思ってくれれば結構だよ」
特に、アレクシアは幼い頃の私によく似ている。その目鼻立ちや、重たそうな外套から覗く華奢な指先や手首。当時の私がよっぽど少女じみていたという方が正しいのかもしれないが、ともあれ、私に似ている以上はオーブリー卿のお眼鏡に適ってしまったとしても何ら不思議ではない。
「君でなくアントニア嬢が選ばれた理由はわからないけれど、オーブリー卿は普段から自分が飲んでいる睡眠薬か何かをアントニアの飲み物に盛ったのだと思う」
何故そう言えるかといえば、私にも似た経験があるからだ。更に、アントニアにとっては身内の、しかも気を許しているであろう伯父相手だ。特に警戒らしい警戒もしていなかったに違いない。
「そして、アントニア嬢は眠気を訴えて休憩室として開かれていた部屋に移動した。オーブリー卿も酔いを理由にして、それを追う形で部屋に向かった」
かくして、部屋のソファに腰掛けていたアントニアは、追ってやってきたオーブリー卿を目にすることになる。
「アントニア嬢はオーブリー卿のただならない様子に気づいたのかもしれない。もしかすると、何か抵抗を試みたのかもしれないね。それで、オーブリー卿はアントニア嬢を脅すために、入り口近くの短剣を手に取ったのではないかな」
だが、前後がわからなくなるくらいに酔っているオーブリー卿のことだ。短剣を闇雲に振り回してみるも、ソファの肘掛を傷つけた拍子に短剣が手から抜け落ちたのだと思っている。
「アントニア嬢は朦朧としながらも、異常な様子の伯父から身を守るために、落ちた短剣を手に取りながら部屋の奥へと逃げた」
「最初からアントニアが短剣を手にしていた可能性はないのか?」
「私も見ていたわけではないから、それは何とも言えないね。ただ、短剣が元々部屋の入り口近くにかけてあったことを考えると、アントニア嬢がわざわざ手に取るくらいなら、部屋の外に逃げて助けを求めるかなと思ってね。それができなかった以上、オーブリー卿が部屋の扉を塞ぐ形で立ちはだかっていた、と考えてもよいのではないかな」
アレクシアは私の言葉に「なるほど」と唸って、再び聞く姿勢に入る。
「……そして、アントニア嬢は、オーブリー卿に短剣を構えてみせた」
その時のことは、私にはもちろん想像することしかできなくて、彼女の恐慌もオーブリー卿の狂気もあくまで「仮定」でしかあり得ない。だから私はただ淡々と話を進めていく。
「短剣を持ったアントニア嬢を見ても、オーブリー卿は一笑に付したのではないかな。さっきも言ったとおり、ただでさえ朦朧としているアントニア嬢に人を殺せるわけがない。オーブリー卿からしたら尚更そう見えたに違いないのだから」
「でも、事実としてオーブリー伯父上は死んだ」
「そう。何故なら、オーブリー卿がそこで転んだからさ」
アレクシアの口から、二度目となる「何だって?」の声が飛び出す。ただ、それは予測の範囲内であったから、私も苦笑を交えて返す。
「だから言っただろう、これはどこまでも不運な事故なんだって。現場は毛の長い絨毯だったのだろう? 足を取られて転ぶことはそう珍しいことじゃない。ましてや泥酔状態のオーブリー卿だ。アントニア嬢に気をとられていたならば、足元が疎かになってもおかしくはないよ」
だから、転んで死んだ。ただ、ただ、それだけの話。
けれど、アレクシアは「待ってくれ、叔父さま」と私の話を遮ってみせる。
「それは、叔父さまの先ほどの仮定と矛盾してやいないか」
「そうかな?」
「伯父上が転んだというのが事実だとしよう。それでも、アントニアに伯父上を刺し殺すことは難しいんじゃなかったのか?」
「私が言いたかったのは、アントニア嬢一人の力では不可能に近い、ということだよ。アントニア嬢は迫るオーブリー卿に向かって短剣を突き出した。そこに、偶然倒れこんだオーブリー卿の体重が加わる。そしてこれまた偶然、短剣の先端は心臓の位置を指していた。……そういう話なのではないか、と私は仮定しているのさ」
その後はアレクシアも予想していた通りの展開だ。アントニアはそのまま気を失い、うつぶせのオーブリー卿の死体の下で倒れているアントニアがヒルダによって見つけられる。ヒルダはアントニアがオーブリー卿を刺し殺したのだと思い込み、おそらくは使用人と協力してアントニアをソファに寝かせ、ヒルダがオーブリー卿の死体から短剣を引き抜く。
――かくして、「オーブリー卿の死体の横に佇むヒルダが発見される」状況が完成する。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:17:53〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <5026文字> 編集
「どうしてって」
アレクシアの青い目が、つい、と私の方に向けられる。
「叔父さまにはわかるのかい?」
「そうだな。これはあくまで、君から聞いた話と、私の勝手な推測による『仮定』に過ぎないのだけれども」
けれど、一方でほとんど確信を持って。
「姉さんは、どうして、どのようにしてオーブリー卿が死んだのか、知らないのではないかな。だから、現実に反することを言わないためにも黙秘を続けている」
そう、『仮定』する。
アレクシアは、一瞬ぽかんとした顔をしたけれど、すぐに表情を引き締めて――ほとんど睨むようにして私を見上げてくる。どうやら、私が言わんとしていることをすぐに理解してくれたようだ。本当に賢い娘だと思う。私なんかよりも、ずっと。
「つまり。叔父さまは、母さまが伯父上を殺したわけではないと言っている」
「そして、もう一つ」
「叔父さまは、母さまでなく――ニアを、疑っている」
そうだね、と。私はアレクシアの言葉を首肯で受け止める。
「……そんなに睨まないでほしいね、私も好きでこんな仮説を立てているわけではないんだから。それにね、アレクシア」
これは、今になってやっとわかったことではあったけれど。
「君も気づいていたんじゃないのかな。アントニアが犯人である可能性に」
アレクシアの目が見開かれる。微かに唇が開くけれど、言葉は出てこない。それを確認して、私は言葉を続けていく。
「これは単なる勘繰りだと前置きするけれど。君はアントニアについての重要なことを『言い忘れていた』と言ったけれど、できれば言わずに済ませたかったのではないかな。私が、それまでの情報だけで、君が望むような……、言ってしまえば『都合のいい』答えを出すことを望んでいた。ないし、無意識に求めていたのではないかな」
――例えば、『姉さんもアントニアも犯人ではない』というような答えを。
私の言葉に、アレクシアは沈黙で返した。その表情に、何らかの感情を見出すことはできなかったけれど、これはただ、私が感じ取れないだけなのかもしれなかった。
先ほどよりもはるかに長い沈黙は、アレクシアのちいさな唇から吐き出される長い、長い息によって遮られた。
「叔父さまには敵わないな。そう、わたしは確かにアントニアを疑っている。けれど、『疑いたくない』と思っているのも本当だ」
「ただ、君が話してくれた内容が正しければ、姉さんが犯人である可能性と同じくらい、アントニアが犯人である可能性は十分にある」
アレクシアは組んだ指に力を篭めながら、「そう」と言葉を落とす。
「母さまがもし、ニアを庇ったのだとしたら。わざと、自分が犯人に見えるように振舞ったのだとしたら。そう考えてみた方が辻褄が合うのではないかと思ったのだよ。ニアがあの場にいた理由も説明がつく。ついてしまう」
