幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

影絵と魔女
 その『異界』は、全てが影でできていた。
 黄昏時を思わせる空を背景に、立ち並ぶ建物は全てがのっぺりとした影の色。道行く人々も全て影で描かれており、それが幻なのか実体なのかも定かではない。
 Xはその中の一人に語り掛けようとしたが、立ち止まりすらしない。次の人も、そのまた次の人も。Xの声が聞こえていないどころか姿すら見えていないのか、すっとXの前を行き過ぎて、道の先を行く影に混ざって消えていってしまうのであった。
 これにはXも途方に暮れたのか、そばにあった街灯に寄りかかる。街灯の柱は凹凸も感じられない質感ながら、Xの体重を受け止めてそこにあり続けている。
 空はゆるやかに色を変え始めていた。赤みを帯びたそれから、闇へ。すると、シルエットの街灯からどういう仕組みかはわからないが柔らかな光が放たれる。いくつかの影は闇に紛れ、いくつかの影は街灯の明かりに浮かび上がる。空に星はなく、建物と同じようにのっぺりとした闇だけがそこにある。
 そんな中で、Xだけが影に紛れることなく、立体感を持った「人」としてそこにあるようだった。Xは自分の目の前に手を翳し、その存在感を確かめる。『異界』によっては、自分の存在までもが『異界』に侵食されるようなこともあるから。
 いつの間にか人影も絶えていて、辺りは酷く静かになっていた。いや、元から静かではあったのだ。影の人々に声や足音はなかったから。ただ、動くものが視界に見えなくなったことで、聴覚以外の部分が「静かだ」と感じ取っていた。
 その時、不意にディスプレイの端で何かが動いたように見えた。Xもそれに気づいたのか、そちらに視線を向けて――目を見開く。
 ゆっくりとこちらに向かって歩んでくるのは、影の人ではなく、Xと同じような「人」だった。闇に溶け込むようなドレスを身に纏い、尖った帽子の下から同じ色の黒髪を伸ばした女性は、高らかにヒールの足音を響かせながらこちらに歩んできて、人形のような白い面に笑みを浮かべた。
「あら、ごきげんよう。こんなところで『ひと』に会うなんて、久しぶりね」
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 そして、『異界』――今まさに私がディスプレイ越しに見ている影絵の街において、Xの行動はX自身に委ねられている。故に、この、女性に見える『異界』の存在に対して、Xがどういう行動を起こすのかを観測しなければならない。
 Xは女性をしばし観察していたようだが、やがて口を開く。
「ごきげんよう。私や、あなたのような『ひと』は珍しいのです?」
「あら、あなた、知らないでここにいるの?」
「初めて訪れた場所です。……ここについては、何も知らなくて」
 発見した『異界』に対して、事前にXが「存在できる」場所かどうかのチェックは行うが――場所が海の底や空の上だったとしたら、いくら意識体とはいえそれを「現実」と判断した脳が焼き付きかねない――、それ以上の観測はXの『潜航』を待つことになる。故に、常にXは「どこかもわからない」場所に潜ることになる。
 けれど、女性はそんなXの言葉を「信じられない」という顔で聞いて、それからくすくすと笑ってみせる。
「随分行き当たりばったりなのね」
「そうかも、しれません」
「それでも世界を渡ることができるんだから、私と同じで、普通の人ではないわよね。あなた、何者なのかしら?」
「何者、と言われても。そう言うあなたこそ、何者ですか?」
 逆に問い返されて、女性は「あら」と笑みを深める。
「わからない? それとも『わからないようなところ』から来たのかしら?」
 女性は黒いドレスの裾を翻してみせる。先が尖った帽子の色も闇に溶けそうな黒。それらが意味するところを、私はおとぎ話の中でしか知らない。街灯の明かりの中で、闇を切り取ったような女性の姿をしばしぼんやり眺めていたXは、ぽつりと答えた。
「……『魔女』、ですか?」
 それは、まさしく私の頭の中に浮かんだ言葉とそっくり同じものだった。女性はその答えを聞いて、満足そうに頷いてみせる。
「魔女を見るのは初めて? おとぎ話だけの存在だと思ってた?」
 否、おとぎ話というのは現実の側面を切り取っている。神隠しが現実のものであるように、魔女の存在もまた、古くから語られ続けているだけの理由があるはずだ。そして、こうして『異界』を渡り歩く存在がXの他に存在するのは当然だとも思う。それでも、実際に目にすると驚きが勝るというものだ。
「取得できるだけの情報を取得して」
 スタッフに指示を下して、私はディスプレイとスピーカーに集中する。
 Xは女性の言葉に少しだけ首を傾げてみせながら、言う。
「おとぎ話だけではない、とは思っていましたよ。ずっと」
「そう。まあいいわ、それであなたはどうやって世界を渡ってきたのかしら。その口ぶりだと、わからずに迷い込んだってわけではなさそうだし」
「……そういう、装置があるんです。まだ、実験段階ですが」
 わずかな逡巡は、自分の状況を語っていいものか迷ったことによるものだろう。私は禁じてはいないけれど、それは「語る機会がない」と思っていたからだ。これからはその可能性を考慮する必要があるだろう。
 ともあれ、魔女だという女性は「へえ」と目を見開いて、驚きの表情を作ってみせる。
「ひとの世も進んだものね。魔法でもなく、こんな場所まで辿り着けるなんて」
「ここが、どのような場所か、ご存知なのですか?」
「ええ、もちろん」
 魔女は帽子の位置を直してみせながら、すらすらと言葉を紡いでいく。それは、どこか歌うようですらあった。
「ここは世界の影。どこかにひとつの世界があるなら、必ずその世界には影が落ちる。光と影、表と裏、現と夢、そういう関係と言えばいいかしら。だから、表側の存在であるあなたとこの世界の者たちが交わることはないわ」
「……なるほど?」
 今のは絶対に理解していない時の「なるほど」だな、と私にはわかった。Xはわかったような顔をしながら時々さっぱり何もわかっていないことがある。魔女にもそれが伝わったのか、顔に浮かんでいた笑みが苦笑に変わる。
「あなた、何だかとぼけた人ね」
「そうですかね」
 Xは相変わらずのぼんやりした調子で、見ているこちらが気勢を削がれてしまう。その時、スピーカーから聞えてくる音声に猫の鳴き声が混ざった。ディスプレイをよくよく見てみれば、影になっていた部分からそこに溶け込みそうな黒猫がひょこりと光の中に歩み出したところだった。Xの視線も、魔女の視線もその黒猫へと移される。
「あら、もう行かなきゃだわ」
「どちらへ?」
「こことは、別の世界へ。これでも忙しい身なの」
 魔女はにこりと微笑み、足元までやってきた猫をよいしょ、と抱え上げる。それから、Xに向き直って言う。
「そうね。別れる前にひとつ、魔法をかけてあげる。あなたの道行きを、祝福する魔法」
 と、言って、魔女は一歩Xに近づくように踏み出して。空いた片手をこちらに差し出し、Xの顔の辺りに持ち上げて……、すぐに、引っ込める。魔女の整った顔が少しだけ歪められて、それから何かを納得したような表情に変わる。
「と、思ったけど、やめておくわ」
「何故?」
「あなたから、他の女の匂いがするから。妬かれたら面倒だもの」
「他の女の匂い、ですか……?」
 Xが不思議そうな声を上げるけれど、魔女は自分の中で納得できる答えを既に見つけているのだろう。それ以上言及することはなく、黒いドレスを翻してXに背を向け、ちらりとこちらを振り向いてみせる。
「それじゃあね、旅人さん。また、どこかの世界で会えたら嬉しいわ」
 それも妬かれてしまうかしら、なんて付け加えて。魔女は猫を抱いたまま、街灯の明かりの外、闇の中に溶けていく。ヒールの高らかな足音と共に、にゃーん、という鳴き声が響いて……、やがて、それも遠ざかっていった。
 Xは魔女の気配が完全に消えるまで、彼女が消えていった方向をじっと見つめていた。影の世界には静寂が戻り、Xの呼吸の音だけがスピーカーからわずかに漏れ聞こえるだけだった。
 