アントニアの服には血が付着していたという。そして、そのソファには短剣によると思われる傷こそあったけれど、オーブリー卿の血が飛んだ様子はなかったという。アレクシアの話が全て正しいとすれば、アントニアがオーブリー卿の死に何らかの関連を持っていることはほとんど間違いないことだ。
だが――。
「しかし、叔父さま」
「何かな」
「わたしは、アントニアが嘘をついていないことを知っている。本当に、ニアには当時の記憶がないのだ」
「どうしてそう言い切れるのか……、という疑念は、この場では無粋だね」
言いながら少しおかしくなってしまう。全くもって不謹慎だと思うのだが、何しろ私はアレクシアから聞いた話以上の判断基準を持たない。疑うくらいなら最初から話を聞かなければいいのだ。
だから、私が確認すべきことは、アレクシアの言葉の真偽ではなく。
「私は君の話を信じるよ。その上で、君はどうしたい?」
アレクシアは虚を突かれたようにぽかんとした表情を浮かべた。疑われることはあっても、問いかけられるとは思ってもみなかったとみえる。
「どうしたい……、とは?」
「君は姉さんの無実を信じ、そして更に事件に関係している可能性が高いアントニアのことも疑いたくないといった。私は、そんな君に無責任な説を並べ立てて安心させることも……、まあ、できなくはないと思うのだけどね」
事件の成り行きをこじつけることならいくらでもできるだろう。何せ聞きかじったことだけで判断しろというのだ、そこに荒唐無稽な想像を付け加えて話を膨らませるのはそう難しいことではない。
しかし、アレクシアは私の言葉に対して、首を横に振ってみせた。
「もし、ニアが犯人だとするならば。アントニアがどうして伯父上を殺すことになったのか。わたしは――そこに至るまでの真相を、知りたい」
「なるほど。それが君の意志なんだね」
唇を引き結んだアレクシアが、今度はきっぱりと頷いてみせる。それから、少しだけ唇を歪めて言うのだ。
「もちろん、叔父さまのそれがどこまでも『仮定』でしかないのはわかっている。ただ、……わたしが今まで出会った誰とも違って、叔父さまはわたしの話を最後まできちんと聞届けてくれたからな。その叔父さまがどのような仮定を導いたか聞いてみるまでは、帰るに帰れないよ」
「そうそう信じるものじゃないよ、私のようなひとでなしのことなど」
「そのひとでなし様にも頼りたい気持ちなのだ。わかってくれたまえ」
アレクシアの言葉ははっきりとしたものだったが、声に微かに滲むものを感じて、私は目の前の少女に対する評価を改める。私という相手を前にしても、身内の殺人事件を前にしても、毅然と振舞える娘だと思っていたけれど、――少なからず、無理をしているのだと。
ここに来たのも、最初は身内から私の話を聞いた、というきっかけだったのだろうが、……本当に、アレクシアには頼れる者がいなかったのだ。それこそ、顔を合わせたこともない、獄中のひとでなしを訪ねる程度には。
アレクシアは、一瞬だけ弱気を滲ませたことに自分でも気づいているのだろう。顔をあげて「ただ」と明るい声を出す。
「叔父さまがこれほど気さくな人だとは思わなかったがな」
「そうかな? 親しみやすさを第一に生きてきたつもりだったのだけどね」
なお、その『親しみやすさ』が紛い物なのだ、と友は酷評したものだったが、今となってはそれも遠い昔の話だ。果たして今も全てが紛い物なのかどうか、教えてくれる友はここにはいない。
唯一、今の私がわかることといえば。
「どうして、叔父さまがあんな事件を起こしたのか不思議に思うよ」
という、アレクシアの率直な評価くらいだ。
その言葉には、私は何も答えることができない。曖昧に笑うことだけが、今の私にできる全てだ。……語ったところで誰にも理解されないだろうし、私自身、それが説明になるとも思っていなかったから。
アレクシアは敏い少女であったから、私の曖昧な笑みで十分察してくれたらしい。
「いや、叔父さまの話はよしておこうか」
軽く首を振って話を打ち切り、改めて本題を切り出す。
「とにかく。叔父さまの仮定を全て聞かせてほしい。それが本当の答えでなくとも、……わたしは、叔父さまがどんな答えを出すのかが、知りたい」
アレクシアの言葉はどこまでも真っ直ぐで、背中がくすぐったくなる。言ってしまえば、かつて、友を前にしていた時の感覚とよく似ていて、笑い出したくなる。このむず痒いような、喉の奥がいがらっぽくなるような感覚につける名前を私は知らないのだけれど、きっと笑いたかったのだと思う。
ただ、アレクシアの前で笑い出すのは何かが違うと思ったので、何とか表情を取り繕って、丸まりかけていた背筋を伸ばす。
「ではね、私の仮定を話すけれど」
アレクシアの表情が目に見えて強張るのを見つめながら、私は言う。
「これは果たして『殺人事件』なのかな」
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:17:37〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <3235文字> 編集
まずは、事件の概要を整理する。
「これは、オーブリー・エピデンドラム卿が義妹であるヒルダ・エピデンドラムに殺害されたとされる事件である。エピデンドラム邸で行われていた宴の最中、オーブリー卿はある一室に赴き、そこでヒルダに殺害された。その後、ヒルダつきの使用人が主を探していたところ、オーブリー卿の死体と短剣を手にしたヒルダを発見し、事件が公になったということでいいかな」
「うむ、それで合っている」
「その現場には何故かアントニア・エピデンドラム嬢も存在していたが、彼女はずっと眠っていて惨劇を見てもいない、ということだった」
アレクシアが頷くのを確認してから、私はまず前提となるであろう問いを投げかけてみる。
「事件前後に部屋に足を踏み入れたのは、これで全員なのかな?」
「ああ。他の面々は皆、誰がどこにいたのかを把握していて、その部屋に向かったという者は一人もいなかった」
他の宴の参加者は事件発生時にその場にいなかったことを相互に証明できている、ということか。これならば、事件の登場人物から取り除いておいてよさそうだ。
つまり、登場人物は全部で四人。
被害者たるオーブリー・エピデンドラム卿。
容疑者たるヒルダ・エピデンドラム。
第一発見者のヒルダつきの使用人。
そして、その場に居合わせたらしいアントニア・エピデンドラム嬢。
|記術《スクリプト》、もしくは|奇術《マジック》のような愉快な仕掛けがなければ四人の他にその部屋にいたものはなく――。
「オーブリー卿は、確かにその部屋で殺されたんだね?」
「ああ、死体の状態や絨毯の上に残された血痕などから、それは間違いないと警察も請け負っている」
警察の捜査がどれだけ正確か、という点については普段の私ならば疑問を投げかけるところだが、一旦はそれを信じるとする。あくまでこれは、アレクシアが語る言葉だけで判断すべきことなのだ、いちいち疑っていては話が進まない。
ただし、今まで聞いた話の中身と、私自身の知識とを照らし合わせてみたときに、ぽつぽつと疑問が浮かび上がってくるのも事実。
「しかし、正面から殺されたといったね。普通に考えれば、難しいとは思わないかな。オーブリー卿も、目の前で短剣を構えられたら流石に抵抗を試みると思うのだけれども」
アレクシアは「ふむ」と細くちいさな顎に指を当ててみせる。
「それは一理ある。が、伯父上が正常な判断力をもって抵抗できたか、というと相当怪しいとは言わざるを得ない」
「どうしてだい?」
「言い忘れていたが、事件当時、オーブリー伯父上は随分と泥酔していてね。事件の起こった部屋に向かったのも、酔いを醒ますためであったと考えられている」
「……ふむ。そういえばオーブリー卿は随分酒癖が悪かったのだったね」
私の知る限りのオーブリー卿は、平時はいたって沈着な一方で、酒が入ると極めて厄介な性質なのであった。私も迷惑を被ったことが一度や二度ではない。しかも酔いが醒めるとその時のことをすっかり忘れているのだから、本人は気楽なものである。
確かに、あの酔い方では正常な判断は難しいかもしれない。仮に目の前で短剣を構えてみせたとしても、果たして目に入っていたかどうか。
が、それを加味したところでヒルダにオーブリー卿の殺害が難しかったことには変わりないのだ。そう考えてみると、もう一つ、どうしても知っておかなければならないことがあったのだとわかる。
「姉さんは、オーブリー卿の殺害について何か言っているのかな。普通に考えれば、明確な殺意がなければわざわざ短剣を手に取ることもなかっただろう。その点に関して、何か説明はあったのかい?」
アレクシアは、その問いに対しては首を横に振った。
「それが、母さまは黙秘を続けているのだ。自らが犯人であることは否定しないが、犯行に及んだ理由については何も語っていない」
「ふむ。オーブリー卿が死んで誰が得するかと考えれば、まずはオーブリー卿の弟、ヒルダ・エピデンドラムの夫、つまり我が義兄なのだろうけれど……、姉さんが犯人になってしまっては、得も何もあったものじゃない。義兄に座を譲ることを、あのアンブローズ卿が許しはしないだろうしね」
アンブローズ卿が健在な以上、当主の座も財産の行方もアンブローズ卿の一存に委ねられているのだ。犯人が見つかっていないならともかく、犯人がヒルダだとわかってしまっている以上、義兄が得をするようなことはあり得ないし、姉の目的も義兄に利をもたらすこと、ではなさそうだ。
なら、少し考え方を変えてみることにしようか。
「何故、を問うてもすぐには答えが出そうにないね。なら、もう一度現場に立ち戻ってみようか」
アレクシアは僅かに戸惑いの表情を浮かべる。
「しかし、状況については大体説明した通りだが」
「……そうだな。もう少し細かく知りたいのさ。例えば、現場には絨毯が敷かれていたという話だけど、これは、随分厚手のものだったのかな」
「毛足の長い、厚手の絨毯だな。色は深い赤。……血痕が黒くこびりついたのは、あまり見ていて気持ちよいものではなかったが」
内心羨ましいな、と思う。何せ私に与えられている部屋には、石造りの床をかろうじて覆う薄っぺらい絨毯しかないものだから、雪季ともなると酷く冷えるのだ。それこそ、血痕の一つや二つ気にしないから分けてもらえないかと思うが、流石にアレクシアの前でそんな冗談を言う気にはなれなくて、そっと喉の奥に押し込み、逸れかけた意識を本筋に戻す。
「現場には凶器となった短剣が飾られていたということだったけど、それは元々どこに飾られていたものだったのだろう」
アレクシアは「ええと」と顎に細い指を当てた姿勢のまま、しばし考え込んでから口を開く。
「確か、入り口近く。他にもいくつか飾られていた武具のうちの一つだ」
「他に、その部屋で、事件前と後で異なったところはあったのかな」
現場について何一つ知らない私が事件について考えるには、どんな些細な違和感でも掬い上げなければならない。何とはなしに浮かびつつある、とある可能性を否定するにも、補強するにも、だ。
「そういえば、アントニアが寝かされていたソファの肘掛に、短剣によるものと思しき傷があった」
ソファに傷。それは確かに今まで出てこなかった情報だ。私の想像では入り口近くの短剣を手に取った犯人が一直線にオーブリー卿を刺し殺した形だったのだけれども、少し認識を改めなければならないのかもしれない。
それから、しばしの沈黙が流れた。アレクシアは言葉を選ぶかのように半ばまで伏せた目を手元に向けて、指をせわしなく組み続ける。私は、何とはなしにその指先を眺めながら、言葉の続きを待つ。
やがて、ぽつり、と、声が落ちた。
「それから。その場にいた、アントニアについて」
アントニア。どうしても事件を考えるに際しての、最大の違和感として存在している、少女。
「一つ、大事なことを、言い忘れていたんだ」
「聞かせてもらえるかな?」
「アントニアの服には、オーブリー伯父上のものと思われる血が付着していたのだ。ただ、ニアが眠っていたのはソファの上で、ソファはオーブリー伯父上が刺殺された位置からは離れていて、飛散した血がソファまで届いたとは考えづらいのだ」
もう一度、頭の中に部屋をイメージしてみる。長い毛足の絨毯と、傷のついたソファ。そこに寝かされたアントニアと、服についていたという血痕――。
「オーブリー卿が刺殺された場所は、部屋の奥の方と考えていいのかな」
私の問いに、アレクシアは目を伏せたまま一つ頷いてみせる。
想像の中の部屋に、オーブリー卿の死体と短剣を持つヒルダを描き加える。もちろん、これは実際の情景からはとんとかけ離れているだろう。私の想像力が頼りないことは過去の出来事でとっくに証明されている。
それでも、ひとつ、思い浮かんだことを言葉にしてみる。
「……姉さんは、どうして、オーブリー卿の殺害を否認しない一方で、沈黙し続けているのだと思う?」
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:17:22〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <3333文字> 編集
試されているように感じるし、事実、私を試すために彼女はここにいる。もちろん、仮に私が役立たずだったとしても、彼女は「その程度のもの」と私を認識するだろうし、それで十分ともいえた。私が彼女の役に立つ必要などないのだ。
ただ、その一方で、アレクシアの口から語られた事件に興味が湧いたのは確かだった。ここから遥か遠く離れた――それは現実としても、私自身の感慨としても――エピデンドラム公爵家で起きた凄惨な殺人事件。
ここに来てからまるで思い出すこともなかった、エピデンドラム邸の美しさを脳裏に思い描いてみる。そこで行われていたという祝いの席の華やかさと、その奥に秘められていたであろう、泥臭いやり取りも。
まずは、改めてアレクシアの言葉を咀嚼しなおしてみる。まだ、事件を完全に思い描くには何かが足りていないのだと思う。
「……そうだね。まず、オーブリー卿の死因だけど、短剣による刺殺ということだったね。後ろからかい、正面からかい?」
「正面からずぶりだ。ちょうど、心臓を貫く形になっていたそうだ」
心臓を貫く一撃。それでは、確かにオーブリー卿であろうとひとたまりもなかったであろう。ことさら憐れむ気になれないのは個人的な感情によるものだが、随分とあっけない死に方をしたものだ、とは思う。
「凶器は短剣で間違いないんだね?」
「どういうことかな」
「例えば、そうだね……、|記術《スクリプト》による傷である可能性は考えられないかな」