 
 結局、影の『異界』ではそれ以上の収穫はなかった。
「お疲れ様、X」
 自分の肉体に戻ってきたXは感覚を確かめるように手首や足首をぶらぶらさせていたが、私が声をかけるとこちらに焦点のずれた視線を向けてきた。
「今回の『潜航』は面白いものが見られたわね。魔女……、世界を渡る者と出会えたのは大きな一歩だと思うわ」
 そう、『異界』そのものからの収穫はともかく、世界を渡る存在を観測できたのは確かな収穫であったと言えるだろう。魔女だと言っていた彼女についてもう少し知ることができれば、『異界』への『潜航』の効率化や、新たな『潜航』方法の確立に繋がっていくのではないだろうか。
「けれど、彼女、別れ際に気になることを言っていたわね」
 魔女はXに魔法をかけようとした。曰く「道行きを祝福する魔法」。けれど、その途中で突然「他の女の匂いがする」という奇妙な理由でやめてしまったのだった。正直に言えば、魔女の魔法というものをこの目で確かめたくはあった。Xにどのような影響が出るかはわからなかったが、元よりそういうイレギュラーな影響も加味した上でXを異界潜航サンプルとして運用しているのだから。
 果たしてあの時、魔女はXから何を感じ取ったのだろう?
「発言を許可するわ。心当たりはある?」
「……今は、あなたくらいしか、付き合いはありません」
 それはそうだ。このプロジェクトで現状Xと直接付き合っている「女」は私一人だ。男女比に他意はなく、偶然この場に集まったスタッフがそう、というだけなのだが。
 だが、別にXに魔法をかけようとも何をしようとも「妬く」ような関係性ではない。むしろいくらでもやってくれていい、とすら思っているのだから。だとしたら、もう一つ質問を加えてみることにする。
「あなた、『今は』って言ったけど、過去に何かあった?」
「大したことでは、ないですよ」
「大したことかを決めるのは私であって、あなたではないわ」
 それはそうですね、とXは少し俯き加減に、彼には珍しくどこか苦いものを噛みしめるような面持ちになって、言う。
「いましたよ、一人。……思いを寄せる、ひとが」
 常日頃から、心を動かすということに縁遠そうなXが「思いを寄せる」という言葉を使ったことに驚きを覚えずにはいられなかった。もちろん、その人生のうち、思いを寄せた人の一人や二人いてもおかしくない、とは思うのだが――。
「つまり、そのひとに妬かれるということ?」
「ありえませんよ」
 私の仮定を、Xはばさりと切り捨てた。それから、手錠をしたままの手で顔を覆って、けれど私が思うよりもずっとはっきりとした声で、こう、言った。
「彼女は、もう、どこにも、いませんから」

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