|記術《スクリプト》を用いた犯罪は世界的にも|記術《スクリプト》適正の低い女王国民の間ではそこまで一般的ではない。しかし精霊女王の血を濃く引く我々|貴族《クイーンズブラッド》にとっては、殺害の手段として十二分にありうる話であると思う。
とはいえ、アレクシアは私の言葉を一笑に付してみせた。
「そんな、叔父さまじゃあるまいし。ああ、しかし叔父さまのおかげで警察も|記術痕《スクリプト・サイン》は確認するようになったらしいな。もちろん|記術《スクリプト》が使われた痕跡はなかったし、傷口は短剣の刀身と一致している、というのが警察の見解だ」
警察も一時に比べれば随分きちんと捜査をするようになったということか。とはいえ、相手はこの国の頂点に最も近い公爵家だ。捜査しづらさを感じているのは間違いないだろうし、目に見える犯人がいるならば、それで終わりにしてしまいたいところだろう。
ただ、その一方で、終わりにできないだけの理由があって、だからアレクシアはここにいる。どれだけ私が鈍くても、そのくらいはわかる。
アレクシアは、落ち着いてこそいるが、ヒルダが犯人であることを疑ってかかっている。実の母が犯人であることを信じたくない、だけなのかもしれないし、何か自分でも言葉にできない違和感を抱えているのかもしれない。
そして、アレクシアの言葉には私もどこか違和感のようなものを感じている。その正体が掴めるまでは、姉が犯人と決め付けるのは尚早に過ぎる。
「なら、最初に死体とヒルダを見つけたのは誰かな」
「母つきの使用人だ。立食の時間に母が姿を消したことに気づいて探していたところ、休憩のために解放していた一室で、オーブリー伯父上の死体と短剣を持っている血まみれの母を見つけた、ということらしい。……が」
「何か引っかかるところがあるのかい?」
アレクシアは腕を組み、思案するように沈黙した。けれどそれもごく一瞬のことで、閉ざされた唇はすぐに開かれることになった。
「使用人が第一発見者かというと、疑問が残るのだ」
その声は、先ほどよりも一段低く聞こえた。
「それ以前に現場を見た人物が他にいたと?」
「見ていたかどうかは定かではない。けれど、もう一人、使用人より前にその場にいたことだけは間違いないのだ」
「もう一人の登場人物、というわけだね。それは誰なのかな」
アレクシアの目が僅かに伏せられ、長い睫毛が目の上に影を落とす。
「私の、双子の妹だ」
双子。それは初耳だが、ひとまずアレクシアが話すのに任せることにする。重要なのは、その双子の妹とやらが何を見ていたのか、もしくは何を見ていなかったのか、だ。
「私の妹はニア……、アントニア、というのだが、その日は基本的に母と行動を共にしていた。私もそれは記憶している。ただ、事件直前についてははっきりとしたことはわかっていないのだ。一つだけ確かなことは、使用人が伯父上の死体と母を発見した時、アントニアは部屋のソファの上に寝かされていた、ということ」
「最低でも、その瞬間に意識はなかった、ということだね」
そういうことだ、とアレクシアは一つ頷く。
「母が伯父上を殺した瞬間も意識を失っていた、と供述している。自分がどうしてそこに寝かされているのかもわかっていなかったようで、とにかく記憶にあやふやな点が多すぎる」
「好意的に見るなら、母が伯父を殺すという事件の凄惨さに衝撃を受けて、その時の記憶を無意識に闇に葬り去った、といったところだろうね」
そして、穿った見方をするなら、それらが全て嘘で、何か自身に不都合なことを秘匿しているという可能性が考えられるし、そちらの方がよっぽど現実味がある。アレクシアも私の言わんとしていることはわかってくれたのだろう、軽く肩を竦めて言った。
「当然、ニアの供述は真っ先に疑われた。ただ、捜査が進むにつれ、結局ニアが起きていようが寝ていようが、その場で母さまが伯父上を殺した、という理屈以上の説明をつけられそうにない、ということになったのさ」
「凶器を手にした姉さんがそこに立っていた、という状況以上に明白に犯人を指し示すものがない……、か」
手枷の鎖を指で弄びながら、鉄格子越しのアレクシアを見やる。アレクシアはひとつ頷いて私の言葉を肯定したが、すぐに「しかし」と言葉を続ける。
「ニアは、今もなお、母さまが犯人ではないと信じている。自分がきちんと覚えてさえいれば、とその時のことを悔やんですらいる。わたしは、母さまと、母さまを信じているニアのためにも、ことの真相を知りたいと願っている」
「君が知りたいのではなく?」
「どうだろう。いても立ってもいられなかったのは確かだが、それが本当に『わたしの気持ち』なのかは、わからないままでいるのさ」
アレクシアは鈍く笑ってみせるけれど、その気持ちを私が共有することはできない。私はどこまでも他人であって、アレクシアやその妹、それにヒルダの感じていることを知ることなどできやしないのだ。
ただ、気持ちや感情といった目に見えないものではなく、現実に起きた出来事を詳らかにすることなら、試みることができる。
「そうだね。……なら、一つずつ、順番に考えていくことにしようか」
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:17:07〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <2789文字> 編集
アレクシアは私の答えに軽く息を吐き出して、改まった様子で指を組みなおす。
「では、聞いてもらおう。これは、我が家で起こった殺人事件の話なのだが」
「殺人事件?」
いきなり物騒な単語が飛び出してきて、思わず鸚鵡返しにしてしまう。アレクシアは左右が非対称の笑みを浮かべて言う。
「そう、殺人事件さ。叔父さまの得意分野でもある」
「私は別に殺人が専門なわけではないよ。できない、とは言わないけれど」
誰も彼も、殺す必要がなければ進んで人を殺すことはないだろう。私がそうであったように。そもそも人を殺すものでない、という当たり前の前提は、こと事件が起こってしまえば無意味に過ぎる。アレクシアの言葉を信じるならば、事実として既に殺人は行われているのだ。
「我が家、ということは、エピデンドラム家で起こった事件ということだろう? そんな大事件の最中に、私なんかと話をしていてもいいのかい?」
「何、もう事件はほとんど終わってはいるんだ。人が一人死に、犯人ははっきりしているのだからね」
アレクシアはそう言ってみせたが、その表情は依然として歪んだ笑みのままだ。
人が一人死に、犯人ははっきりしている。
けれど、ただそれだけならば、わざわざ人に……、しかも今まで縁もゆかりもなかった、強いて言えば「血が繋がっているだけ」の私に知恵を求める理由にはなるまい。私は片目の視線でアレクシアに言葉の続きを促す。
「事件は終わっている。普通に考えればそうとしか思えない状況なのだ。わたしもそれで納得しようとした、が、どうにも引っかかる点がある。それを、叔父さまにも一緒に考えてみてもらいたいのだ」
「なるほど」
私は推理小説に出てくる探偵ではないのだけれども。現実に起きたという殺人事件を前に、一体どれだけの知恵が出せるのかもわかったものではない。とはいえ、話を聞くと言った手前、仔細を聞く前からお手上げだと言うわけにもいくまい。
「なら、そうだね。まずはどういう事件なのかを聞かせてくれるかな。誰が、いつ、誰に、どのように殺されたのか。それを聞かずには何も判断できないからね」
アレクシアはひとつ頷くと、よく通る声で話し始める。
「事件が起こったのは、つい先日のことだ。エピデンドラム家当主であるお爺さまの誕生日を祝う場として、エピデンドラムの者が一堂に会することとなった」
エピデンドラム家当主。その言葉に、ふと脳裏に蘇るのは白髪に豊かな髭をたくわえた、見た目だけで言えば好々爺然とした老人の姿だった。見た目だけで言えば、というのは私の経験からくるごく個人的な感想である。
「そういえば、アンブローズ卿は相変わらず殺しても死ななさそうな雰囲気なのかな?」
「ああ、そうか、叔父さまは度々お爺さまとやりあっていたのだっけな。叔父さまの言うとおり殺しても死にそうにないし、実際、今回の事件に関わったのはお爺さまではない」
ただ、流石に今回の事件に際しては随分と気落ちした風らしい、というのがアレクシアの談。正直、人が一人死んだ程度で気落ちする類の人種ではなかったと記憶しているのだが、果たしてそれは私の思い違いであっただろうか。
「その日、その場に集った人々について長々説明する気はない。あくまで事件に関わっているであろう人の話だけしよう。一番明白なのは『被害者』だが、これはわたしの伯父だ。叔父さまは、オーブリー伯父上のことはご存知だろうか」
「エピデンドラムの次期当主だろう。彼が殺されたのかい?」
アレクシアの父方の伯父、オーブリー卿について、本質的なことは何も知らないと言っていいだろう。主に公の場で何度か言葉を交わしたことがあるくらいで、深く関わるようなことは決してなかったから。
「君は誰に対しても親しげに見えて、どこか突き放したようなところがある」というのは友の言葉だが、なるほど今になって考えると、その評はあながち間違いではなかったのかもしれない、と思う。
ただ、そう、オーブリー卿と言われてまず思い出すのはあの姿かたちだ。目の前のちいさな少女と血が繋がっているとは思えない――何せアレクシアはどう見ても母親似である――、縦にも横にも大きな姿をしていて、並ぶと自分の貧相さを思い知らされたことをよく覚えている。
そのオーブリー卿が「殺された」というのがすぐには想像できなくて、つい首を傾げてしまう。おそらく、アレクシアも私が何を考えているのかは察してくれたのだろう、「そう、『あの』伯父上が、だ」とわざわざ強調してくれる。
「伯父上の死因は短剣による刺殺。短剣は現場の部屋に飾られていたものが使用されたようだ。……そして、伯父上を殺した犯人は」
ひとつ、呼吸をおいて。アレクシアはそっと、言葉を落とす。
「わたしの母だ」
一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。魂魄の内側で言葉を反芻してみて、やっと合点がいく。
「姉さんが?」
アレクシアの母ということは、当然ながら私の姉だ。あまりにも当たり前のことを聞き返していると気づいたが、アレクシアはそんな私を笑うでもなく、こくりと頷いて返す。いつからだろう、その表情からは笑みが消えていて、ごくごく真剣に私を見据えている。
思い出してみようとしても、どうしても姉の記憶はあやふやだ。
ヒルダ、今はエピデンドラム。私が学生だった頃にはエピデンドラム家に嫁いでいったはずの姉。彼女についてはそれこそアンブローズ卿やオーブリー卿以上に未知の存在で、私自身の無関心さを今になって思い知らされる。
「しかし、何故姉さんが犯人だと? 彼女がそう言ったのかい?」
私の言葉に、アレクシアはかぶりを振る。「言うまでもなかったのさ」、と。
「何せ、うつ伏せに倒れて死んでいる伯父上が発見された時、母は血まみれの短剣を手に、その場に立っていたのだからね」
確かにそれは疑う疑わない以前の問題だ。頭の中に、倒れたオーブリー卿と、血まみれの短剣を手に幽鬼のように立ちつくすヒルダの姿を思い浮かべる。正直、姉の姿形ははっきりとは思い出せなかったから、私自身に近しい姿を勝手に想像してみるわけだが。
「母さまはそのまま捕まって、今は警察に拘留されている」
アレクシアはそこまで言って、「ここまでで疑問はあるだろうか」と鉄格子越しに私を見上げる。よくよく考えればいくらでも問いは浮かぶのかもしれないが、何せ私は名探偵ではない。だから、真っ先に浮かんだ――それでいて、本筋には全く関係のない問いかけを投げかけることしかできなかった。
「母親が捕まったにしては、随分落ち着いているね」
「うむ、皆にもそう言われた」
アレクシアは口元に微かな苦笑を浮かべてみせる。
「だが、わたしが慌てふためいて何が変わるというのだ? そんなことに時間を使うくらいなら、わたし自身がしたいことをするまで。それだけさ」
「なるほど、とても理性的な判断だね。それで、どうして私を頼ることにしたのかはさっぱりわからないけれど」
本当に理性的ならば、まずそんなことを考えはしないだろうし、そもそも思いつきもしないだろうと思っている。私が誰からも「いないもの」とされて久しいことは、私を訪ねる人物が久しく友一人であったことからもはっきりしている。
けれど、アレクシアはこう言うのだ。
「叔父さまの名前が出てきたからさ」
――と。
「私の?」
「ああ。母さまの殺人が家の中に知れ渡ったとき、真っ先に挙がったのは叔父さまの名前だったのさ。『狂人と同じ胎から産まれただけはある』『流れる血がそうさせたのさ』ってね」
その言葉には、流石に笑いを堪えることができなかった。不謹慎だとは思うが、何よりも馬鹿馬鹿しい。
「おかしなことを言うね。そもそも、私にはエピデンドラム家の血も色濃く混ざっているというのに」
私たちの血はとっくの昔に煮詰めに煮詰められている。「|女王の血《クイーンズブラッド》」を濃く維持するために身内での婚姻を繰り返し、閉ざされた輪の中でひとつの世界を確立してきた我々なのだ。
「それなら、姉さんだけでなく、エピデンドラムもが狂人の血を引いていると言っておかしくはないと思うのだけどね、私は」
そう、今更他人のような顔をしたところで無駄というものだ。
アレクシアは笑う私を咎めはしなかった。それどころか「ふむ」と満足げに頷いてすらみせるのだ。
「叔父さまもそう思うか。全く馬鹿馬鹿しい話だとわたしも思っている。ただ、かの『狂人』たる叔父さまが事件をどう考えるのか、には興味が湧いてね」
私は自分が狂っているとは思っていない――どこかで足を踏み外してしまった自覚はあるけれど、それが「狂っている」かといえば「違う」といえる――が、外からそう呼ばれることには慣れているし、そう評されて当然だとも思っている。
「先刻も言ったとおり、わたしの話を聞き届けてくれる人もいないということもあってね。ここまで叔父さまの知恵を拝借しにきた、というわけさ」
アレクシアの青い目が、「どうだろう」と私の片方だけの目を見据える。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:16:51〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <3742文字> 編集
私がこの塔で暮らすようになってから、面会者など|ほとんど《、、、、》いなかったと記憶している。唯一の例外も最近面会に来たばかりで、次の面会予定までは間があるはずだった。
果たして、わざわざ私に会いに来るような物好きが彼の他にいるのだろうか?
内心首を傾げながらも、先導する刑務官の背中を眺める。独房を出る時には必ずつけられる手枷と足枷が窮屈ながら、その文句は胸の内に留めて、わずか、口の端を歪めるだけで済ませた。うるさい、と口枷まで嵌められてはかなわない。
面会室までの道行きに、他の囚人の姿はない。『雨の塔』にはもちろん他にも囚人がいるはずなのだが、私はその姿を目にしたことがないし、きっとこれからもないのだろうと思っている。私の扱いがしち面倒くさいということは、私自身が一番よく心得ている。
手すりのない長い螺旋階段を降りてゆき、やがて独房よりも通路よりもずっと明るい面会室へと通される。眩しさに、刹那目が眩んだけれどそれもすぐに収まり、部屋を二分する鉄格子の向こうに座っている、どうにも場違いとしか思えない人物の姿を認める。
雨避けだろうか、重たそうな外套を纏った少女は、わずかに湿った柔らかそうな金髪を揺らし、青い目でこちらをひたと見据えて。
「ごきげんよう、叔父さま」
かつての私によく似た顔で、晴れやかに笑ったのだった。
「……ええと」
そう、よく似ている。それに私を「叔父さま」などと呼ぶ人間など限られている、はずなのだけれど。私の戸惑いをどうやら正しく受け取ってくれたらしい少女は、笑顔もそのままに言った。
「アレクシア。アレクシア・エピデンドラム」
「アレクシア……」
アレクシア。もう一度、その名前を口の中で唱える。せめて、今この瞬間だけは忘れないように。
「申し訳ない、最近どうも物忘れが多くていけないね」
「忘れたというよりも、覚える気がなかったんだろう、叔父さまは?」
笑みに似合わぬ辛辣な物言いだが、どうやらこの様子だと私の姪であるらしい彼女は、私の無関心さを知ってくれているらしい。光栄なことだ。
「それで、君はどうしてまたこんな辛気臭い場所に?」
成人にも満たないような少女が訪れる場所でないことは確かだ。遠くから聞こえてくる雨音は、この場所を外界から明確に閉ざしている。わざわざこんな場所に足を運ぶのは、それこそこの場に相応しいという烙印を押された者か、そんな「ひとでなし」に用のある変わり者くらいで、
「少しばかり叔父さまと話をしてみたくなってね」
彼女は、どうやら後者であるようだった。
「それはまた……、物好きなことで。姉さんは止めなかったのかい?」
私の姉は「私と似ていた」という以外に記憶すべきことが何一つない人物だった。いや、本当はあったのかもしれないけれど、外にいた頃の私はそう思い極めていたから、彼女についての記憶はどこまでも曖昧だ。今、アレクシアの名乗りを聞いて、エピデンドラム公爵家に嫁いでいたことを思い出した体たらくだ。
いっそ、「思い出した」というよりも「知った」という方が実情に適っているかもしれない。
アレクシアは完璧な笑みを少しばかり崩して、大げさに肩を竦めてみせる。
「もちろん、言っていないよ。叔父さまに会いに行くなんて言ったら、お母さまどころか家中の人間が止めるだろうさ」
たった一人、止めなかった人物がいたとすれば、アレクシアの後ろにぴんと背筋を伸ばして立つ老従者くらいだろう。彼は私とアレクシアの会話に一言も口を挟むことはなく、ただ、じっと我々を見つめている。
なるほど、霧がかかっていた意識も少しずつはっきりとしてきた。ここしばらく忘れていた感覚だ。もう戻ることはない霧に霞んだ過去ではなく、「今」「ここ」に意識が戻ってきたような手ごたえ。
「……それでもここに来たということは、それだけの理由があるということかな。流石に、ただ『話をしたくなった』だけではないだろう」
「ああ。よかった、監獄生活で耄碌していたらどうしようかと思っていた」
けれど、話をしたいと思ったのは本当なんだ、とアレクシアは言って、微かに首を傾げる。
「それにしても、随分痩せたんじゃないのか、叔父さま」
「そうかな?」
ここに来てからそこまでじっと鏡を見ることもなく、見たところで代わり映えのしない顔が映るだということもあり、意識したことはなかった、が――。
「そうだな、身軽にはなったかな」
「これでも?」
これ、と言った彼女の視線が指すのは私の手元、つまりは手枷であった。確かにこれで「身軽」と言うにはあまりにも滑稽にすぎる。
それでも。
「これでもさ。君にはわからないかもしれないけれど」
私は決して許されることはなく、故に二度とこの塔から出ることも無いだろう。そうして自由を奪われた今の方が身軽に感じられるなんておかしな話なのだが、私の実感としてはそうと言わざるを得ない。
アレクシアは外套に覆われた膝の上でしらじらとした細い指を組んでみせる。
「そうだな。わたしにはわからない話だよ。きっと、わかるべきでない話でもある」
「その通り。健全に生きたいならば、知らないほうがいい。私ほど、真似すべきでない人間もそうはいないよ」
本当に。これだけは、ここに来る前の私でも同意してくれるはずだ。私のような人間は、私ひとりで十分に過ぎる。
そんな自虐めいた気持ちを持て余している間も、アレクシアの双眸はじっと私を見つめている。顔が自分に似ているだけにどうにもやりづらくて、曖昧な表情を浮かべざるを得ない。
一拍、二拍。意識して呼吸を数えたところで、アレクシアのちいさな唇が開く。
「別に、真似をしたいわけではないけれど、その叔父さまの意見を求めたくはあるな」
「それが、君が来た理由かな?」
「そう。どうにもわたしの手に負えない出来事があってね。それについて、叔父さまの知恵を拝借したいというわけだ」
その言葉には、思わず笑いが漏れてしまう。私の後ろに立つ刑務官が僅かに緊張するような気配を醸し出したけれど、知ったことか。
「私が本当に知恵者なら、こんな場所にはいないよ」
強いておどけた調子で、手と手の間を繋ぐ鎖を示してみせる。過去がどうであったかはともかく、今の私はただの囚人に過ぎない。愚かしさによって取り返しのつかない罪を犯した結果、二度とこの雨の塔の外に解き放たれることはない、囚人。
「それに、君の立場なら、ほとんど見ず知らずの私なんかよりもずっと頼れる者がいるだろうに」
「案外いないものだよ。叔父さまもご存知だろう、わたしたちの周りは、互いの足を引っ張り合うことしか考えないものでね」
それは当然覚えがある。誰もが、というのは言いすぎかもしれないが、その「立ち位置」もしくは「存在そのもの」を狙う者は常にどこかにいる。どこかにいる、という前提で考えるなら、隙を見せるような真似はそうそうできない。それが|貴族《クイーンズブラッド》の頂点に限りなく近い者たちの下らない日常なのである。
「その点、叔父さまには今更何を話したところで、何が変わるでもない。そうだろう?」
「それはそうだね」
私にはアレクシアの足を引っ張る理由もないし、仮にあったとしてもこの場から何ができるわけでもない。アレクシアからすれば、格好の「話し相手」ではあるのかもしれなかった。……あまり、おすすめしてよいものではないとは思うけれど。何せ私はこの通り、ろくな人間ではない。
とはいえ、わざわざ訪ねてきた少女を追い返すのは忍びなく、それ以上に、あえて「私」を訪ねてきたアレクシアに興味が湧いたのも事実であった。果たして彼女がどのような話を持ってきたのか。それを私に話すことにどのような意味があるのか。
私が話を聞く姿勢になったのを察したのだろう。アレクシアは「ふふ」と微かに笑って、それから背筋を伸ばして私を真っ直ぐに見据える。
「わたしの話を聞いてくれるかな、叔父さま」
「構わないよ。お役に立てるかどうかはわからないけどね」
話を聞いても、聞かなくても、何が変わるわけでもないのなら。普段といささか異なるこの時間を享受しても許されると思いたい。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:16:34〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <3390文字> 編集
馬車はがたごとと揺れながら行く。
窓には金属の覆いがかけられていて、外の様子を窺うことはできない。今どこにいるのか、どのような道を通っているのか、何一つわからないまま、揺られるがままになっている。
車輪が小石を蹴ったのか、少しばかり大きく揺れた時、金属の触れ合う音が一際強く耳に響いた。そういえば、手枷と足枷から伸びる鎖の音にも随分慣れてしまった。姿勢を変えることもままならない窮屈さも、こうなる以前から似たようなものだったと思えばどうということもなかった。
そうだ、さしたる違いはない。私の立っている位置が、少しだけ変わったくらいで。
いつもの癖でこれから先のことを考えようとするけれど、もはや帰る場所も行くべき場所もないのだ。私に「先」など無いのだと、思い至る。
やがて、馬車の揺れる音に、屋根を叩く音と濡れた地面を走る音が混ざり始める。徐々に目的地に近づき始めているのだと気づいたけれど、そこに何の感慨も浮かぶことはなかった。
「もうすぐ到着だ」
重々しい声が響く。私は焦点の合わない目を上げて、けれどそれ以上何ができるわけでもないから、ただ瞼を伏せる。
この道の先にあるものは、私にとっての「終点」。
それは、雨に閉ざされた塔の形をしている。
今となっては遠い記憶を思い出していた。
馬車に揺られていた記憶。ここに辿り着くまでの、最後の記憶だ。
それがいつのことであったかは定かではない。遥かな昔であったようにも思えるし、遠いと感じていながら、実はつい先日のことであったかもしれない。何しろ日付を数えるのをやめてしまって久しい。確かめようと思えば確かめられるのだろうが、何となくその気にもならなくて、ただ、ただ、横になったまま、ぼんやりと雨の音を聞いている。
――『|雨の塔《レイニータワー》』。
その呼び名の通り、今日も遥かな高みに穿たれたちいさな窓は、鈍色の雨模様を映している。
少しばかり視線を動かせば、すっかり見慣れてしまった石壁と、それから本来壁であるべき一面に嵌め込まれた鉄格子。その向こうからは、直立不動の刑務官が鋭い視線をこちらに向けている。
「……飽きないのかい?」
問いかけてみるけれど、未だ名も知らない刑務官は答えないどころか微動だにしない。この独房に来た当時から何度も試してみているのだけれど、私が語りかけても刑務官たちが答えを返してくれたことはない。おそらく、話すことを禁じられているのだろう。全く、よく調教されているものだと思う。
このどうしようもない静寂にも、いつしか慣れきってしまっていた。絶えることのない雨の音、じっとりとした重苦しい空気、めったに開くことのない鉄の扉。その全てが当たり前になった今、私はぐるぐると終わりのない思索を続けている。
このまま、まどろみのままに雨に溶けることができたら幾分気が楽なのだが、その一方で私はまだ溶けて消えるわけにはいかない。それだけの理由がある。
せめて、少しくらいは体を動かしておいた方がいいだろう、と身を起こしたその時、不意に監視役の刑務官が私から意識を外したのがわかった。そちらに視線をやれば、別の刑務官が扉の前にやってきて、珍しく口を開いたのだった。
「面会だ」
「……面会?」
聞き返しても答えは帰ってこなかった。そこだけはいつもの通りだった。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:16:17〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <1407文字> 編集
天井近くに開いたちいさな窓から覗くのは、昨日と同じ鈍色の天蓋だ。その前も、そして明日も同じであろうそこから、しとしと雨が降り続いている。
『|雨の塔《レイニータワー》』。
ここは女王から見放された地。草木どころか苔すらも生えることなく、雨ばかりが降り注ぐ不毛の丘の上に建てられた監獄塔。
そうして自分の居場所を思い出して、自分が誰かを思い出そうとするけれど、どうしても散り散りの……、それこそ目に映る窓くらいに切り取られた断片的な風景しか思い出せないでいる。
そうして手のひらから雨のように零れ落ちゆく記憶を求めて、何度も、何度でも、ちいさな窓から過去を見据える。私が監獄にいる理由。私が何者であったかだけは、忘れないために。
by admin. ⌚2024年8月2日(金) 22:15:34〔111日前〕 レイニータワーの過去視 <329文字> 編集
気づけば、目の前に見知らぬ光景が広がっていた。
雨はいつの間にか止んでいて、夜霧の中に浮かぶのは、色とりどりの霧払いの灯に照らされた巨大な門。その向こう側には暗い霧に霞んで見えないが、いやに明るい場所であるということだけはわかる。ほとんど光の塊にしか見えないそれが何なのかわからないまま、私はぼんやりと門の前に立ちつくしていた。
「お客さま、入場券はお持ちですか?」
不意に声をかけられて視線をやると、今時劇場でしか見ないような、派手かつ古風な服に身を包んだ人物がこちらに向かって手を差し伸べていた。服装ははっきりと見えるのに、不思議なことに顔立ちは霧がかかったかのように曖昧で、声も男のものなのか女のものなのか判然としなかった。
それにしても、入場券など持っているはずもなかったから、首を横に振る。手に取ることが許されているのは、それこそ誰かの目を通した後の手紙くらいで……。そう、そもそも私がこんな見知らぬ場所にいること自体何かがおかしいのだ、と気づくのと同時に霧のような人物が「おや」と声を上げた。
「当日券をお持ちではないですか」
その言葉に、私はほとんど反射的に自分の手元に視線を向けていた。
確かに、その人物の言うとおり、私の手は何かを握っていて……、恐る恐る手を開いてみれば、風船を手にした一人の少女の影を描いた入場券が握られていた。
次の瞬間、ひょい、と私の手から入場券を取り上げられたかと思うと、忽然と私のそばにいたはずの人物は姿を消していた。代わりに、音もなく門が開き……、途端に、色とりどりの光と賑やかな音の洪水が溢れ出してきた。
呆然とする私の耳に、音の中でもよく通る声が、響く。
「ようこそ、『夢幻遊園地』へ。一夜の夢を、お楽しみください」
――ああ、これは、夢なのだ。
一拍遅れて、私は自分が置かれている状況を理解した。
何しろ、私の身体は『雨の塔』にあるはずで、二度とあの雨降る場所から離れられるはずもなくて。このような、賑やかな場所とはとんと無縁であるはずだった。
だから、これは夢なのだ。夢の中の遊園地。遊園地、というものを現実に体験したことのない私の、想像が生み出した何かなのだと、夢の中にしてはいやに明晰な思考で判断する。
本物と見まごう馬や馬車が動きながら巡っていく回転木馬に、線路の上を走っていくきらびやかな車。奥に見える、空に向かって回る巨大な輪のようなものは、観覧車だろうか。一度遠目に見たことのある移動遊園地のことを思い出しながら、ぼんやりとその場に立ちつくす。
……残念ながら、遊園地を前にしてはしゃぐような時代はとうに過ぎ去ってしまっていて、それらをどう楽しめばいいのかもわからない。それこそ、迷子になってしまったような心持ちで、門の方を振り返った、その時だった。
「……叔父さま?」
凛、と響く声。未だに耳慣れているとはいえない呼び声に視線を向ければ、風船を手にした少女がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「やっぱり叔父さまだ。どうしてこんなところに?」
「アレクシア」
そうだ、アレクシア・エピデンドラム。私の姪。彼以外に唯一、私に会いに来たと『雨の塔』を訪れた少女。夢の中でも身間違えようのない彼女は、かつての私によく似た顔で私を見上げる。
「どうして、……と言われても困るな。気づいたらここにいたんだ。ここがどこなのか、どうやって迷い込んだのかもわからない」
いつの間にか手にしていた入場券、どこにあるのかもわからない遊園地。けれど、私がここにいるのも、彼女がここにいるのも、夢の中の出来事だというなら、そういうものだと思うしかない。
夢のアレクシアはそんな私の答えをどう捉えたのだろう。猫のように笑いながら言うのだ。
「なら、わたくしめが案内して進ぜよう。さあ、お手をどうぞ、叔父さま」
今、アレクシアと私の間に鉄格子はなく。夜霧に灯る明かりの下、|芍薬《ピオニー》のような色と質感の服を纏った少女は、私にむかってしらじらとした手を差し伸べる。
果たしてその手を取ってもよいのだろうか。
『雨の塔』では、誰かに触れることは許されていなかった。時に刑務官の手が私に触れることはあっても、この手を伸ばして誰かの手を掴むということは一度もなかったと記憶している。
だから、一瞬、躊躇った。その手を取ってしまえば、……私は、二度と『雨の塔』に戻れなくなってしまうのではないか、と。
けれど、私の逡巡など知ったことはないアレクシアは、差し出しかけた私の手を取る。絡められる指先に温度はなくて、人の肌に触れているという感覚も薄かった。これもまた、夢の中だから、なのかもしれなかった。
片手の風船を揺らすアレクシアに手を取られて、歩き出す。あたりを行き過ぎる人々は皆のっぺらとした影のようで、きちんとした人の形を持っているのは、この世界に私とアレクシアだけであるかのような錯覚を覚える。
「叔父さまは遊園地は初めてかな」
アレクシアはゆっくりと歩みながら言う。あちこちの明かりに照らされているからだろう、地面に落ちた影が複雑に重なり合い、不思議な形を描いている。二人分の足が、その影を踏みながら奥へ奥へと進んでいく。
「そうだね。遠目に眺めたことがあるだけだ。遊園地が各地を巡る頃には、とっくに大人になってしまっていたからね」
「そうか。叔父さまが学生の頃は、まだ戦中だったか」
そう、私が物心ついた頃に理解したのは、この国が長き戦争に厭いているということだった。結局、諸々の出来事が重なった結果なし崩し的に終戦を迎えることになったが、それまで娯楽らしい娯楽はほとんど許されていなかったと言っていい。
だから、各地を巡業する移動遊園地を見るようになったのも、私の感覚ではつい最近のことだ。私の時間の感覚がどれだけ正しいかは怪しいものだが。
「仮に今の私が幼子だったとしても、果たして遊園地に赴いていたかどうか。そんな自由が、あったかどうか」
夢の中にありながら、唯一まるで本物らしく存在するアレクシアは、青い双眸で私を見上げる。
「……叔父さまは、自由になりたかったのかい?」
「いや」
その言葉には、ほとんど反射的に否定していた。
「そもそも、自由というものがわからなかったよ。だから、別に自由を願うこともなかった。何となく言葉の意味がわかるようになったのは、それこそ、『雨の塔』に来てからだね」
かつてそう言ったとき、私の友は衝撃を受けたようで、酷く傷ついた顔で私を見たのだと思い出す。別に彼が悪いわけではない。気づいていなかったのは私で、だからこれはどこまでも私自身の問題でしかない。
果たしてアレクシアは不思議そうに首を傾げるだけだった。多分、アレクシアにはわからないだろうし、わからなくてよいのだと思っている。これがそもそも「わからなくてよい」と思っている私の夢である、と言ってしまえばそれまでなのだが。
とにかく、私が語れることはあまりにも少なくて、だから話を変えることにする。
「アレクシアは、遊園地というものをよく知っているのかな」
「いや、わたしも現実に遊園地に行ったことは一度だけだよ」
意外なことに、アレクシアは首を横に振ってそう言ったのだった。
「近くに移動遊園地の巡業がやってきてね。ニアが行きたがっていたところを、爺やが内緒で連れ出してくれたんだ。あれは楽しかったな」
――という設定、なのだろうか。私の魂魄が作り出した夢にしては妙に細かなところまで決まっているものだと感心する。感心したという事実も、目覚めた頃にはすっかりぼやけた輪郭になっているのだろうけれど。
アレクシアはぱっと顔を上げると、ひんやりとした手で私の手を引く。
「叔父さま、あれに乗ってみないか?」
アレクシアの視線の先には、先ほども遠目に見えていた回転木馬があった。馬は近くで見れば見るほど本物じみて、今にも動き出しそうに見える。それもまた、夢だからなのかもしれないけれど。
回転木馬はアレクシアを待っているかのように、今は動きを止めている。そこに迷わず駆け寄っていくアレクシアについていきながら、ふと、ずっと聞きそびれていたことを聞いてみることにした。これが夢だと、つまりは私の自己満足でしかないと、わかっていながら。
「アレクシア。君は、私のことが恐ろしくはないのかい」
「叔父さまのことが?」
アレクシアは足を止めて振り向く。意外なことを聞かれた、という顔だった。
それから、鉄格子越しにも見た猫のような笑みを浮かべてみせる。
「最初はどういう人なのかと思っていたが、まるで恐ろしくはないな」
ただ、と。言葉を切って、真っ直ぐに、私の、ひとつしかない目を見上げて。
「どうして、あんなことをしでかしたのか、と不思議に思うだけで」
そう、言うのだ。
そして、アレクシアは別に私の答えを欲していたわけではないのだと思う。ひときわ大きな木馬に跨ると、私を手招く。戸惑いながらも、アレクシアが望んでいるらしいのだからいいのだろうと思うことにして、アレクシアの後ろに跨って彼女の体を支える。アレクシアの体は思ったよりもずっと小さくて細く、そして冷たい。
アレクシアは私の胸に体重を預けながら、ぽつりと呟いた。
「叔父さまは、あたたかいのだな」
そうだ。私には、まだかろうじて、血が通っている。
その事実を思い出すと同時に、アレクシアの体の冷たさが無性に不安になってくる。全て、私が勝手に思い描いている夢だというのに、奇妙な話ではあるが――不安になったのは本当だ。
「アレクシア、」
呼びかけた声は、突如として流れ始めた音楽に遮られる。華やかな音楽に乗せて回転木馬が動き出す。アレクシアが、今ばかりは無邪気な少女の横顔を見せていて、無粋な問いかけは喉の奥に飲み込まれたままになる。
腕の中に少女のかたちを抱えた私を乗せて、木馬は回る。
――雨の降らない夜は、まだ始まったばかりだ。